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番外編:そして魔王は西より来る-7

 凱旋門賞。

 日本競馬界が世界の競馬に追いつくための目標に掲げた欧州最大級のクラシックディスタンスレース。価値観の変動と多様化により強さの指標は唯一ではなくなったが、競馬を語る上で『強い馬』を挙げるとするならば、やはり2400mという総合力を問われるこの距離で勝ち抜く事は必須であろう。

 日本馬は呪われていると言われるほど、不自然なまでにこのレースで勝てなかった。

 要因はいくつか挙げられる。斤量の関係で有利とされる3歳牝馬での参加が少ない事、ステップレースとして選択されるフォワ賞が本番の前哨戦としては不適切である事、洋芝と大分される深い芝が日本の競馬場の環境とは異なる適性を試す事、本戦以外は賞金が安く滞在費もかかり勝てるかどうか分からない欧州遠征と、留まれば高額の賞金が約束されている国内では後者を選ぶオーナーが多い事等枚挙に暇が無い。

 しかしそれにしても。前評判で勝てると評され、実際のレースでも直線手前にて観衆に『勝った』と思わせる展開を見せた馬は数多い。しかしどうしても勝てない。


 後少しだからまた挑む。今度も惜しかったから次こそは。

 こうして呪いが醸造され20余年。

 日本競馬は未だに凱旋門賞を獲れていない。


 その日、日本競馬界は静かなざわめきに包まれていた。

 10月7日23時。日出国より遥か西方、フランスの地にて宿願を賭けた戦いの火蓋が切って落とされようとしている。


 同競走を昨年度2着、かつ国内古馬戦線で同世代に一度たりとも負けなかった絶対王者。前走ではアイリッシュチャンピオンステークスを制覇する日本馬初の快挙を成し遂げ、海外にも通用する実力を示して見せたクエスフォールヴ。

 遅れて出現したハイレベル世代の隠し球。異端のレーススタイルにて3歳世代戦を征し、ジャパンカップでは古馬戦線でも通用する実力を披露。年末の有馬記念では絶対王者クエスフォールヴに土を付け、今年度は中距離でも通用するスピードを見せ、前哨戦フォワ賞で圧倒的実力とコース適性を見せ付けたサタンマルッコ。


 国内ならば選出に誰も文句が付けられない最強の二頭が、このレースに勝つためだけに半年以上をかけて準備した。

 相手も強いだろう。ドバイの星、世界王者セヴンスターズの3連覇を防ぐため、誇張抜きに世界の名馬達が集結した、集ってしまった凱旋門賞。

 それでもこの二頭ならば、きっとどちらかがやってくれるに違いない。期待感がある。希望が持てる。予感が高まる。


 でももし。

 もし、この二頭で勝てなかったのなら。

 日本馬は、一体いつになったら勝てるのだろうか。

 期待は、希望は、全て不安を内包していた。

 勝てる予感はある。しかし、負ける予感もまた強いのだ。




----



 深夜に近いこの時間。常ならば消灯している調整ルーム。しかしそのラウンジには多くの、というより滞在する全ての騎手が詰めかけ、人数からすれば頼りない大型モニタの前にひしめき合っていた。どこか昭和の電気屋を思わせる光景だ。


 細原文昭もその中の一人だ。同世代のライバルの勝敗は気になるし、そもそもにおいて日本馬だ。やはり海外に出るとなると国対抗の面が出てくる。特に今年の凱旋門賞はドバイVS欧州の図式が色濃い。その他大勢の扱いでは気分が悪いし、どちらかというと本命視されているのはクエスフォールヴという体たらく。サタンマルッコに負けっぱなしの文昭としては実に複雑な心境だ。是非、見返して欲しいと思うと同時に、欧州の頂点まで取られたらまた差が開いてしまう気もしている。


(ええい雑念を捨てて応援しよう。今はそれでいいじゃないか)


 頭を振り、モニタに目をやる。どうやらパドックに入ったようだ。

 ふと思いつき、周囲を見回す。目的の人物は他騎手にやや気を使われたのか、余裕のあるスペースで椅子に座っていた。人口密度も低い。利用しない手はないと近づき声をかける。


「横田さん。今日のサタンはどう見えます?」

「ん? そーだなー」


 横田はチラリと文昭を見て、再びモニタに目を向けた。周囲の騎手も続く横田の言葉を待っているように感じた。


「気合入ってるね。というか珍しくちょっと硬いかな?」

「へーそうなんですか。あの馬訳わからないから俺じゃちょっと分からないっす」

「うんまぁ、そうなんだけど。国内だとダービーの時があんな感じだったよ。ちょっとピリピリしているけど、レースに向けて集中している感じかな。馬場に入って力を抜いてやればいい感じになると思うよ」

「へー……」


 言われて文昭と騎手たちはモニタ越しにサタンマルッコを見る。栗毛の馬が歩いている。やはりその場の空気感が遮断されると情報は途絶されてしまっているように感じた。


「横田さん的にこのレース、どうなると思います?」

「そーだなぁ、後ろは分からないけどマルッコは同じだよ。いけるだけ行って、行けるところまで行く。フォワ賞と同じだね。後ろがスターズマークで動いてくれたらその分マルッコは楽になるね。クエスも前目でやると思うから、やりにくいって事は無いんじゃない?

