第59話 歩行練習
承前
「ドロテア、私、ケン殿と訓練します。いいわよね?」
メリエンネの決意を聞いて、侍女のドロテアは嬉しそうな、しかし複雑そうな顔をした。
歩くのを補助するとなると姫様の身体に触れ続けることになる。
未婚の王族の女性が、ただの勲爵士に過ぎず正規の近衛でもない男の手に縋るなど、外部に聞こえれば醜聞になり、貴族から反発と誹りを受けかねない。
だが、それも前回の塔でのこと、そして今既に姫様の手が卿に握られていることを思えばもう今更である。
結局、他の侍女達に見られなければそれで済むのだ。
「はい、構わないと思います」
そしてケンの方を見て心配そうに言った。
「ジートラー卿、姫様はまだ立ち上がられるのがやっとです。訓練はどうかお怪我の無いようにお願いいたします」
ケンに補助されての歩行の練習に侍女ドロテアの同意が得られてメリエンネ王女の顔が輝いた。
「ありがとう、ドロテア」
「いいえ」
ドロテアにとって、姫様の笑顔を見られるのであれば、秘密を保つぐらいどうということはない。
自分と同僚のスザンネの二人が黙っていればそれで良い。
お茶の準備をティーワゴンに載せて戻って来ていたスザンネの方を見ると、やはり溜息をついて肩を竦めている。
どうやら全くの同意見の様だ。
ドロテアはケンの方を向いて頷いた。スザンネも同じ様に頷く。
どうやら二人の同意を得られたと見て、ケンが動き始めた。
「では、早速準備しましょう」
そう言うとメリエンネの車椅子を後ろに引き、大テーブルを軽々と持ち上げて壁際に寄せる。
それを見て、メリエンネが驚いたように言った。
「ケン殿は、やはり力持ちなのですね」
「このぐらいは、普通の男なら誰でもできます。ジーモンやスミソンなら、片手に一台ずつ持ちます」
「そのお二人は?」
「俺の村の鍛冶屋の息子で力持ちなんです。俺と齢が近くて、よく一緒に遊んだり、鍛冶仕事を手伝ったりしました」
「仲の良い御友人だったのですね」
「はい」
名前を出すと、姿が思い浮かぶ。
あいつらは俺が王城でお姫様のお相手をしているなど思いもよらないだろう、などとケンが懐かしい仲間達のことを思い出すうちにも片付けは済み、部屋の真ん中に広々とした空間ができた。
床には分厚い絨毯が敷かれており、もしメリエンネが転倒しても大怪我をすることは無い。
もっともメリエンネを転ばせることなど、ケンは絶対に、その身を捨ててもさせないだろうが。
ケンはメリエンネが乗った車椅子を部屋の端の方に寄せると、中央に向けてから車輪を固定した。
そして王女に正面から向き合うと、指図して自分の両腕を上から掴ませ、自分はメリエンネの腕の肘辺りを下から力強く持った。
「俺の腕を掴んだまま、少し体を前に倒してください。そう、そうしたら今度は俺の腕を押しながら腰を上げて。足と手にしっかり力を入れて……」
メリエンネがケンの言葉に従い体重が椅子から脚に移ったのを見計らい、ケンはそのまま腕に力をこめて支えた。
メリエンネは無事に立ち上がるとケンに向かって微笑みかけた。
「立てました。ありがとうございます、ケン殿」
「どうですか? まだ怖いですか?」
「少しだけ。ケン殿は本当に力持ちなのですね」
「いや、本当に大したことはありません。ですが、村では樵のホルツの手伝いで丸太や材木運びもやりましたから。それに比べれば、小枝ほどです」
「まあ」
「村では、新しく人が来た時に家を建てるのは、村人が全員総出で行います。修繕とかもお互いに手伝ってやりますから。力仕事はしょっちゅうです」
「皆で協力して暮らしているのですね」
「はい。村は皆家族ですので」
「素敵ですね」
ケンが村のことを楽しそうな声で語るのを聞いて、メリエンネもまた微笑んだ。
その翠玉色の瞳が目の前で輝くのを見て、ケンは心臓が跳ね上がるのを感じた。
メリエンネはそれに気付かず、優しい声で返事をする。
「そう、以前も、粉挽きの方のことを優しい声で話しておられました。ケン殿は村の方々を大切に思われているのですね」
何か答えようとしたが、ケンの胸の中は何か熱いもので一杯になり、言葉が出て来ない。
「ケン殿?」
メリエンネが不思議そうに小首を傾げているのに気が付き、顔まで熱くなりそうな気がしてこれ以上は耐えられず、話を切り上げることにした。
