番外編:そして魔王は西より来る-11
アラブの雄が持つ資産は多い。
それはレアメタルであったり、水運であったり、土地であったり、石油であったり、金券であったり。
ジェイクにとって誇るべき資産とは、まさしく目の前に広がる光景を指すものだった。
広がる草原、そこで戯れる愛すべき競走馬達。それを見守る優しく豊かな人々。
資産とは、個人的であり趣味的である物ほど価値がある。それが彼の持つ自論である。
「この国は国民レベルで飽食であると聞き及んでいたが、まさか空気に味を感じるとは思わなかったな」
「はい殿下。日本は山岳地帯が多く、それに伴って森林も多いと聞きます。降雨も多い故にここまで湿った感触がするのでしょう」
「うむ。それにしても、この国は国土の割りに何かにつけて狭く感じるな」
ジェイクはそう言って日本滞在中の拠点、霞ヶ浦ファームを見渡した。遠く、朝靄の向こう側に柵が、さらにその向こう側には二列の針葉樹の並木が見える。地平線まで全てが自分の土地、というような環境で物を考えがちなジェイクにとって、その敷地はやや不安を覚える広さだった。
「私の愛馬はどうだろうか。何か不都合はないか?」
ピリっと空気が痺れるような感覚。
そうした下々の緊張など気付くよしもなく、ジェイクは日本での担当者へ顔を向けた。
ジェイクに取り巻くように付いていた男の一人が前に出る。日本人だ。名を小林という。
美浦に近いというその立地から、海外馬の一時滞在地としてそれなりに利用される彼の牧場にジェイク率いるダーレーから声がかかったのはある意味必然であった。ダーレーが日本に持つ提携施設は本州になく、北海道にあるそれも生産拠点として整備されており本格的なトレーニングには耐えない。そもそも競馬場との距離的に不適だ。
声掛けから提携まで豊富過ぎる資金であれよあれよという間に傘下となってしまい、小林はその事に対して不安が無きにしも非ずだがそれはさておき。
「当初は環境の変化に戸惑っていたようですが、僚馬と放牧に出してからは落ち着いたようです」
小林の言葉を通訳が話しなおす。それにジェイクは一つ頷き、眼前の放牧地で草を食む愛馬、セヴンスターズの姿を見やった。
セヴンスターズは時折顔を上げてジェイク等一行を見つめると、テテテテーっと少しだけ移動しまた草を食べ、顔を上げるとまたしてもこちらを見つめ……といった行動を繰り返していた。こちらが気になるらしい。しかし近づいては来ない。チラチラ見ているだけだ。
「臆病というか、変な馬だな……」
日本語で呟いた小林の言葉は幸いにもアラブの雄に届く事無く溶けて消えた。
セヴンスターズ。凱旋門賞にてサタンマルッコに敗れはしたものの、文句無く世界レベルで一流の名馬。しかしその性格は臆病かつ寂しがり屋。構わないといじける癖にこうして会いに来ると触れ合いには来ない、極めて面倒くさい馬だ。
ふいにセヴンスターズの耳が跳ねる。馬蹄の音。同じ放牧地に放されている僚馬が彼に駆け寄ってきたのだ。「ひぃーん」と甘えた声を出して身体を摺り寄せるスターズ。僚馬は彼の一つ上の全兄で、様々なレースで彼のラビットとして活躍している。今回はその役目を担わないが、スターズの外付け精神安定剤として同じく輸入された。
どういう訳だか弟とは全く異なり、図太く図々しくリーダーシップに溢れる馬だ。そしてこれまたどういう訳か弟とはとても仲がよい。同じ兄弟でも家族ではなく別の個体と認識しがちな競走馬にしては珍しいといえる。
「うむ。やはり兄さえ居れば私の愛馬はどこにいてもそう変わらないのだな。それが日本で通用したことは前進だ。後はこの土地の食事、水に慣らさなくてはならないな。フフフ、やはり新しい挑戦を始める時は様々な困難がついてまわり、どこか高揚してしまうな」
言葉は分からずとも、なんかニタニタして楽しそうであることは伝わる。図抜けた金持ちとはいえ、やはり馬好きには違いないんだなぁ、と小林は意識を遠くに飛ばした。
ところ変わって霞ヶ浦ファーム社屋会議室。
会議室と銘打ったが、ダーレー資本による急造の建物で、急造に相応しくその内装は打ちっぱなしのコンクリートがむき出しであったりとかなり安っぽい。机こそ相応に立派なものが備え付けられているが、それが逆に空々しさを引き立てているようにも見えた。
しかしジェイクに気にしたそぶりは無い。彼はインフラの整備などで悪環境の地域で滞在することも多く、実のところ思われているほど高級主義ではない。屋根のありがたさ、壁と床の暖かさ、そうした本質的な部分を忘れなかった一族の教育の賜物であろう。とはいえ、一々狭い日本の土地や建物にはやや辟易としていたが。
会議室にはセヴンスターズの管理や調教に関わる面々が揃えられていた。
そんな中、次走、ジャパンカップについての対策会議が行われている。
「ふむ、つまり東京競馬場は典型的なオーバルトラックコースであると」