 まあただ、そんな簡単に行けるもんかなぁとも思うけどね」

「なんかあるんすか?」

「わからない。でも流石にマルッコがノーマークって事は無いだろうね。ドバイがねじ込んできたスプリンターだっけ、あれが鈴付けに来るんじゃないかな」

「なんか、何でもありっすね」

「文化の違いだよ。ぶつけられないだけマシだと思おう」


 画面では返し馬に入り、解説者がそれぞれの所感を述べていた。

 とはいえここに居るのは本職の専門家。歩く馬の調子は分からずとも、走る馬の事は誰よりも詳しい。


「……改めてみると、やっぱセヴンスターズって凄いな」

「ああ。バネがすげえ」

「すげえ跳んでるけど軽く走ってるように見える」

「葦毛の馬って体が硬いイメージあったけど、やっぱ迷信だったんだな」

「あんな馬に乗ってみてえわ」


 騎手たちが声を詰まらせながらもざわめく。

 もれ聞こえる声は、どの馬もいいがセヴンスターズが抜けて動いて見える、だった。

 文昭もそれには同意見だった。どうしても日本馬を贔屓目に見てしまうが、それを含めてもセヴンスターズは動きがいい。まさかクエスフォールヴを見て物足りなさを覚える日が来るとは思っていなかった。世界は広い、蒙を開かれた気分になる。


「よし、いいぞ」


 小さく、横田が呟いた。サタンマルッコの返し馬を見ての事だ。

 文昭にマルッコの動きの良し悪しは一定以上分からない。少なくとも悪くは見えなかったが、セヴンスターズが見せた走りの衝撃そのものを塗り替えるようなものではなかった。

 しかし、それとはまた別な感想を抱いた。不思議と、サタンマルッコにはロンシャン競馬場が似合って見えたのだ。陽気だが生意気な性格をしていると評判のサタンマルッコだが、見てくれだけを切り取れば見事な栗毛のシルエットだ。絵になりやすいのかもしれない。


「サタン、いいんですか?」

「ああ。勝ち負けになる」


 訊ねた文昭に、横田は断言した。

 背中に跨っていた者として何か感じ入るものがあったのだろうと文昭は推測し、画面の中、スターティングゲートへ向かうサタンマルッコの後姿を見やる。

 サタンマルッコは強い。同世代で直接鎬を削ってそう感じたし、上の世代との初対決ジャパンカップ、クエスに逆襲した有馬記念、得意の距離へ踏み入ってライダーに勝った大阪杯。レースを見ていてもその思いは強い。

 同時に、勝つか負けるか分からない馬であるとも思っていた。

 そりゃ、絶好のスタートセンスが保障する大逃げ先行から粘り勝つスタイルは強い。しかしどこか危うい。思われているほどの楽勝など日本では秋以降無かったのだ。

 だが、勝つか負けるか、分からないのだ。それは今、この瞬間も。

 一瞬で日本の騎手を唸らせた世界王者に、力及ばず負けるかもしれない。でも、激闘の末、勝っている姿も思い浮かぶのだ。

 変な馬だ。嫌になるぜ、全く。


「勝っちまえよ」


 世界王者だか欧州最高だか知らねぇけど、そんなもんあっさり片付けちまえ。

 そしたら今度は俺たちと勝負だ。俺たちはまだ参ってねぇぞ。早く帰って来い



----



《スターァトしましたッ!