「では、歩いてみましょうか。俺を信じて、足を前に出してみてください」
「……ケン殿を信じて。……はい」
メリエンネが右足を前に出そうとして床から離すと、片足では体重のバランスが崩れて右に倒れそうになる。
慌てて右足を戻すところをケンが左手に力を込めて支えると、メリエンネも右手に力を入れた。
「少し怖いです」
「大丈夫です。足を出す時に、体重をもっと前に掛けて、思い切って俺の胸に倒れ掛かるようにしてください。それを出した足で支えるのです」
「ケン殿の胸に倒れ掛かるように?」
「はい、やってみてください」
メリエンネは前回、ケンの胸に抱き上げられたことを思い出した。
恥ずかしさが甦るが、あの時の胸と腕の逞しさを思えば怖さは薄れる。
「こうですか?」
メリエンネはそう言ってケンに向かって体重を掛けながら左足を出そうとする。
だが足が間に合わず、そのまま前に倒れ込んだ。
「きゃっ」
メリエンネが小さな叫び声を上げて倒れたその先は、床ではなくケンの胸の中だった。
思わずケンの腕を離れたメリエンネの両手は、倒れる勢いでケンの胸に置かれた。
その心臓の鼓動が手から伝わって来る。
顔は平静を保っていても、早いリズムを刻んでいることがわかる。
それでもケンの身体は小動もせず、その手はメリエンネの両脇でその軽い体重を支えている。
気がつけば、ドロテアとスザンネは横を向いて二人から目を逸らしていた。
「あ、あの、ケン殿、ごめんなさい」
メリエンネ王女は前回に続くケンの胸の感触に顔を真っ赤にした。
ケンもメリエンネの手と体の柔らかさにどぎまぎしたが、王女殿下にそういう気持ちを持つのは失礼だろうと必死になって押し隠す。
「いえ、大丈夫です。それより、今ので良いです。足が間に合っていれば歩けています。怖さで足が出なかっただけだと思います。もう一度やってみましょう。今度は怖がらずに思い切って踏み込んでください」
「はい」
メリエンネは体勢を立て直して足を踏ん張って立ち、ケンの胸に当てていた手も、もう一度ケンの腕をしっかりと握った。
ケンもメリエンネの腕をしっかりと支えながらもう一度励ました。
「今度はきっとできます。倒れながら素早くしっかりと足を踏み出す。いいですね? ではいきましょう。一、二の、三!」
「はい!」
メリエンネが歯を喰いしばって体重を前に掛けながら、右足を前に出す。
今度は間に合った。
外側によろけそうになるが、ケンは腕に力を込めて支えながら、さらに声を掛けた。
「そうです! もう一歩」
「はい」
「もう一歩」
「はい」
「もう一歩!」
「はい!」
メリエンネは七歩歩いたところで足の力が尽きた。
崩れ落ちるようにまたケンの胸にしなだれかかる。
ケンはそれを優しく受け止め、床に落ちないように両腕を王女の腕の下から背中に回してしっかりと抱きかかえた。
はあっ、はあっとメリエンネが荒い息を繰り返す。
ケンはその身体を支えながら、耳元で優しく囁いた。
「メリエンネ様、歩けましたね」
「私、歩け、たの」
「はい。七歩も歩けました」
「嬉、しい」
メリエンネはそう言うと、ケンの胸に顔を埋めた。
その眼から、涙が一筋零れ落ちる。
ケンは部屋の天井を見上げ、ともすると昂る気持ちを抑えるために、メリエンネと同じように深呼吸を繰り返した。
二人はしばらくそうしていたが、ドロテアが「オホン」と咳払いをすると自分達のしていることに気付き、顔を真っ赤にした。
「メリエンネ様、座って休憩しましょう」
「はい」
ケンの言葉にメリエンネが答えると、スザンネが急いでメリエンネの後ろに車椅子を運び、ケンはか細い王女をそうっと腰掛けさせた。
メリエンネは物憂げに全身を脱力させて背もたれに身を預けた。
スザンネが車椅子を押そうとしたが、ケンがそれを制してテーブルを部屋の真ん中に据え直し、車椅子の持ち手をスザンネと代わると車椅子を揺らさないように柔らかく押してメリエンネをテーブルに向かわせた。
ドロテアがすかさずティーセットを運び、「少し冷めてしまいましたが、運動されたので丁度良いと思います」と言いながらメリエンネの前に置いたカップに注ぐ。
スザンネが「ジートラー卿もお掛けください」と言ってメリエンネの向かいに椅子を置くと、ケンが座るのを待ってドロテアが同じように紅茶を給仕した。
