第69話 夢の中でも
第二章の最終話です。
前話数日後
ケンが次にメリエンネ王女を訪問した時、当直の近衛兵はケンの顔を見ただけで何も言わずに哨所を通過させた。
メリエンネの部屋に向かうと、出迎えたスザンネも何も言わずにケンを通した。
王女はケンから視線を逸らせて小声で挨拶をし、二人は言葉少ないままに歩行の練習を始めようとした。
ケンが車椅子の前に立ってもメリエンネは顔を上げない。
腕を取って立ち上がらせようとしてもメリエンネの手には力が入らない。
その顔は寂しげで緊張しており、何か言いたげでもある。
見ていると、口を繰り返し開こうとしては止めているのがわかった。
「メリエンネ様」
ケンが呼び掛けると、メリエンネは恐る恐る顔を上げた。
「俺、前回に来た時に言いたいことを上手く言えなくて。もう一回言ってもいいでしょうか」
「何でしょうか?」
メリエンネの声が緊張で強張る。
ケンは躊躇したが、ここで引き下がってはいけない。
準備して来た言葉を頭の中で繰り返す。間違わないように、言い洩らさないように。
顔が赤くなるのがわかったが、気にしないことにした。
「俺、メリエンネ様が歩けるようになるまでは、何度でもここに来ます。歩けるようになっても、メリエンネ様がもういいとおっしゃるまでは、練習をお手伝いします」
「ケン殿……」
ケンの言葉の途中から、聞いていたメリエンネの顔に赤みが差して来た。
ケンの腕を持つ手が震えるが、ケンはそのまま語り続ける。
「俺、マレーネ殿下に相談したんです。そうしたら叱られました。俺、知らなかったんです。俺の齢で勲爵士に任じられるのは普通じゃないんだって。貴族方に目立って、いろいろ言われたり、陥れようとする奴もいるかも知れないって言われました。何も知らない俺がそれに一人で立ち向かえる筈もないでしょうと。メリエンネ殿下はそれを心配してくださったんですよと」
「……」
「俺、メリエンネ様のお心に有難く甘えさせていただきます。それで、お守りいただく分も、精一杯訓練をお手伝いします。そして馬車に乗れるようになったら、約束通り俺の村を見に来てください。俺が案内しますから。俺の村をメリエンネ様に見て欲しいです」
それを聞いてメリエンネの眼が潤んだ。
ケンの腕を持つ手に力が籠る。
ケンが慌てて支えると、メリエンネはゆっくり、だがしっかりと立ち上がった。
二人の顔と顔が、正面から向き合う。
少しの間、見つめ合った後にメリエンネは恥ずかしそうに微笑みながら言った。
「ケン殿、練習を始めてください。一日でも早く、貴方の村へ行けるように」
「はい、メリエンネ様」
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ケンが訪問した回数が両手の指で数えられなくなる頃、メリエンネはケンの腕につかまって、部屋を何往復か歩くことが出来るようになっていた。
微笑み合いながら練習をした後は、休憩のためにテーブルを挟んで向かい合い、お茶を飲むのが習慣になっている。
「いつも思うのですが、メリエンネ様と向かい合って座るなど、畏れ多いことです」
今更ながら困ったように言うケンに、メリエンネは「まあ」と言った後にわざとらしく取り澄まして居丈高な声を出した。
「王女としての命令です」
「私はユークリウス殿下の臣下ですが」
「良いからお座りなさい」
「はい」
ケンは苦笑いしながら椅子に腰掛けた。
その様子は嫌そうに見えはしない。
メリエンネは嬉しそうに笑うと、打って変わっておずおずと尋ねた。
「私は国のあちこちの事を知りたいのです。ケン殿が教えてください」
「そう言われましても、私が郷里以外で行ったことがあるのは、クリーゲブルグ閣下の御領の領都とこの王都ぐらいです」
「ケン殿の故郷の事を詳しく教えてくださる?」
「はい。何をお知りになりたいですか?」
「そうねえ……家は何軒ほどあったのですか?」
「そうですね。40ほどでしょうか」
「40軒。少ないのですね。それが全部一か所に固まって建っているのよね」
「全部ではないですね。粉屋のフレースは川の側に水車小屋を建ててそこに住んでいましたし、樵のホルツは森の近くに作業場を作っていました。鍛冶屋のシュミットも、その近くに住んでいましたね。槌音で村に迷惑を掛けてはいけないからと言っていました」
「ケン殿の住んでいたのはどこなのですか?」
「私が住んでいた村長の家は、村でも真ん中あたりが小高くなっていまして、その頂上辺りでした。付近は比較的村人の家が多くて、教会も近くて。地図を描いてみましょうか?」
「ぜひ。描いて見せてください。スザンネ、描く物をお願い」
「はい、姫様」
スザンネが紙とペンとインクを持って来ると、ケンは紅茶のカップを脇に避けて紙を拡げ、ペンを手に取ってインクを付けると少し考えて、紙の真ん中あたりに家の形を書いて見せた。
「これが私が住んでいた村長の家だとします」
メリエンネは眼を輝かせてそれを見ている。
ケンはその近くにいくつか小さめの家を書くと、その次にハートの形を書いた。
祈りの時に胸に手を当てる、それを表した教会のシンボルである。
「ここが教会です」
「ケン殿のお話に良く出て来る、マーシーさんの家はどこですか?」
「マーシーは後から村に加わったので、村長の家から少し離れたところ……この辺りですね。後から来た者達の家がその近くにかなりあります」
「マーシーさんは粉屋さんの娘さんと結婚されたのですよね」