 サタンマルッコまずはスタート絶好ッ! 今日も行く今日も馬なりで前に躍り出た!》


 よし、とか、いいぞ、とかそんな声が文昭の耳を打つ。文昭も握った拳に力が入った。


「鈴がついたか」

「すげえなサタンのスタートに追いつけるのか」

「いや日本でもスプリンター連れてくればさすがに鈴は付くだろ」

「まあ確かに有馬じゃダイランドウが先頭だったな」

「ありゃ例外だろ」


 スタート直後、ドバイのケインスニアがサタンマルッコに内に付く。今までに無い展開と思いきや、実はそんなことは無い。サタンマルッコは菊花賞で出遅れ後ろからの競馬をやっていたし、有馬記念ではダイランドウに先行され、グリムガムジョーに散々絡まれた。

 ただ、枠順的に鈴についた馬は内側なのでコーナーに入った時点で多少のロスは負わされてしまう事になる。或いはそれこそが目的ではないかと文昭は思った。


《後ろに5馬身。5馬身しか切れていないぞ、5馬身離れてフランス牝馬マイルクイーンのサイキ。団子になるように各馬が密集して、クエスフォールヴは、外目の後方。隊列の後方に位置しています》


「おいおいサタンがちぎれてねぇぞ」

「いやでも……速い……速いよな?」

「これ前の方58秒台だろ」

「そうするとクエスが平均ペースでいい感じじゃん。いいぞサタンその調子で引っ掻き回せ」


 戦前この事態を誰が予想しただろうか。最後方のクエスフォールヴですら60秒台の超ハイペース。


「え、てことは、これ前で囲まれてる集団ごとセヴンスターズつぶれる?」

「まじだ囲まれてる。きたぞこれ、いけるぞ!」

「いやでもこんだけペースが速いとどっかで馬群がばらけるぞ。直線も長いし捌けないはずない」

「とはいえセヴンスターズだって馬だぞ。こんなペースに付き合ってまともに末脚が出せるとは思えない」

「それ言ったらサタンは……いやフォワ賞みたいに残しそうだな」


 周囲の騎手が言うように、ナチュラルペースのサタンマルッコと、日本でも散々経験し、得意の高速ラップを刻むクエスフォールヴにとって理想の展開と言えた。

 サタンマルッコはセオリーを無視した走りで既に結果を出しており、クエスフォールヴはここまでロンシャンのセオリー通りの走り。対して欧州馬たちの大半はハイペースに巻き込まれて徒に体力を消費しているように見えた。


「いや、これセヴンスターズが周りの馬を付き合わせているんじゃないかな」


 サタンマルッコが先頭でフォルスストレートに入った時、横田が呟いた。


「馬群の前の馬は自分からあの位置についたけど、横を塞いでる馬はスターズを見てから付いていってる。それってつまりスターズは初めからあの位置で競馬するつもりだったって事にならないかな」

「だ、だとすると」


 横田が語った恐ろしい予想。それが真実の一端であるかのように、フォルスストレートに入って暫くして、馬群が見る間にバラバラと崩れた。このままでは完走すら危ういと踏んだ騎手たちがペースを落とし始めたのだ。それもそのはず、現在のペースは2000m戦の通過タイムよりも速い。


「前の馬はもう殆どダメって事っすか?」

「たぶん直線に入ったところで足が上がってるんじゃないかな。フォルスストレートって緩いくだりなんだけど、マークで力みながらペースを落とすと余計に力を使うんだよ。京都の下りと同じ」

「じゃあもしかして今ってヤバイ?」

「いや、展開自体は後ろの馬に向いてる筈だよ。ほら、クエスとフランスの馬がすいすい上がっていくじゃない」


《中団の塊を前にクエスはどうだ、ばらけた馬を外から交わして順位を上げるクエスフォールヴ。同じ道を利用してフランスのリスリグも上がってくる。ラチ沿いの馬と順位を入れ替える格好となった。

 セオリー通りにするならばここはじっと堪えねばならない所。しかし序盤はあまりにハイペース、セオリーの裏を取るならここで順位を上げる判断は妥当なのかどうか》


「マルッコは5馬身か。後ろが妙なレースになったけどこっちはいつも通りだ」

「あっ、スターズが抜けてきた。すげーあんなとこ通るのかってやべーじゃん」


 文昭は力の入りすぎた拳を意識して緩める。横田も背もたれから身体を浮かせ、拳を握っている。あまりにも順調。このままいけば、そんな期待が高まる。

 レースはいよいよフォルスストレートの出口付近。この辺りで脚色に差が出始め、くっきりと明暗が分かれた。勝ち負けの状態にあるのは、見る限り中団の先頭を走っていた二頭と後方から位置を上げつつあるクエスとフランスのリスリグ。そしてセヴンスターズ。


《さあ間もなくフォルスストレートが終わり最後の直線がやってくる!

 先頭サタンマルッコが直線に入った! 懸命にサタンマルッコ! リードは2番手ケインスニアまで5馬身はある! その後ろ、順位を入れ替えて内からサイキがやってくる! クエスフォールヴはサタンマルッコを射程に捕らえたか、5馬身程の位置で脚を溜めている! そしてその後ろにピッタリとセヴンスターズ、不気味にリスリグ!》


「う、うおおサタンまだいけてるぞ」

「リスリグってこの馬すげえ脚だぞ大丈夫か!?」


《先頭サタンマルッコ!