メリエンネの荒い息は収まったが、まだ少しぼうっとしていたようで、ドロテアに「姫様、お召し上がりください」と促されて我に返り、紅茶のカップを手に取ると美味しそうにゴクゴクゴクと一息に飲んだ。
「美味しい……」
「運動されたからですね」
ケンが声を掛けると、メリエンネは嬉しそうに応えた。
「ケン殿、私、歩けたのですよね」
「はい、メリエンネ様。確かに歩かれました」
「嬉しい……。ケン殿のお蔭です」
「いいえ、御自身の御努力です。それに、これまで支えられた侍女様の皆さんのお蔭もあると」
「そうですね。ドロテア、スザンネ、有難う。感謝しています」
メリエンネの言葉に、ドロテアもスザンネも嬉しそうに微笑みを返す。
ケンはまた力強く励ました。
「明日からも頑張って訓練を続けてください。歩けなくても、立ち上がったり座ったりを繰り返せば、足が鍛えられますから」
「はい、頑張ります。……そうしたら、ケン殿はまた手伝いに来てくださいますか」
「いいですよ。マレーネ殿下のお許しが得られたら、また参ります」
「そう。嬉しい」
それ切り王女は何も言わず、静かに紅茶のお代わりを飲み、クーヘンを二口だけ食べた。
そしてドロテアに向かって言った。
「少し疲れました。休みます」
「はい、姫様。ジートラー卿、申し訳ありませんが本日はお引き取りをお願いいたします」
「はい、承知しました。失礼いたします」
返事をして立ち上がるケンに、メリエンネが心配そうに声を掛けた。
「あの、ケン殿、きっと、きっとまた来てくださいね。約束ですよ」
「はい、メリエンネ様」
ケンが頷くと、メリエンネは嬉しそうに頬を紅潮させて笑顔になった。
不安の色が消えて華が咲いたようなその顔を見て、ケンは胸の奥を掴まれ息ができなくなったような気がした。
ケンがメリエンネの部屋を辞した後の帰り道、あるいはその日の夜にメリエンネの部屋での出来事を思い返した時も、心に浮かぶのはメリエンネが最後に見せた笑顔だけで、お茶とクーヘンの味は全く憶えていなかった。
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メリエンネはケンが帰った後に寝室に移動し、寝支度を手伝うドロテアとスザンネに上ずった声で話し掛けていた。
「スザンネ、ケン殿が、名前で呼んでくださいって」
「姫様、それは良かったですね」
「ええ。名前で呼んでいるのは、マレーネ様やユークリウス様の側近の方々と、御出身の村の家族同然の方々だけですって。ドロテア、ケン殿に尋ねてくれてありがとう」
「いいえ。それだけジートラー卿が姫様のことをお近しく感じておられる証拠ですね」
「そうかしら。ただの礼儀でおっしゃっただけじゃないかしら。だって、ドロテアにも名前でって」
「いいえ。あの方が礼儀作法に不慣れだとは、姫様が御自分でおっしゃったでは無いですか。そのような礼儀は御存じないのは明らかです。姫様とお近しくありたいと思われたに違いありません。それに侍女の私にそうおっしゃったのは、姫様に名前呼びを受け入れていただけた気恥ずかしさをごまかすためと、私には思われます。私の見たところ、姫様の御様子に卿も喜んでおられました」
「私もそう思います。この部屋に卿を御案内した時、恥ずかしそうに躊躇っておられましたので。少なくとも姫様のことを好意の目でみておられると思います」
「そう? 二人とも本当にそう思う?」
「「はい、そう思います」」
「そう……。私、歩いたの、もう何年振りかしら。憶えていないぐらい。歩いて、ケン殿の胸の中で支えられて……。ねえ、ドロテア、スザンネ、ケン殿は私のこと、迷惑に思っていないかしら」
「いいえ、そんなことはないと思います」「そうです。姫様が歩かれて、卿もとても嬉しそうにしておられました」
「そうかしら。私が倒れかかった時、ケン殿が確かにびくっとされたの。はしたない女だって思われなかったかしら。王女のくせに、とか、私に触られたくない、とか」
「「いいえ、決して思っておられません」」
「本当に?」
「はい、それより早く横になって今のことを思い起こしながらお休みください」「姫様、きっと良い夢がご覧になれます」
「本当に?」
「「はい、間違いありません」」