「ええ。マリア姉さんです」
「その粉屋さんの水車小屋はどこですか?」
「それは少し離れた川の側ですから……この辺りでしょうか。いや、もっと遠くかな? 間に畑があって、生け垣がこう続いていて……あれ、違ったかな? うーん……」
ケンは腕を組んで目を瞑って考え出した。
メリエンネは微笑みながらケンと地図を交互に見ている。
「(ここがケン殿が育った家。ここが剣術の師匠のマーシーさんの家。剣術の稽古をしたという広場はこの辺かしら。戸締りや火の用心を促すために家々を回るのにはかなり時間が掛かりそう。楢や榛の実を拾い集めた森は川とは反対側だったかしら)」
書き掛けの地図を見ながら、ケンから聞いた話をあれこれと辿ってみる。
想像もつかなかった村の暮らしが少しずつその形を現し、そこに息付くケンの姿が見えるような気がする。
「ケン殿が良く登った塔は、村長さんのお家の側に立っているのですよね。こちら側かしら。……ケン殿?」
返事が聞こえず、指差していた地図から視線を上げてみると、ケンは腕を組んだまま頭を前に垂れて居眠りをしていた。
「姫様の御前で眠り込むとは、無礼な」
「構いません。ドロテア、静かにして。スザンネ、何か掛ける物を」
「はい、畏まりました」
メリエンネはケンの微睡を妨げないように、密やかな声でドロテアに注意をしてからスザンネに命じた。
スザンネが毛布を持ってケンに近づこうとすると、それを止める。
「スザンネ、その毛布をこちらに。私がやります」
「はい、姫様」
王女殿下ともあろう者がとスザンネは躊躇ったが、メリエンネの縋るような目には逆らえず、言われるままにメリエンネの膝の上に毛布を置いた。
メリエンネは音を立てないように気を付けながら、歩く練習で疲れた手で車椅子を懸命に動かしてケンの隣に動いた。
膝の上の毛布を取り、そっとケンの両肩を覆う。
そして俯いているケンの寝顔を覗き込むと微笑んだ。
「疲れているのよね」
小さく呟いてみる。
無理もない、山奥の村の家族や親しい仲間達から離れて、この目まぐるしく忙しない王都に出て来たのだ。心労は溜まっているだろう。
それに近衛で厳しい訓練と座学を受け、貴族らしい振る舞いもマレーネ殿下の所で習っているのだろう。
以前は『俺』だったのに、今日は『私』と言っていた。
慣れない言葉遣いは気苦労も多いだろうに、さらに加えて自分の所へ来ているのだ。
緊張が解ける暇もないかも知れない。
ここへ来る時間を、自分自身を労わることに使って欲しいとも思う。
でもそうすると、ケン殿に会えなくなる。それは哀しく淋しい。
ケン殿の腕に掴まってしっかりと支えてもらいながらおぼつかない足取りでこの部屋の中を行ったり来たりする。
たったそれだけのことが、今の自分には、天上からの光に導かれながら明るい場所へたどり着く唯一の方法に思える。
ううん、違う。どこへたどり着けなくても良い。暗闇の中を彷徨い歩くのでも構わない。
ヴィオラ嬢はユークリウス様からのお手紙の一言一言が宝石だと言っていた。
自分にとっては、ケン殿と一緒のこの時間の一秒一秒、手を取られて歩く一歩一歩こそが、花園一面に咲き誇る一輪一輪の花、その花弁の上で雨上がりの陽光に煌めく一粒一粒の露のような、輝ける貴重な宝物なのだ。
メリエンネは頭をケンの肩にそっともたれさせた。
ケンを目覚めさせることがないように、そうっと。
この人が生まれ育った場所はどんな所なのだろうか。
机の上の地図を見て目を瞑って想像しようとしても王城から殆ど外出したことのない私には、ケン殿がしてくれたお話、書物で読んだ言葉しか思い浮かばない。
見てみたい。訪れてみたい。一緒に歩いてみたい。
メリエンネはあれこれと考えつづけた。
ドロテアとスザンネは座ったまま寝入ってしまった主とその大切な人を見て、困っていた。
姫様とジートラー卿は、眠ったままで肩を寄せ合い、頭をもたせ合っている。
王女と他に仕える者としてあるまじき振舞いではある。
だが、起こすに起こせない。
幸せそうな姫様と安らかそうなジートラー卿の寝顔を見ると起こす気には到底なれない。
ドロテアが溜息をついてスザンネに頷くと、スザンネも頷いてもう一枚の毛布を持って来てメリエンネの身体に掛け、二人はしばし部屋を出て行った。
四半時ほどして二人がメリエンネの部屋に戻ると、扉を閉める音に反応してケンが目覚めた。
肩の重みに気付いて驚く様子をしたので、ドロテアは「ジートラー卿」と小声を掛けて人差し指を唇に当てて見せた。
そして手振りで隣のメリエンネの寝室への扉を指し示す。
本来なら姫様の寝室に男性を入れるなど以ての外だが、この二人の姿を見てはもう今更だろう。
何も無かったことにして、自分達以外の侍女に知られねばそれで良いとドロテアもスザンネも以心伝心で割り切った。
ドロテアの身振りをケンは理解した。メリエンネの頭を自分の肩からそっと外す。
姫様の眠りは深いらしく、目覚める気配は無い。
ケンは立ち上がると、柔らかく脆い壊れ物を落とさぬように、メリエンネの身体を車椅子から抱き上げた。
そして先導するドロテアに付き従ってメリエンネの寝室に運ぶ。
姫様の身体を寝台にそうっと横たえて上掛けを静かに掛ける。
ケンが姫様の側を離れる前に最後に姫様の手を優しく握ったこと、それから彼が去った後に姫様が小声で「ありがとう、ケン殿。いつか、きっと」と寝言を言ったことは、ドロテアもスザンネも、忘れてしまうことにした。
次話からは第三章「争乱」が始まります。




