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番外編:そして魔王は西より来る-10


 時は少々遡る。

 秋の激戦第一弾とされた天皇賞より約二週前。



 近代人類にとっての進化とは、肉体ではなくその知恵によって生み出された知識を以って語られるべきであろう。森羅万象悉く網羅し操れば、それは即ち無敵の生物足りえるのだから。

 20NN年代、人類は感染症に関する一つの革新的発見をする。それらは国境を越えた畜産動物の移動にかかる負担を大幅に軽減させ、競馬界においては検疫検査を大幅に簡略化させより一層手軽な海外遠征を実現させた。それにより国内戦線が手薄になったりなど弊害もあったのだが、それはさておき。

 2000年代、2010年代ならば実現できなかったであろう。凱旋門賞より二週間。着地検査を終えたサタンマルッコは東京競馬場の芝をのんべくらりと駆けていた。背中にはロンシャンで戦いを共にしたクリストフ・ユミルを乗せて。


 前代未聞のこの催しはサタンマルッコによる凱旋門賞制覇を記念してのことだ。

 メインレースが終わってからのほうが入場者数が増えたとまで言われたこの日、スタンドどころか通路まで人が溢れる超満員。公式の発表によれば8万人の来場者があったという。それら8万対の瞳が見守る中、本日のレースプログラムを終えた東京競馬場の直線、やや荒れたラチ沿いの芝をサタンマルッコはとりわけゆっくりと走りゴール板を駆け抜けた。やらんでいいのに経済コースを走ってしまうのは染み付いた性質故か。

 現役の競走馬に対してセレモニーが行われるのは異例の事態である。それだけ関係者、並びにファン達が抱いていた凱旋門賞への憧憬の念は深かったのだろう。


 ぐるっと向きを変えスタンド前に再び現れるサタンマルッコ。額の白丸もどこか得意気に揺れている。父親譲りの尾花栗毛に非常に目立つ額の白丸。特徴を知っていれば誰でも見紛う事の無いその姿。


 関係者がぞろぞろと姿を現す。これから口取りでの記念撮影なのだ。

 サタンマルッコ関係者からは横田が、小箕灘が、中川夫婦が、クニオが、高橋が。

 遠征の支援をしたノースファームからは吉沢初めとしてフランス滞在時の厩務員、長谷川等現地スタッフ。見慣れぬ外国人の女性はどのような関係であったのであろうか。


 口取りでの写真撮影も、やはり横田が跨った時が最も盛り上がった。日本のレースを見てきたファンにとってサタンマルッコの主戦騎手は横田という感覚が強いからだ。


 シャッターが切られる。

 いつか語られた悲劇。そこで切り取られた感情は慟哭であった。

 被写体の中に彼は居る。フォーカスはされていないだろう。しかし、彼は笑顔を浮かべていた。


 『凱旋』


 とある撮影者は一枚の写真をそう名付け、掲載したという。

 彼は帰って来た。

 彼らは帰って来たのだ。




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■サタンマルッコ日本凱旋! 次走はジャパンカップ!■


 10月N日東京競馬場。まさに異例の事態といえる。現役競走馬に対する式典セレモニーが開催された。レース勝利後、馬主側が提供するイベント企画とは一線を画す催しと言って良いだろう。


 秋の乾いた夕日を浴びて尾花栗毛が流れる線のように府中のターフを駆け抜けた。東京競馬場のスタンドはレース後にも関わらず満員だった。何か今日、ここに居なくてはならない、そんな不思議な一体感の元、12レースが終わった後も皆がそこで待っていたのだ。


 偉大な功績だろう。宿願だった凱旋門賞制覇。

 しかしそれ以前に、レースそのものが歴史に残る激戦だった。そのことがファンの心に強い感動を残したのではないだろうか。

 サタンマルッコという馬はレースに出る度激戦を繰り広げる名勝負メイカーとでも呼べるような存在だ。それはレーススタイルが大逃げという他者に特定の展開を強いる物である事や、同時代にそれらに対応できるライバル達が集った事、そしてそれらの関係者が力比べの真っ向勝負を避けなかった事、いくつもの幸運が重なり実現した奇跡だ。


 なによりも。サタンマルッコは現役を続行する。

 式典後、小箕灘調教師は今後の予定についてこう語った。


『(今後の予定は)ジャパンカップ、有馬記念と出走する予定です。なんでもセヴンスターズとフランスのリスリグですか? あの馬達がジャパンカップに出走するらしいじゃないですか。凱旋門賞を獲った以上、日本の王者として出ないわけにはいきませんからね。

