第57話 恋心
前話暫時後
菫との逢瀬を済ませたユーキは、ケンが待つメリエンネ王女の部屋に戻った。
戻って来てみると、メリエンネはぼうっとしていて、ユーキが何を話し掛けても上の空で「ええ……」「……そうですか」と生返事しかしなかった。
ユーキはそれが気に掛かったが、体調が悪くなったのではないかと心配して、早々に辞することにした。
帰りの馬車の中で、ユーキはケンに尋ねた。
「ケン、メリエンネ殿下と何かあったの?」
「い、いえ! 別に」
「ふーん」
ケンは虚を突かれて声が大きくなったが、ユーキはそれ以上は何も言わなかった。
ケンは今日のことを反芻していた。
王女の清楚な姿を思い起こして何度考えてもわからないことがあった。
恐る恐るそれをユーキに尋ねてみた。
「殿下、あの、メリエンネ様のお体の具合はどうなのでしょうか」
「どう、とは?」
「その、何と言うか、あんなに細くて、軽くて、折れてしまいそうで……」
「軽くて?」
「いや、あの、見た目にも軽そうで。大丈夫なのかと思いまして」
「ああ、あの御様子を初めて見るとそう思うよね。でも、以前よりはかなり丈夫になられたと思うよ」
ユーキの答えにケンは驚いた。
あれよりか弱いとなったら、それこそ消えて無くなるじゃないか。
「あれでですか」
「うん。『あれで』はどうかと思うけどね。別に御病気という訳じゃなくて、単にお弱いだけなので。切っ掛けがあれば、もっと良くなられる、歩けるようにも外出できるようにもなるって、侍医も言っている様だし。どんどん体を動かされればどんどん良くなられるんじゃないかな」
「そうなんですか」
「それが? どうかした?」
「いや、あの。あんな女性、初めて見たもので」
「『あんな』はまずいと思うけど、どんな?」
ユーキの問いの前に付け加えられた言葉は聞こえたか聞こえなかったのか、ケンは視線を馬車の床に落とし、様々な事を思い返し思い起こししながら答えた。
「えと、つまり、村の女達はみんな逞しくて強くて。マリア姉さんとか、義母さんとか、ミシュとか、他の小母さん達や娘達も。殴られたら顔の骨が砕けそうで」
「村の皆さんには内緒にしておくね」
「ヘレナさんやアンジェラさんもそうだし、マレーネ殿下も」
「聞こえていないようだけど、我が家のみんなにも黙っておくからね」
「それがメリエンネ様は、たぶん、叩かれてもメリエンネ様の手の方が折れてしまいそうで」
「……ケン、メリエンネ殿下のお名前を連呼してるけど、お許しは得たの?」
ユーキの声に少しばかりの厳しさを感じて、ケンは顔を上げた。
ユーキは訝しげな顔でこちらを見ている。
「ああ、はい。名前で呼ぶように言われましたので」
「ふーん……。殿下はケンを『ジートラー卿』って呼んでたよね。ケンも名前で呼んでもらうようにお願いしたんだよね? 断られたの?」
「いえ。お願いするべきだったでしょうか」
「そうだね。普通、そうするのが礼儀だね。じゃあ、また会える機会を作るように母上にお願いしておくから、その時にそうした方が良いね。それから、『メリエンネ様』呼びは御本人だけにして、それ以外には単に『王女殿下』、僕の母上や祖母上と区別するときだけ『メリエンネ王女殿下』と言うようにすれば差し障りがないと思うよ」
ユーキはため息交じりに言った。
だがケンはそれに気付かず、夢見がちにふわふわと答えた。
「わかりました。……女性って、あんなにか弱いんですね」
「ケンはそう感じたんだね」
「それに、塔から景色を見ただけで涙を流されて。なぜなのかはわからなかったんですが、こっちまで泣きたくなってしまって」
「……」
「マーシーがニードにやられた時のマリア姉ちゃん達や、俺が出て行く時の義母さんとか、悲しくて泣くのはわかるんですけど、メリエンネ様はなぜ泣いたんだろうか、どうして俺は泣きたくなったんだろうかって」
「……」