「はい殿下。高低差は最大でも2m強。ほぼほぼ平坦な高速コースです。我々の本拠地メイダン競馬場とほぼ同じに考えていただけます。直線は500m強、かなり長い部類です」
「ふむ? では傾向としてメイダン競馬場以上に逃げ馬は不利になるのか?」
「はい殿下。この東京競馬場2400mの不思議な特色として、逃げ馬が勝ち馬になりにくいにも関わらず、先行馬の勝率が高い事が上げられます」
立体プロジェクターが宙空に競馬場を俯瞰した映像を映し出す。
「理由と致しましては発走位置と枠順によるポジション争いに端を発するようです。第1コーナーまでのポジショニングでほぼ直線まで推移するようですので」
「特別な理由が無い限り先行策が有効であるのだな」
「そう断言して問題ないかと存じます」
「ふーむ、つまりはアメリカ的な競馬をイメージすればよいのだな? まああれは土であるから少々勝手は異なろうが」
「はい殿下。分析の結果そのように結論付けました」
「では次走は先行策で行こう。そのように調教を進めて欲しい」
「はい殿下。しかし少々お待ちいただきたいのです。こちらをご覧ください。現在のところ、ジャパンカップに出走予定の有力と目される馬達のデータです」
「ふむ?」
映像が切り替わり、馬の写真、経歴、経過順位などが表示される。
「ストームライダー、スティールソード、彼らは出走レースの前半通過が平均して60秒を割る先行馬でございます。そしてなによりサタンマルッコ。彼の馬はその彼らのさらに1秒前を行きます。こちらのデータをご覧ください。こちらは去年のジャパンカップです。出走馬の殆どが60秒を割る超高速ペース。その中で後方から追い上げたのがこのキャリオンナイトという馬でございます。去年のメンバーの殆どは今年も出走しています」
「つまり?」
「凱旋門賞同様、破滅的な高速ペースになる可能性が高い、と分析できます」
「ふん、あの馬はどこでもあのように走るのか。全く芸の無い」
その有効性を認めつつも、やはりどこかマルッコに面白くない感情を抱いてしまうジェイク。悪感情を鼻息で押し流し、続きを促す。
「枠順次第ではございますが、それでも前目の位置取りは必須であると申し上げます」
「うむ。私もそう感じる。東京競馬場のレースをいくつか観戦したが、やはりあの競馬場の芝は硬い。後ろの加速も速かろうが、前の馬の足もそうそう止まりはしないだろう」
ましてやあの馬だ、との言葉は飲み込んだ。
「負けた言い訳に過ぎないが、凱旋門賞ではやはり包囲が厳しかった。次へ進むためにも包まれない位置取りが望ましい」
「この国ではラビットの使用は禁じられています。また、同じ厩舎の馬であってもチームプレイと見做される行為は厳罰に処されるとのことです」
「であれば前ほどの包囲は無いと」
「はい殿下。そう考えられます」
「スタートから前目に付け、向こう正面では包まれないよう外に出す。進路を防がれないよう抜かれてもいけないな。そして4コーナー時点で先頭との差は10馬身以内が望ましい。まあ言葉にすれば簡単な事だ。いつもの事とも言える。要するに好位にて必勝の体勢を整える訳だな」
「はい殿下」
「確かに、サタンマルッコは強い。そしてこの国の馬も油断は出来ない。高速ペースから二の足を使い最後まで緩めずに戦う競馬は脅威だ。もはや競馬が新たなステージに達したといっても過言ではないだろう」
だがそれだけだ。
「私の愛馬なら出来る。ハイペース? 望むところだ。どのような馬場、ペース、コースであっても私と私の愛馬は勝利してきた。たった一度の敗北は永遠の敗北ではないのだ。
君達に期待する。私の愛馬をどうか万全の状態に仕上げてくれ」
方針は決された。
真っ直ぐ行ってぶっ飛ばす。
着飾った言葉を取り除けば、つまりはそういう話だ。
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「よーラスト君。今日はよろしくなー」
ぶるぶると喉を震わすラスト君ことラストラプソディーを一つ撫で、主戦騎手川澄翼は彼の背に跨った。傍らには調教助手がついている。
「それじゃあ行きましょうか」
「お願いします」
引き綱に連れられ人馬は歩き始めた。
栗東トレーニングセンター。日の出もすっかり遅くなった晩秋の朝。雨の季節は遠に過ぎ、乾いた空気の中、そこかしこから馬や人のざわめきが聞こえる。
「今日は坂路でしたよね」
川澄が訊ねると、何かを諳んじるように調教助手の男が宙を見つめながら答える。
「えーと、センセイからは2本、きっちり追って欲しいって聞いています。前半からきっちりで最後までフラットに、と」
「了解しました」
レース前のこの時期に前半からきっちりという調教は珍しい。そういう調教はデビュー前やレース間隔の空いた時期にやるものだ。そのことから川澄はある程度事情を察する。
