第36話 近衛第三大隊長
承前
ヴィオラとスタイリス王子が声の方を振り返ると、背は低いながらも逞しい体付きで精悍な顔をした四十歳ぐらいの男が、こちらに向かって走り寄って来た。
二人が驚いている間にも男は素早く二人に割って入って、ヴィオラに向かって大声を出した。
「王子殿下の御手を叩くとは、この無礼者! 殿下、お怪我はございませんか!」
男に背中で無理やり押し下げられ、ヴィオラの前から遠ざけられたスタイリスが迷惑そうに男に言った。
「何だ、お前は」
「はい、ヴァイツ伯爵の従弟にしてブルエ男爵家の末子、近衛第三大隊長、レヒト・ブルエにございます! この場は私にお任せください!」
「いや、大事ない。俺は無事だ、そこをどけ」
スタイリスは腕を伸ばしてブルエ第三大隊長を押し退けようとするが、大隊長のがっしりした体は微動だにしない。
かえって押そうとしたスタイリスがぐらついて倒れそうになる。
「お下がりください! 見た目には眉目秀麗、可憐この上ない小娘と言えど、『剣術無敗』の殿下の御手を素早く払いその御身を揺るがせるとはただ者ではあり得ませんぞ。侮ってはなりません! 直ちに取り調べが必要です」
「いいからどけ」
「そうは参りません。近衛は王族をお守りするための権限を与えられております。王子殿下の仰せとはいえ、怪しい者を見過ごすわけには参りません。娘、事情を聴かせてもらうぞ」
大隊長は相変わらず背中でスタイリスを押し下げながらそう言うと、ヴィオラに向かって片目を瞑って見せた。背後のスタイリスにはその目は気付きようが無い。
大隊長はさらに声を高く上げ、今や大芝居の調子で続ける。
「ここな怪しき娘、これなる殿下は花盛りの麗しい令嬢方の憧れの的にして、お前のような年端も行かぬ幼気なる者に御手を掛けるなど、胡乱極まりない事を為される筈がどこにある。万々一にも左様な謀りが、国王陛下の御耳に入れば御勘気を蒙ること間違いない。一体何があったのか、嘘偽りは申さぬと天地神明に誓った上で、さあさあ神妙に、あ、語ってみせよ」
両手両腕を左右に拡げて大見得でもしそうな大隊長の白々しい科白を聞いて、スタイリスは嫌そうな顔をした。
一方で大隊長は片側の口角を上げてニヤリとしている。
二人の表情を見てヴィオラは大隊長の意図を察し、臭い芝居に有難く乗らせてもらうことにした。
「もちろん左様でございます、大隊長閣下。畏れ多くも気高く尊き王子殿下が、私のような卑しく小さなる者に御手をお掛けになろうなど、夢にも思いはいたしません。実は私の足許がくるって姿勢を崩したところに、殿下が救いの御手を差し伸べてくださったのです。それにお縋りしようとして今度は手元がくるい、御手を掴み損ねた次第です。重ねての不調法、申し訳ございません」
「なるほど、殿下が先に御手を伸べられて、それにお前の手がぶつかったと。このうっかり者奴が。だがそうと聞けば、成程、この目に映ったことにぴたりと合う。納得、納得」
そこまで言うと大隊長は振り返り、猿芝居を聞かされて鼻白んだ顔付きに変わったスタイリスに向かって真面目くさった口調で言った。
「殿下、大変失礼いたしました。『剣術無敗』と誰もが知る殿下が、まさか幼い娘ごときに御手を邪険に払われてしまうわけがないものを、私、途方もない早とちりをいたしました。この娘の言うことに間違いはございませんな?」
「そ、その通りだ。俺がこんな小娘に何かするわけはなかろうが」
「承知いたしました。ところでパーティー会場では麗しい令嬢方が、殿下の御姿が見えぬと右往左往しております。この娘も体調に特に問題ない様子、大騒ぎにならぬうちに、疾く会場にお戻りになられた方が良いのでは?」
「わかった。娘、また会おう」
スタイリスは不満げにしていたが、一部始終をこの男に見られたことは明らかである。
これ以上何かを迂闊に言えば、未成人の少女に手を掛けようとして払い除けられたことを明るみに出されかねない。
そんなことが近衛から国王、王妃に報告されでもしたら将来に関わり、貴族に広まったら大恥だ。
ヴィオラを未練がましげに見ながらも、踵を返して去って行った。
大隊長とヴィオラはそれを頭を下げて見送った。
スタイリス王子の姿が見えなくなると、大隊長はさっきまでとは打って変わった気安い調子でヴィオラに話し掛けた。