「自分でも良くわからないんですけど。もう泣いて欲しくないっていうか、望みを叶えてあげたいっていうか、どこへでも連れて行ってあげたいっていうか。そんな気になってしまったんです……俺って、変ですかね?」
「いや、変じゃないと思うよ。その気持ち、わかるよ。僕も経験があるから」
ユーキが頷きながら言うと、クルティスも横でうん、うん、と首を縦に深く振っている。
「そうなんですか?」
「うん、その気持ちの名前も知っているよ」
「……なんて言うのか教えていただいても?」
「『愛しい』って言うんだよ」
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同じ頃、メリエンネは執務室で車椅子に腰掛けたままで相変わらずぼうっとしていた。
ついさっきの出来事を、何度も何度も思い返してみる。
しばらくしてドロテアとスザンネが来客の後片付けを終わって部屋に戻って来たところに、恐る恐る話し掛けた。
「ドロテア、スザンネ、少しお話ししたいのだけど良いかしら。そこに座って」
「はい、姫様」「何でございましょうか」
「あの、もし、もし構わなければでいいのだけど」
「はい、もちろん何なりと」
「本当に、あの、嫌だったらそう言ってくれていいのだけど」
「いえ、姫様のためなら何でもいたしますが」
「……あの、貴女達は、殿方の腕に抱き上げられたことって、あるのかしら。もしあるなら、その時にどう感じたか、教えてもらえないかと思って……嫌ならいいの! とっても私的なことだろうから!」
「……」「……」
ドロテアとスザンネは互いの顔を見つめ合った後に、声を揃えて答えた。
「「ございません」」
それを聞いて、メリエンネは深く慨嘆した。
「やっぱり、そうよね……」
ドロテアとスザンネはメリエンネの様子を窺った。
王女の顔は赤く、戸惑いが見える。
ドロテアが硬い声でメリエンネに諭した。
「姫様、本日の事は絶対にどなたにも洩らされませんように。本来、王族の女性が男性に抱き上げられるなど、御婚姻の後の御夫君以外にはあってはならないのです。もし世間に知られたら、大騒ぎになります」
「ドロテア、そうよね……」
「姫様は王太子様の御長女、王家にとっても国にとっても大切なお身体です。今日の事はともかく、御自重なさいますように」
「はい……」
「ジートラー卿は、庶民の出。ユークリウス殿下に仕えられてからも、まだ間もないと伺っています。庶民の気安さで、あのようなことをしたのだと思います。貴族としてはあり得ませんので」
「でも! 私の望みを叶えてくれたわ」
「それはそうですが」
メリエンネの口調が急に強くなり、ドロテアは気圧されて口を噤んだ。
侍女二人は注意深く王女の顔を見た。
さっきより頬は赤く、目の光は強い。
ジートラー卿をなじるようなことを言ったからだろうか。
もしかすると。
スザンネがメリエンネに慎重に尋ねた。
「……姫様は、どうお感じになったのですか?」
「……笑わない?」
「はい」
「本当? 絶対?」
「本当に、絶対笑いません」「私もです」
「あの、最初は怖かったの。どうなるかわからなくて。立つことも満足にできないのに、宙に浮いているなんて。……でも」
「でも?」
「気が付くと、全然怖くなくなっていて。しっかり支えられている感じがあって。何と言うか……」
「何と言うか?」
「もう、すごく守られている、こうしていれば安心だ、っていう気がしたの。それで……」
「それで?」
「いつまでもこうされていたい、っていう気に、ちょっとなっちゃったの。馬鹿よね、そんなこと、ありえないのに」
首まで赤くして語るメリエンネを見て、ドロテアとスザンネは異口同音に言った。
「「わかります」」
そして互いの顔を見合わせて頷き合うとメリエンネに向き直り、また声を揃えて繰り返した。
「「わかりますとも」」
もちろん、二人とも男の腕に抱かれたことがあってそう言ったわけではない。