 しかしマルッコも競走馬なのでね、ジャッパンカップまではお約束しますが、有馬記念は体調を鑑みて出走するかどうか決定したいと考えています。

 鞍上は横田さんにお願いする予定です。今後も国内戦は横田さんの都合が付く限り横田さんに騎乗依頼します。

 年明け以降も現役は続行しますよ。まだまだ元気ですからね、色々なことに挑戦してみたいですがまずは国内戦と考えています』


 管理調教師の口から「挑戦」という単語が飛び出たことに少なからず驚きがある。我々の視点からすれば凱旋門賞を勝利した以上、官位を極めたと考えてしまいがちだが、まだまだ彼らの挑戦は終わらないらしい。

 少しの反省と大いなる期待を胸に、サタンマルッコの次走に注目したいと思う。



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「つわものどもがゆめのあと、ってねー」

「ひん?」


 背中でぶつぶつ呟くクニオにマルッコが不審げな嘶きを返した。

 栗東トレーニングセンターお馴染みEダートコース。砂上をざばざば掻き分けながら、栗毛の怪馬は今日も軽めの運動に終始していた。


「終わってみると夢のよーだったなぁ。なぁマルッコ? お前もフランスのほうがよかったよなー? 女の子いっぱいいたし」


 どうやらクニオはシャンティイで働いていた女性職員達の事を思い出していたらしい。フランスの馬産関係者は約半分が女性だ。日本のそれと比較すると意外に思われるかもしれないが、基本的に女性は男性より小柄であるため体重の面で適正が高い。小柄な男性の数と平均的な体格の女性の数とで考えれば納得がいくだろう。

 ところが栗東ときたらおっさんおっさん&おっさん。グローバリゼイションを考えるならこういうところから意識改革するべきだなどともっともらしいことをクニオが考えるうち、馬場の出口に差し掛かっていた。




 こちらもお馴染み須田厩舎。

 こうして馬房の前にパイプ椅子を並べて作戦会議するのも久しぶりだな、と若干の感慨に耽りつつ横田は口火を切った。


「じゃあJCでステップは封印ですか」


 参加者は小箕灘にクニオ、そして今日は気分を変えて千切りのりんごを飼葉入れに顔を突っ込んでもしゃもしゃ食べているマルッコだ。


「ああ。冬の間とフランス滞在の間のトレーニングで、どうやらレースでステップを使っても前ほどの負担にはならなくなったみたいなんだが限界以上を使っていることに変わりはない。今後も使わずに済むならそうして行きたい」


 横田の言葉に小箕灘が返す。

 それは凱旋門賞を終え、マルッコの調子を鑑みた結論だった。

 栗東の関係者が口を揃え『丸いのはケツから後肢の造りが変わった』と評する程、マルッコの後肢は変化していた。正確には背中からではあるが。

 レース後、骨や関節に対する疲労は軽減されたように見て取れた。しかしそもそもにおいてあれだけの激走である。筋肉疲労や消費されたエネルギー、そうした消耗は前にも増して増えていた。大逃げというレーススタイルは元より生命を振り絞って走りきるような方法だ。その上再加速を行えばどうなるかは考えるまでも無い。


 これは小箕灘たちのあずかり知らぬ事だが、サタンステップと呼ばれる再加速走法についての適性はネジュセルクルよりもサタンマルッコの方が高い。

 それはネジュセルクルとサタンマルッコの体格や骨格、細かな差異によるものであり、究極的に言えばネジュセルクルと比較して競走馬として劣っていたからこそサタンマルッコは致命的な怪我をせずこれまでを無事に走り終えていた。

 本人(馬)的には冬の間のトレーニングで「おっ、これなんかええやん」と感覚を掴んでいた事も大きいだろう。


「となると、いつも以上に飛ばして行く事になりますか」


 少し考えて横田が言葉を継ぎ、小箕灘は頷く。


「そうなる。スティールソードにストームライダー、この辺が道中どの程度追ってくるか分からないが、やはり二番手に直線向いたところで1秒半から2秒は欲しい」

「その上またセヴンスターズとあのリスリグでしたっけ? あの馬たちも来るんですよね。魔境過ぎません? 今年のジャパンカップ」

「ダイスケはともかく、クエスが居ないだけで正直総力戦だよなぁ」


 クエスフォールヴは欧州での秋の連戦を鑑みてジャパンカップを回避。有馬記念を最後に引退を表明している。マルッコの影に隠れてしまった物の、アイリッシュチャンピオンステークス制覇も日本競馬史に残る偉業である。