つまりは次走、ジャパンカップを見ての調教なのだろう、と。
「勝ちたいですねージャパンカップ」
心を見透かされたかのようなタイミングで調教助手の男がぼやく。
「ははっ、そうですね。勝てるだけの実力はあると思ってますよ、俺は」
「俺もなぁ、そう思ってるんですけどねぇ」
暗い雰囲気を背中に乗せる男に川澄は苦笑する。股下の彼がそういう感情の機微に聡く、鼻先を伸ばし、男の背中を突っついて励まそうとしていたからだ。
なんだ? と男が振り向き伸ばされた鼻先を撫でる。甘えるような仕草でそのうち男の顔にも笑みが戻る。
「わーかった。わかったからマルッコ。リンゴをやる。だから一本だけでいいから走ろう。な? 一本だけでいいから。頼むから。な?」
坂路馬場の入り口まで来たところでそんな騒がしいやりとりが聞こえてきた。顔を向けると栗毛の馬体に白い丸。世界を征して凱旋したサタンマルッコとその調教助手が綱引きしていた。
「あ、とおりまーす」
こちらの助手の男が先触れを出すと、「やべっ」としまった顔をしてサタンマルッコの助手はビーンと張った手綱を緩め、道脇へ場所を空けた。サタンマルッコはコレ幸いと馬首を切り替えそそくさとその場を離れようとしている。
「はは、相変わらずですね」
川澄がそういうと、助手の男は照れくさそうに頭を下げた。
「どうもすみません。お騒がせして。ほら、お前のせいで迷惑かかってるんだぞマルッコ! 少しは申し訳無さそうな顔しろ!」
栗毛の怪馬はつーんと明後日の方を向いたままだ。
分かりやすい感情表現に思わず笑みがこぼれる。
「ほんと坂路嫌いですよねサタンって」
「あっちじゃそれなりにでこぼこした道も走ってたんですけどねぇ。だからもう行けるだろと思って連れて来たんですけど、こんな調子で」
「原因が分からないんじゃなんとも言えないですよね」
「いやたぶんただの好き嫌いだとは思うんですがね……あ、お邪魔してすみませんでした。俺たちはトラックに向かいます」
傍らで諦めたのを察知したのか、ススキのような尻尾がご機嫌に振られた。それを恨みがましく見つめながら、人馬はトラックの道のりへ去っていった。
「勝ちてぇよなぁ……」
その背を見送りながら、川澄は口の中で小さく呟いた。
ラストラプソディー。欧州にてマイルから2000mのGⅠを三勝した実力馬ラングランソナタ産駒。ラングランソナタはその競走成績とは裏腹にあまり有力な後継を輩出できなかった種牡馬であり、中央、公営含めて現役で競走生活を送る馬はラストラプソディーただ一頭。種牡馬入りしている馬もおらず、ラストラプソディーは名実共に直系としては最後の一頭となる。
そういう背景があるから、早くから実力を注目されていたラストラプソディーは大きな期待を受けていた。それは3歳クラシック路線で頭角を現したところで一層膨らみ、ストームライダー、サタンマルッコらに幾度と無く完封され徐々に萎んでいった。
別に牧場由来の血統でもなかろうに、と川澄はやや冷めた感情を抱いていたが、騎手と生産者では感覚が違うのだろうと飲み込んでいた。
そんな事よりも、騎手としては勝てないことのほうが問題だった。
弱い馬ではない。宝塚記念、スティールソードにハナ差で敗れはしたものの二着。三着以下にはかつて手も足も出なかったストームライダー、実力古馬のキャリオンナイトなど凄まじい面子が名を連ねる。
だから、弱くない。弱くないのだが、勝ってもいない。
最後の勝利は3歳春の皐月賞トライアル。そこから皐月賞二着、ダービー四着、菊花賞四着、古馬に混ざってからは掲示板を外す事が増え、そんな中上げた宝塚記念二着。
いいレースはしている、だがそれだけとも言える。彼らが望んだのは種牡馬としての道であり、それにはGⅠ勝利が必要であると考えられているのだ。
川澄は己が騎手として乾いた性質であると認識している。生産者とは必要以上に交わらず、特定の厩舎から贔屓もされないし贔屓もしない。エージェントのとってきた仕事を淡々とこなしてその場その場で最善を尽くす、そういう仕事の流儀。その甲斐あってかリーディングでは毎年上位に名を連ね、年によっては外国人騎手を抑えて一位になることもある。
今年も残すところ2ヶ月だが、かなりいい線を行っている。
そりゃあリーディングには上位にはなるだろう。毎開催の要所で勝利を挙げ、勝ちはしないものの古馬王道に皆勤するくらいのお手馬がおり、その馬で掲示板に乗っていれば。
でも、勝っていない。
澱みはやがてしこりとなり、明確な言葉となって川澄の心を揺らす。
勝たせてやりたいではない。
(俺は、この馬で勝ちたいんだ)
負けっぱなしじゃ収まらない。そんな当たり前の感情が、川澄の心を燃やしていた。
チラッ|ω・`)≡(´・ω|チラッ
最近お馬さん成分がなかったので
次回は9/6 13時ごろの予定です。




