第46話 綺譚
妖魔回です。
王国歴223年9月
むかぁし、むかし、またむかし。
ヴィンティア王国というある国に、黒く深き魔の森とひそかに呼ばれる妖しげな樹の海がありました。
その森の西のある領の、ある村のある粗末な家のある片隅で、幼い男の子が幼い女の子に話しかけておりました。
「お別れなんていやだ。いっしょにいたい。二人でいっしょに行こう」
「だめよ。そしたらあんたまで食べられちゃう」
「かまわない。別れ別れになってもう会えなくなるぐらいなら、いっしょに森の妖魔さまに食べられた方がいい」
「……いいの?」
「うん。だから、行こう」
「うん。いっしょに」
その女の子は両親を流行り病で失い、親戚の家に貰われていた。
だがそこでは可愛がられず、幼いながらただの働き手として扱われ、粗末な食事しか与えられなかった。
ただその家の男の子だけは女の子を助け、手伝い、時に自分の食べ物を分け与えていた。
その村の子供達は大人に怖い話を聞かされていた。
黒く深きその森の中には恐ろしい妖魔が棲み、迷い込んだ者を襲うというのだ。
一度森に入り込むと出て来られない、だから決して近寄ってはならないと教え込まれた。
それだけではない。
森の魔は、何年かに一度の秋の大満月の夜には獲物を求めて森から出て来て村を襲う、それを防ぐために生贄を捧げなければならぬのだと。
生贄としての獣が十分に獲れれば良いが、そうでない時には人の子を捧げねばならないのだと。
生贄には、大人の言うことを聞かぬ、村一番の悪い子が選ばれるのだと。
それを聞いて、子供達は怯え、生贄とされぬように大人の言うことを良く聞こうと固く心に誓うのだった。
だがその男の子と女の子は違った。
二人は、時々、その黒く深き魔の森にこっそりと分け入っていたのだ。
その日、村長が家に来た。
村長は女の子の顔を見て嬉しそうに笑うと、「良く育った」と言った。
そして女の子を部屋から追い払うと、家の主に「喜べ。あの子が森への捧げものに決まった」と告げた。
主は喜んだ。捧げものの子供を出した家には、褒美として少しばかりの金やら食べ物やらが村から贈られる。
厄介払いの上に、身入りまであるのだ。
扉に耳を当ててそれを立ち聞いた女の子は悲しくなり、男の子にお別れを告げに行った。
だが男の子は、どうせ森の魔に喰われるなら、二人で森へ行こうと誘ったのだ。
二人は家人達の隙を見て家を抜け出し村をそっと離れ、手を繋ぎ慣れ親しんだ道を通って黒く深き魔の森に入った。
もう、いつ何に食われるかわからない。
鳥の声や小動物の気配、風に揺れた葉擦れの音にさえ体をびくびくとさせながら森の奥へと進んで行くと、湖の畔に出る。
そこには以前に何度も会ったことのある、背の高い碧い髪の女性と赤髪の少女が立っていた。
少女も成人の儀の直前あたりの年頃か、決して背が低いわけではないのだが、碧髪の女の隣に立つとその褐色の肌のせいか、どうしても幼く見えてしまう。
だが、髪や肌の色はともかくも、着ている薄衣は良く似ていて姉妹のように見えなくもない。
赤髪の少女が子供達に声を掛けた。
「あんた達、また遊びに来たの? ここにはやたらに入ってきたらダメって言ったでしょうに」
それに答えずに怯えながらも近づいて来た子供達に、背の高い美女はまるで緊張感の無い声を掛けた。
「ねえ坊や、これはあくまで試しに尋ねるんだけど、その子と私とどちらが綺麗?」
子供達が来るたびに繰り返される同じ問いに、赤髪の少女が呆れ果ててため息交じりに窘めた。
「あんた、子供相手にまたそれ尋ねてるの? もう、いい加減にしなさいよ」
「いいじゃない。今日は肌艶にちょっと自信があるのよ。ねえ、どっち?」
「お姉さん、いつもごめんなさい。お姉さんはとてもきれいだけれど、僕にはこの子はたった一人の大切な子だから、この子を選びます」
「いつもながら悔しいです。お姉さんは傷心を癒やしに帰りたいです。試しにしといて良かったです」
碧髪の女は敗北感に両手を握り締めて戦慄きながら俯く。