 むしろ現状、生産界から送られる熱い視線は昨今の流行に則り2000mの国際戦で好成績を残した良血クエスにこそ集まっていた。


「でも欧州の馬って日本の馬場に苦戦するじゃないですか。それこそ日本の馬が向こうの馬場でそうなるみたいに」

「それもオールウェザーみたいな馬場が出てきてからは少なくなったように思うがな。というか世界中練り歩いたセヴンスターズが今更馬場でどうこうなるとは俺には思えないがねぇ。リスリグは分からんが……」

「僕はライダーやソード、キャリオンあたりを注意するべきだと思いますよ。特に今のライダーは確実に上位に切り込んでくるでしょうから、リードの基準にするならやはりあの馬なんじゃないかと」


 横田の言葉を受け小箕灘は思索に耽り……ふいに笑った。


「ふふっ、楽は出来ねぇな」


 つられるようにして横田も笑った。


「ええ。まずは王者らしいところ見せないといけませんね」


 飼葉入れから顔を上げたマルッコが、集まった視線に首を傾げた。




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 美浦トレーニングセンターダートコース。

 オーバルトラックコースの中で最も外周に位置するこのコースは同時に最も道幅が広いコースでもある。それは容量の問題として馬が多い時期に使いやすく、また広くなくては行えない調教を施すことが出来る。例えば多頭数での併せ馬であったり、発走機を置いてのゲート審査などであったり。


 発走機の前を3頭の馬が輪になって周回している。さながらゲート入り前の様相であり、事実、彼らはこれよりゲートに入る段取りであった。

 その内の一頭、スティールソードと鞍上細原文昭は表情を硬くしてゲート入りを待っていた。

 彼らはゲート再審査の憂き目に遭った訳ではない。これらは自発的な訓練の一環であり、午後の一番人の少ない時間を狙って行われる、言うなれば特訓であった。


『勝つためにやらなきゃならない事がある』


 初夏の宝塚記念を征した後、文昭が管理調教師であり父である大吾に告げた言葉。

 それまではGⅠ馬となるため、それぞれ目の前のレースに集中して日々を過ごしてきた。そして今回、春競馬の区切りと夏の休養を利用して新たな上積みを得ようとしていた。


『テツゾーだけじゃない、俺にも必要な事だ』


 スティールソード陣営は秋の大目標をジャパンカップに据えていた。天皇賞に続く秋古馬王道の二冠目。東京競馬場2400m、一着賞金3億円。言わずと知れた国内最高賞金額のレースであり、日本が持つ国際レースレーティングにおいても最高権威を保持している。賞金額については国際的にも年々更新されつつあるが、競馬の一着賞金に支払われる金額としては図抜けた存在であることに変わりは無い。

 その名が冠する様に日本一を決定するためのレースだ。魔境と呼ばれる程層の厚い今年度の競馬、とりわけ2000~2400mにおいてはそれが意味するところは重い。

 スティールソードと文昭は春競馬において、そんな魔境で勝ち名乗りを上げた。倒した相手が弱かったなどとは言わせない。だがそれが全てではない事を彼自身理解していた。

 サタンマルッコ。

 奴が居ない。

 ダービーで負けた。菊花賞で負けた。そこから約一年、同じ舞台に立っていない。

 文昭はありのままのスティールソードがありのままのサタンマルッコに劣っているとは今もって考えていない。ところが競馬場で、2000mだとか2400mだとかで区切ると勝てない。

 その決定的かつ克服の難しい要因。

 発走。スタートだ。


 サタンマルッコのテン(スタートからの数ハロン)はあまりにも速い。

 まともな競り合いとなったのが国内短距離界を完全統一したダイランドウ以外に居なかった事からも類稀なスタートセンスが伺える。

 なんと、レースによっては直線1000mで行われるアイビスサマーダッシュのテン2Fよりも速い事すらあるという。このスタートでついた差が、最後の直線で決定的な差となる。


 それに追いつこうとするならば。そういう馬に勝とうとするならば。


 ゲートに入る。相棒の背中からボルテージの高まりを感じる。

 しかし文昭は冷静に、静かに、沈みこむように意識を尖らせる。この肩幅ほどしかない狭い空間が己が肉体そのものであるかのように。


 ゲートが開いてからではもう遅い。必要なのはその一歩先。

 耳朶が捉えた軋んだ音。その瞬間にはもう手が動いている。


(一歩だ)


 その一歩先に奴が居る。



次回更新は9/4 12時の予定です


9/4日追記 マルッコの式典来場者数をちょっと変更 ついでに前後の文章を調整 3万人増えました

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