 さあここでクエスフォールヴに鞭が入った!

 クエスフォールヴ伸びてくる! クエスフォールヴ伸びてくる!

 サタンマルッコリード2馬身!

 クエスフォールヴ伸びる! 外はセヴンスターズを交わしてフランスのリスリグ!》


「うおおおお日本馬が上位二頭だぞ! どっちがかってもいいじゃねえか!」

「いける! いけ! いっちまえ!」


 ロンシャンの直線を日本馬が先頭で走り、追走する馬もまた日本馬。夢のような時間はしかし長くは続かなかった。


《リスリグがクエスを交わす! リスリグ脚色がいい!

 サタンマルッコまだ1馬身程リード! 粘る! 粘る粘る!

 リスリグ脚が止まったか! リスリグ止まったか! クエスもまだ頑張っている!》


「ああああクエスがあああ! 逃げろサタン! 粘れ! 頑張れ!」

「いけ! 押さえ込め! よし! よし! よし!」

「いけっ! クエスもう一度伸びろ!」


《あぁっ! ここでセヴンスターズ! 物凄い脚!

 フランコフが鞭ィ! セヴンスターズクエスを交わす!

 一完歩、二完歩! リスリグに並んだ! 交わした! あっという間!

 だがまだサタンマルッコがいる! 1馬身リード! この馬はここからがつよ……》


「そうだ、サタンは競られてからが強いんだ」

「いける、いけるぞ! いけ……」


《ああぁセヴンスターズッ!

 並ばない!

 並ばない!

 並ばずに交わす! サタンマルッコ交わされた!》


「あ……」


 無常とも思える末脚は一瞬にしてサタンマルッコを交わし、日本の夢すらも切り裂いた。

 それまでの歓声が嘘のように静まる室内。実況の声だけが木霊する。


《セヴンスターズ完全に先頭に立ったッ!》


 あれだけ強かったクエスでも、サタンでもダメなのか。

 空白で埋め尽くされ言葉の出なかった脳内がようやく搾り出した思考。それはこの場にいる騎手たちの共通した感想だった。彼らはまたダメかと思った。考えた。まだ終わっていないレースの負けた理由を考え始めていた。


「負けてんじゃねえぞサタンッ! 差し返せ!」


 気付けば、文昭は叫んでいた。


「差せぇッ!」


 お前が負けたら、お前に負けてきた俺たちはどうなる。

 そこに居るお前は俺たちに勝ったお前なんだぞ。何万頭の生存競争を勝ち抜いた俺たちの頂点がお前なんだ。下で支えてる俺たちの身にもなれ。お前が負けたらなぁ、気分が悪くて仕方ねぇんだよ!


「差し返せサタン!」

「もうお前しかいねぇんだ! 勝ってくれぇサタン!」

「差せェ!」

「差してくれェ!」


 俄かに騒ぎ出す騎手たち。それは波及し一瞬にして怒号へ変わった。

 祈りにも似た叫び。届くはずのないその声が、まるで背中を押したかのようにサタンマルッコを加速させた。


《なんということだ! 出た! 前に出た! 前に出たかサタンマルッコ! 頭半分!》


「うおおおおいけええええええ」

「ああああああ走れええええ!」

「なんとかしろおおお!」

「はやくゴールしろおおお!」

「にいいげえろおおおお!」


 そして、身体半分前に出たところがゴールだった。


 爆発する歓声。


 文昭も白ずんだ頭で周囲の騎手と喝采を上げながら身体やら頭やらを叩き合う。

 狂乱が落ち着き、ふいに椅子に腰掛けたままの横田の姿が目に入った。

 何を思い、何を重ねているのか。静かな凪いだ瞳から透明な雫が頬を伝って落ちていた。


 一つ得心が行った。俺たちはこの人と、そしてあの馬と戦うのか。


「負けられねぇな」


 そのためにも、まずは明日だ。明日のレースは、魔王(サタン)に向かって続いているのだから。

 興奮で今夜は眠れないかもしれない。でも、他の騎手だって皆同じはずだ。それなら条件は同じかもしれないと笑った。


 サタンマルッコ、凱旋門賞制覇。

 この日、日本の競馬は新たな時代に足を踏み入れた。



天皇賞までいけなかった次回こそは


感想で凱旋門賞についてのご指摘いただいて、いろいろあわあわしながら調べた結果、

年度によってあとになったり前になったりするらしいので、作中の年度では毎日王冠のあとってことにしました。

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