今、メリエンネの胸の内にある想いが何であるかがわかると言っているのである。
「姫様、それは大変なお気持ちである可能性があります」
「そうです。国の重大事となりかねません」
「く、国の? 重大事?」
ドロテアとスザンネの重々しい言葉に、メリエンネが身を引きながら確認する。
二人は再び声を揃えて答えた。
「「はい」」
二人はまた顔を見合わせて頷き合った。
ドロテアがメリエンネに確認した。
「姫様、そう思われたのは、その場限りでしょうか。あるいは、今でも続いているのでしょうか」
「そうって?」
「ジートラー卿の腕の中にいれば安心だ、いつまでもそこにいたい、という思いです」
「……言わなきゃ、だめ?」
「だめではありませんが……」
ドロテアが言い淀むと、スザンネが後を引き取った。
「いいえ、だめです。王国の根幹に関わります」
「……はい。思うの。ううん、むしろその時より強い感じ。できれば、もう一度あそこに戻りたいというか……」
「わかりました」
「何がわかったの? 教えて、スザンネ」
「いえ、これは重大事ですから、もう一度確認する必要があります。今夜は、ジートラー卿のこと、今日のことを思い返しながら、お休みください。明日の朝、もう一度お尋ねします。それからゆっくりと今後について考えるべきです」
「そこまでしなきゃならないの?」
それに答える二人の声はさらに揃った。
「「はい、そうしなければなりません」」
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翌朝、ドロテアとスザンネはいつもより早く、メリエンネの寝室を訪れた。
スザンネはティー・コゼーを被ったポットとカップを乗せた小さなティーカートを押している。
「姫様、おはようございます。入ってよろしいでしょうか?」
「……はい」
中から弱々しい王女の声が聞こえる。
ドロテアとスザンネは頷き合うと、扉を開けて中に入った。
ベッドを見ると、天蓋から吊るされたレースのカーテン越しに、王女が既に体を起こしているのが見える。
二人がベッドに近づき、そっとカーテンを開くと、王女はこちらを不安げに見上げた。
今にも泣き出しそうな表情だが、目は既に真っ赤になっており、目の下には隈がはっきりと浮かんでいる。
二人はそれを見て、「やっぱり」と互いに目配せをした。
ドロテアが王女に向き直って声を掛ける前に、王女が二人に訴えかけた。
「ドロテア、スザンネ、私、眠れなかったの。言われた通りにあの方のことを考えていたら、胸がどきどきして、目が冴えてしまって。早く寝なきゃ、体に悪いから早く眠らなきゃ、って思えば思うほどジートラー卿のことが気になって。結局、一晩中眠れなくて。私、どうしちゃったの? ねえ、どうすれば良いの?」
ドロテアは、痛々しいほどに焦って訴える王女をなだめるように二度、三度と頷く。
その間にスザンネはカートの上のカップを取ってポットの中身を注ぎ、王女の前に差し出した。
「ミルクを温めて参りましたので、まずはこれをお飲みください」
王女はそれを受け取り、ごくりと一口だけ飲んだ。
「……甘くて温かい」
「はい、蜂蜜も入っております」
王女はほうっと息を吐くと、ミルクを一口、また一口と飲み続けた。
飲み終わるのを見計ってドロテアが声を掛ける。
「少し落ち着かれましたか?」
「はい」
「では、横になってお聞きください」
「良いの? この前までは、起きろ、ベッドから出ろと厳しかったのに」
「はい」
「……これで良い?」
メリエンネはベッドの中で仰向きに横たわり、胸の前で手を組んだ。
ドロテアが粛々と告げる。
「では申し上げます。今、姫様が抱かれている感情を指す言葉がございます。姫様も書物で御存じの言葉です」
「何? 何ていう言葉?」
メリエンネの切羽詰まった問いに、ドロテアは厳かに宣告した。
「それは、『恋心』です」
「!」