「まったく、女にだらしないあの殿下は、しょうがねえな。大丈夫だったかい?」
「大隊長様、難儀をお助けくださり、ありがとうございます。私はヴィオラ・リュークスと申します」
「ああ、知ってるよ。近衛の上の方には、王族関係の人の出入りは連絡が来るからな。極秘扱いだけどよ。その綺麗な銀髪紫瞳、見間違えようがねえさ」
そう言うと、大隊長はヴィオラに向かっていきなり頭を下げた。
「ありがとよ、リュークス嬢」
「あ、あの、お顔をお上げください。何のことでございましょう」
ヴィオラは慌てて尋ねたが、大隊長は頭を上げずに返事をした。
「さっき会場で、ドジを踏んだ二人を庇ってくれただろう?」
「見ておられたのですね」
「ああ。あの娘は、俺の縁者なんだ。部下の若いのを同伴に付けたんだが、まだ場慣れしてなくてやらかしちまいやがった。その上にお前さんになすりつけようとは思わなかったが、多分柄にも無い近衛の見栄がつい出ちまったんだろう。だが、お前さんが汚れ役を被ってくれたお蔭で二人とも大勢の前で恥をかかずに済んだ。あの男の方は、後で俺が思い切りどやしつけておくから、勘弁してやってくれないか」
「どうか、お顔をお上げください。参会者の方々をお支えするのは給仕の役割、私はそれを果たさせていただいただけでございます。どうかお気になさらぬ様、お二方にお伝えください」
それを聞いて、大隊長がゆっくりと頭を上げて感心した声を出した。
「お前さん、本当に真面目だな。自分は何んにも悪くないのに、大勢の前で恥をかかされて酷い言葉を投げ付けられた。それでも、それが自分の役割だ、か。その齢で大した覚悟の据わりようだ。榴の奴が気に掛けた訳が、ストンと腑に落ちたよ」
「榴……、榴姐様のことでしょうか?」
「ああ、俺の馴染みだ。お前さんの幸せを祈ってたよ」
「姐様も……。ありがたいことです」
「だが、心配するまでも無かったかも知れねえな。達者なのは口先だけで隙だらけの殿下だから、お前さんの身のこなしなら、簡単に手の下を掻い潜ってすり抜けただろうからな」
「そんな、私など」
「いいってことよ。元気でやってることはあいつや花園楼に伝えておくよ。まあ、また何かあったら声を掛けてくれ。ああ、あの殿下、結構執念深いからな。そこらへんで待ち伏せしてるかもしれねえな。俺も一応気を付けておくが、ここでしばらく時間を潰してから行った方がいいかもな。戻る時は王城に近い一番内側の道を行けば、広いし所々に近衛の立哨がいるから間違いないぜ。じゃあな」
大隊長は軽く手を振ると、行ってしまった。
ヴィオラはその後ろ姿を見送りながら、花園楼の隣の楼にいた榴姐様のことを思い出した。
朱色の口紅も鮮やかに、風流博識、才知溢れて優雅な立ち姿。
姐様とは、隣の楼に使いに出された時に顔を合わせたことが何度かある。
礼儀作法に厳しくて、叱られたこともあったけど、気に掛けてくださっていたんだ。
ヴィオラは胸がほっこりとした。
花街を離れてから、それほど日数は多くない。
それでも禿として修行に励んだ頃が、随分懐かしく思える。
ヴィオラは周りを見回して辺りに人がいないことを確かめると、妓女の踊りを一差し、二差し、舞ってみた。
ユーキ様とクルティス様の前で、菖蒲と二人で演じた花と蝶の踊りである。
心の中に椿姐様が奏でる三弦の音とユーキ様の愛しい笑顔を思い浮かべ、三差し四差しと手舞いを続ける。
その美しい踊りを花と見たのか、どこからか蝶が一匹、翔んで来た。
その翅は光の角度によって色様々に移り変わる虹色で、見るからに人目を惹く。
ヴィオラが踊りの手を止め見守ると、蝶はヴィオラの周りを二度、三度と翔び回った後に、つーっ、と離れて行こうとした。
そういえば蝶は菖蒲が好きだった。親しい友は今頃どうしているだろう。
身請け先でも相変わらず自由奔放に振る舞って、周囲を困らせているだろうか。
ヴィオラはくすっと笑うと、菖蒲のように蝶を追ってみることにした。
ひらりふわりと宙を舞っている蝶の後を追ってゆっくり歩いて行くと、どこからかもう一匹が飛んで来た。
こちらはやや大きく虹色の翅の色も濃い。
恐らくこれは雄、先程来の一匹は雌なのであろう。
番いを求めに来たのだろうか、後から来た雄の蝶は雌の周囲を回りながら、距離を縮めては離れ、遠ざかっては近づいてを繰り返している。