赤髪の少女はその態を蔑みの目で軽く見た。
「性懲りもないうえに卑怯なバカは放っておきましょうね。で、今日はどうしたの? いつもと雰囲気が違うわね」
少女が子供達に尋ねると、男の子が震える声で答えた。
「僕たちを食べてくださいって、妖魔さまにお願いしに来ました」
「……え? 誰? あんた達を食べるって、何のこと?」
「聞いたんだ。大満月の日に、森の魔が村をおそうって。それを防ぐためには子供をさし出して食べてもらうしかないんだって」
「は? 何それ」
赤髪の少女は、周囲の森をぐるっと見回してから、横でまだ悔しさを噛み締めている碧髪の女に尋ねた。
「えーっと。ヴァラヴォルフとか、ここにいたっけ?」
「ここどころか、この国にも近くの国にも聞いたことが無いわよ」
「じゃあ、誰?」
「知らないわよ、そんなこと。皆に尋ねてみたら?」
女に言われた通り、赤髪の少女は手筒を口に当てて叫んでみた。
「おーい、みんな、正直に答えてー。大満月の日に、人間の村を襲ったことがあるひとは返事してー」
「……」
「……」
「……」
「じゃあ、生贄に捧げられた子供を食べたことのあるひとはー?」
「……」
「……」
「……」
赤髪の少女の大声の呼び掛けにも、何の返事もなく静寂が降りて来るだけである。
「いないわね」
「そりゃそうでしょ。人を食べても、妖魔には栄養にも毒にも薬にもならないもの。森の肥やしがせいぜいでしょ」
「ねえ、あんた達、何かの間違いじゃないの?」
赤髪の少女が怪しんだ声で子供達に尋ねる。
だが、子供達は二人揃って顔を左右に強く振った。
「ううん。今年はわたしが食べられる番なの」
「うん。そんな事でお別れになるぐらいだったら、いっそのこと二人でいっしょに食べられようと思って来たんだ」
「……そう。どうやら、あんた達の村の人間が他人の名前を使って何か勝手なことをやってるみたいね」
怒りが強く滲んだ赤髪の少女の言葉に、碧髪の女が嬉しそうに応じる。
「お。行く? 行っちゃう? さっき負けた腹いせに手伝っちゃう?」
「拐かしとかは別に知ったことじゃないし、面倒だから森の外には行きたくないんだけど。でも、子供を喰うとか言われちゃうと、ちょっと放っておけないわね。一緒に来たければ、来ても良いわよ」
少女のその言葉を聞いて、森の木が一斉にざわめき湖水が大きく波立った。
得体の知れない大小の昏い気配が大量に周囲から押し寄せて来る。
子供達はその恐ろしさに二人でひしっと抱き合った。
「私たち、食べられちゃうのね」
「うん。いっしょにね。いっしょだから恐くないよ」
「うん。最後までいっしょね」
互いの背中に手と手を回し、頬と頬を擦り付け絶対に離れまいとする。
その姿を見て、碧髪の女が顔を紅蓮の色に染めて鼻を押さえた。
指の隙間から血がぽたぽたと垂れている。
「いえ、もう十分美味しくいただきました。甘いものをたっぷりと御馳走様です」
「バカは早く湖に沈んでなさい。みんな、この子達を脅かすんじゃないわよ!」
赤髪の少女は、鼻血を押さえて嬉しそうに身体を震わせている女を侮蔑しきった眼で見ながら大声で叫んでおくと、今度はまだ懸命に目を瞑って抱き合っている子供達に優しい声を掛けた。
「二人とも、大丈夫だから。あんた達は食べられたりはしないわ」
「……本当に?」
二人は抱き合ったまま、顔だけを少女に向けて問う。
「ええ、あんた達はね。他の連中はどうなるかわからないけどね」
「じゃあ、僕たちはどうなるんですか? どうすればいいんですか?」
「うーん、村に帰っても幸せになれそうにはないわよね」
赤髪の少女が首を捻ると、碧髪の女が鼻をつまみながら詰まった声で答えた。
「あ゛の゛こ゛に゛た゛の゛め゛は゛?」
「あんた、その方が良い声かもよ」
「し゛つ゛れ゛い゛ね゛」
「でもそうね」
赤髪の少女は顔を血だらけにしている女を放置して子供達の前にしゃがみ、手を上げて子供達がやって来た反対方向を指差した。
「いい? ここからあっちへ真っ直ぐ歩いて行きなさい。二人で手をしっかり繋いでね。いずれ金色っぽい髪の、カッコ良くて優しくて賢そうな男前の若い男の人と出会うから、その人に自分達のことを話して『ローゼンがよろしくって言ってた』って言うの。その後は、その人の言う通りにしなさい。わかった?」
少女が優しい声で言うと、子供達は頷いた。
「うん。その人の名前は?」
「ユーキ、っていう人よ」
「ユーキ?」
「ええ、そうよ。じゃあ、行きなさい」
「うん」「きれいなお姉さんたち、ありがとう」
二人は少女達に手を振ると、手と手をしっかりと繋ぎ直して森の反対側へと消えて行った。
「さて、私達も行くとしましょうか」
立ち上がって二人を見送った後にそう言うと、ローゼン達の気配はたちまちのうちに消えた。
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その村の村長の家では、怒りを撒き散らしている役人の前で村長がぶるぶる震えながら頭を下げていた。
「おい、村長。これはどういうことだ。生贄たる娘はどうしたのだ」
「も、申し訳ありません。突然行方をくらましまして……」
「何だと? よもや匿っているのではあるまいな」
「とんでもない! 今、手分けして捜させております。狭い村ですので、程なく見つかると思います。どうかお待ちください」
「ふん、よかろう。今日中に見つからねば、お前がどうなるかわかっているだろうな」
「か、必ず見つけます!」
役人が自分の首を掴む手ぶりをし、村長が怯えながら役人に平伏したところに一人の村人が飛び込んできた。
「村長!」
「見つかったか?」
「いえ、まだです。ただ、迷子が見つかりまして」
「迷子?」
「はい、十歳になるかならぬかの、幼い娘です」
「ほう?」
横で聞いていた役人が興味深げに口を挟んだ。
「ここへ連れて来たのか?」
「はい。扉の外におります」
「入れろ」
役人の命に応じて、村人は扉の外にいた女児を部屋の中に連れて来た。
女児は躊躇いもなく歩いて来て役人の前に立ち、両手を後ろ手に組んで胸を張ると迷子とは思えぬ笑顔で部屋にいた者達を見回した。
背は年齢なりに小さいが、目鼻立ちは良く育ってはっきりと整っている。
髪も瞳も燃えるように赤い。
褐色のつややかな美しい肌はこの国では珍しい。あるいは外国からの流れ者の子か。
腕も脚も細く、触れただけで折れそうなほどに嫋やかだ。
これならお望み通り、いやそれ以上だ。
役人は満足そうに大きく頷いた。
これならば子爵様にも喜んでいただけるだろうし、当てにしていた以上の褒美も望めそうだ。
だが、まずは氏素性を確かめないとな。
役人は娘に尋ねた。
「娘。名前は何と言う。齢はいくつだ」
「……」
「おい、聞こえんのか」
「……」
「娘、この方は偉いお役人様だ。きちんと答えないと、無礼だぞ。きつく罰されることになるぞ」
村長が横から脅しても、娘はニコニコと笑うばかりで口を開こうとしない。
「娘、答えねば、痛い目に遭うぞ!」
役人は手を振り上げた。すると、ようやっと娘が口を開いた。
顎を上げて目を細め、荒く鼻息を鳴らしてから傲然と声を出す。
「ふん、人の名を聞きたいのなら、まずあんたが名乗りなさいよ」
「何だと?」
十歳にもならない女児とは思えない科白に、役人は驚いた。
「わからないの? 礼儀を守って先に名乗りなさいって親切に教えてあげたのよ。お礼は?」
「こいつ……」
「いきなり『娘』だの『こいつ』だの、本当に礼儀知らずの言葉知らずだわね。それでよく役人が務まるわね」
「この無礼者! 幼くとも許さんぞ!」
役人は女児の頬を目掛けて手を振り下ろしたが、女児は体を反らせて軽く躱して二、三歩後ろへ下がった。
「無礼者はそっちでしょ。子供相手に暴力まで揮おうとは、見下げ果てたクズ役人ね」
「何だと、貴様! 鞭打たれたいか!」
「そんな幼稚な脅ししかできないのなら、もっと幼い姿になってあげた方が良かったかしら?」
「おい、こいつを捕えろ!」