やがて互いを気に入ったのか、二匹は一緒に飛び始めた。
互いの後を追い、追っては追われ、手を繋ぐように近づいてはつれない素振りで離れる。
その様子を微笑ましく見ながら後について歩くうちに、目の前に森が現れてヴィオラははたと足を止めた。
以前に王妃様のお伴をしてこの庭を巡った時には、このような森には気付かなかった。
後ろを振り返ると、王城やその庭は確かにあり、付近の花壇の様子も変わりはない。
もう一度振り返る。
森の風景に変化はない。いや、樹々の全てが揺らいでいるようにも見える。
二匹の蝶はその森の中に入ろうとしている。
と、その時、上空を軽やかに旋回していた一匹の燕がこちらに急降下して来た。
ヴィオラが追っていた蝶を啄むつもりなのだろう、一直線に飛び掛かろうとする。
あわや燕の嘴に掛かり餌食にならんとヴィオラが息を呑んだその瞬間、二匹の蝶は燕に気が付いたか、翔ぶ軌道を僅かに高くして寸前で躱そうとする。
燕は惜しくも蝶を捉え切れずに再び空高くへと舞い戻った。
危ないところをからくも助かった二匹の蝶は森の中へと逃げ込もうとするが、そのうちの雌の様子がおかしい。
飛翔に力が無くなり、よろよろと高度を下げていく。雄はそれを心配するかのように寄り添ったり、森に向かったり、また戻ったりとどうしていいかわからない様子で飛び回っている。
雌は必死に森を目指そうとしていたが、やがて力尽きて森の際の草々の間に墜ちてしまった。
ヴィオラは慌てて駆け寄った。
確かにここに落ちたはずと草の根を分けて、また息を呑んだ。
確かにそれと思しいものが落ちてはいた。
だがその四枚の翅は細長く透き通り、まるで蜻蛉のそれである。
触角は無く髪があり、体は節に分かれておらず三対の脚の代わりに一対ずつの腕と足、すなわち人の身体を持っている。
ただその翅のうち片側の二枚は折れ、特に上側は大きく欠けている。
ヴィオラは覚った。蝶はフェアリーの変化した姿であったのだ。
だが、いかに妖であるフェアリーであろうとも、これでは飛べまい。
フェアリーは力無くその身を横たえ、虚ろな目でヴィオラを見上げている。
痛々しさに手をこまねいているともう一匹の蝶も傷ついた伴侶の横に降り立ち、変化を解いて一緒にこちらを見上げて警戒している。
ヴィオラは迷った。
人の身で、妖に関わるのは危ない事である。
フェアリーは妖魔の内ではとても弱いものかも知れない。
現に変化した蝶の身では、ただの燕に傷つけられてもいる。
しかし妖の魔力は底が知れないものであるし、他の妖も近くにいるかも知れない。
もしもその機嫌を損なえば、たちまち滅ぼされるのは必定である。
関わりあいにならぬに越したことは無い。
今なら静かに立ち去ることも出来るだろう。
かといって、傷ついたものをむざむざと見捨てて良いものだろうか。
ヴィオラは困った時、悩んだ時にはいつもそうするように、ユーキ様の顔を思い浮かべた。
もしもユーキ様であったなら、どうされるだろうか。
そう考えた途端に心は決まった。
ヴィオラはフェアリーに話し掛けた。
「もし、妖様。御難渋とお見受けいたします。差し出がましくはありますが、私にできることでしたら何なりといたします。どうぞお申し付けください」
それを聞いて二体のフェアリーは顔を見合わせたが、傷ついた雌が体を起こして森を指差し、雄は翔び上がって同じく森の方へ誘う様子を見せた。
「森へお連れすればよろしいのでしょうか?」
ヴィオラが問うと雌は頷き、雄はそうだとばかりに翔びまわる。
「よろしければ、お乗りください。お運びいたします」
しゃがんで両の掌を揃えて皿にして雌の側にそっと差し出すと、フェアリーは少し躊躇ったが、手足は無事と見えてよろよろと這い登って来た。
もし今ヴィオラが手を閉じれば音もなく崩れてしまいそうに、脆く、儚く、軽い。
不安なのか、ヴィオラの指に掴まってふるふるふるとその身と翅を震わせている。
「どうか御安心くださいませ」
そう穏やかに声を掛けてから静かに立ち上がり、雄に向かって指示を請う。
「お導きいただければ、付き従って参ります」
その声に応じて雄は高く舞い上がり、ヴィオラの先に立って誘いながら森の中へと向かった。
次話に続きます。