役人が怒鳴り、村長と村人が慌てて動こうとした時には、女児はもう扉から外へ逃げ出していた。
役人達が慌てて追い掛けると女児はそちらを振り返り、赤目をして家の外へ出た。
逃がしてはならじと役人達が急いで後を追って外へ出ると、意外なことに女児は道の真ん中で腰に手を当てて仁王立ちをしている。
子供の足では逃げ切れないと諦めたのか。
役人達は安堵して女児の前に立った。
「娘、森に放り込まれて魔物の餌食にされたくはないだろう。言うことを聞いて大人しくすれば怖い思いはせんで済む。美味いものも食わせてやる。さあ、こっちへ来い」
「あら、それはありがとう。私のことが欲しいわけね。いいわよ」
女児があっさりと頷くのを見て、役人はニタリと気味悪く笑った。
「ならば、こっちへ来い」
すると女児も、その幼い顔には似つかわしくない不気味さでニタリと笑い返した。
「ええ。でもその前に」
その言葉と共に女児の真っ赤な髪が突如逆立ち、折からの風に炎のごとく激しく揺らめく。
目は沈む三日月のように鋭く吊り上がり、開いた口に覗く数々の歯の悉くが鋭く尖り、長く赤い舌がちろちろ踊る。
「私達を騙った報いに、思い切り怖い思いをさせてあげる。ふふふ」
「なな、何だって?」
「みんな、好きにしていいわよ!」
女児が叫ぶとその背後から、いきなり激しい風が砂埃や木の葉を巻き上げながら吹きつけて来た。
役人達は思わず顔を手で覆う。
風音は一気に激しくなって轟々と鳴り響き、周囲の音はかき消されて聞こえない。
何だこれは、何が一体どうなったと思ったその時にドスン、ドスンと地面が揺れ出した。
最初は小さかったその揺れは急激に大きくなっていき、すぐに役人達の身体を上下に揺り動かすまでになった。
もう立ってもいられない。
役人達は恐ろしさに身を震わせて、目を瞑り頭を抱えてしゃがみこんだ。
地面の揺れはさらに大きくなったと思うと、風と地の音をも劈いて、ドカッ!ガラガラ、グワシャッ! メキッ、バリッ! と破壊音が四方八方から響き渡った。
その後にはゴウッ! と逆巻く波のような荒れ狂う水音も頭上から襲い掛かって来る。
「やめてくれっ!」「誰か!」「助けてくれっ!」
役人達が叫ぶが、轟音の中ではその声は誰にも届かない。
顔を上げるのも怖ろしく、ただ地面に丸まって震えるばかりである。
しばらくして、いきなり音は止み風も止まった。
「もう怖いのは十分かしら?」
女児の声がして役人達が恐る恐る顔を上げると、そこには女児はいなかった。
その代わりに、赤く揺らめく後光に包まれて立ちはだかっていたのは、今まで自分達が子供を脅すのに散々使っていた妖魔、その中でも最も恐るべき、竜だった。
「ヒイィッ!」
役人達は膝の力が抜けて尻餅を突き、手で地面を突いて懸命に後退る。
助けを求めて周囲を見回すと、そこにあったはずの村の家々も畑も何もなく、ただ荒地が広がっている。
「じゃあ、勝負ね。私に勝てば私はあんた達のもの。私はあんた達なんかこれっぽっちも欲しくないから、負ければ永久に消えてもらうわ。精々、頑張ってね」
不穏な言葉に前を向くと、裂け開いた竜の顎と巨いなる牙、そしてその中に燃えて震える緋紅の輝球が目に入った。
「じゃあね」
女児の声と共に焔と灼熱が眼前を覆う。
それが役人達が見た最後の光景だった。
その日、ローゼン大森林の西にあるデイン子爵領で激烈たる焔の気配が立ち昇り、村が一つ、誰一人知らぬうちに村人ごと跡形もなく綺麗さっぱりと消え去りました。
その村を訪れていたという役人も姿を消し、戻ることはありません。
領の代官は不思議に思って一隊の衛兵を調査のために送りましたが、いくら調べても何もわかりません。
衛兵達はふと何かの気配を黒く深き魔の森の方から感じました。
彼等は慄きを覚え、何も得られぬままに代官の元に引き返さざるを得ませんでした。
その村のことは、ピオニル領で幸せな一生を送った一組の男女以外は、もう誰も思い出すこともしなかったそうな。
あら、まあ、びっくり、まかふしぎ。
みょうちきりんなものがたり。




