番外編:そして魔王は西より来る-6
9月。海外遠征中のサタンマルッコが凱旋門賞の前哨戦であるフォワ賞を快勝し、クエスフォールヴがアイリッシュチャンピオンステークスを勝利する快挙を成し遂げ、俄かに日本競馬界が沸き立ったそんな時候。
栗東トレーニングセンターも夏の間の侘しさが消え、避暑地での休養から帰厩した競走馬達の馬蹄音で賑やいでいた。
Eダートコースを駆ける黒鹿毛の矢。屈伸と伸張を繰り返す躍動感あるギャロップ。古馬(4さい)となってからは走行姿勢そのものが低くなり、まるで地を這うようだと評されるようになったダイスケことダイランドウは、今日も世話人の大河原を背に訓練に明け暮れていた。
課題はペースの配分、というより次走の距離を走り手に伝える事。
どういう訳か大親友のマルッコは走る前からレースの距離を分かっている風であり、そこまでとは言わずともこれまでのような大敗から一歩進んだ形でのレースをさせたい。須田たちはそんな思惑の元日々の訓練を行っていた。
今日のスタートは向こう正面の直線入り口。一周2000mのEダートコースで換算すると1600m程になる。コーナー出口からレースが始まる次走毎日王冠を見据えての調教だった。
(トレセンじゃあ、ちゃんと走るようになったんだけどなァ……)
スタンドから見守る須田は大きく溜息を吐く。
スタート直後は猛ダッシュ。コーナー出口で息を入れて、直線でもう一度スパート。
鞍上が何も指示せずともそれをやってのけたダイスケは計測区間を走り抜け、流しに入っていた。
時計は1分38秒。だいたい8Fのタイムであるから、調教で出す時計としては猛烈に速いと言えよう。加減が出来ない馬なので普段から好きに走らせるとこの調子ではあるのだが。
「つーかなんならダートもいけちまうな……冬はフェブラリーでも出るかぁ?」
その気も無い予定をぼやきながらガシガシと頭をかき、新聞を広げる。
『ストームライダー、毎日王冠から天皇賞へ!』
勇ましい字体で刻まれた一面記事にはライバル参戦の報道。まあそりゃ出るわな、と思いつつも出来れば毎日王冠に来ないで欲しかったと思わずにはいられない。
秋の古馬王道路線に習うならば、短距離よりの馬は毎日王冠を、春シーズン後半を休んだ馬ならば8月の札幌記念から、長距離よりの馬は京都大賞典を初戦の叩き台として使い、そこから秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念と進む事になる。
宝塚記念で手合わせしたメンツの大半は京都大賞典や牝馬路線、或いは短距離路線に回った。
特に京都大賞典はスティールソード、ラストラプソディー、モデラート、キャリオンナイト等が出走するため、宝塚記念のリマッチとさえいえた。逆説的に、実力馬達は春を順調に進んだため、札幌記念は手薄ということになり新勢力が名乗りを上げる可能性もある。
須田としてはストームライダーには実績の足りない2400mへ足を伸ばして頂きたかったのだが、紙面を見る限り、ストームライダー陣営はあくまで中距離のスペシャリストとして1800mの毎日王冠にて短距離王者であるダイランドウと戦う道を選択したようだ。
前回、マイル戦の安田記念ではしっかりちぎって力の差を見せ付けた。恐らくあの距離で戦えば8割は勝つだろうとの手応えもある。
だがそこから200m延長するとどうなるのか。
思い返せば安田記念の最後の直線。ストームライダーは手応えが随分と悪かった。何か問題を抱えているのか、それとも何かを変えようとしていたのか。
(いずれにしろ、楽はできねーわな)
生半な相手ではない。それはダイランドウの同世代として以前より感じていたし、直近の走りを見てその想いは新たになっている。
今年度の挑戦は秋の天皇賞を目標としている。大河原の気付きが正しいのかを確かめたいというのと、得意の1600mから400mの距離延長は、今のダイスケの走りを見ている限り現実的であるように思えたからだ。弥生賞や皐月賞といった単語が耳に入ると謎の頭痛が発生するが、やるったらやるのだ。
現4歳世代は世間の評判ではレベルが高いとされている。それはラップやレース展開、走破時間など実際的な数値からであったり、熱戦の多さから来る漠然とした印象であったりした。
須田の目から見ても、中、長距離は能力が高いように思えた。それこそ世代さえ違えば、掲示板に乗っている馬はどの馬も3冠馬となれるとすら思う程に。
短距離は我が事ながらダイランドウという傑物により統一されてしまったが、短距離馬は押並べて競走生活が長い。まだまだ何があってもおかしくはないだろうと考えていた。
だからこそ。
だからこそ、激戦繰り広げる古馬戦線の中でも、最も熾烈な2000mという競走にダイランドウという馬を参加させたい。
昨年度と今年度の競馬はきっと、10年後20年後には伝説になる。そのような予感がしていた。
その伝説の中に、ダイランドウという名を、須田光圀という名を刻みたい。並び立てたトロフィーにではなく、同じレースを戦った馬として。
中距離覇者決定戦、天皇賞秋。
爆ぜるか燃えるか駆け抜けるか。
まずは前哨戦、毎日王冠はすぐそこまで迫っていた。
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「おう、やってるかー」
土曜日の昼下がり。県内某所の集合団地の一室には大の大人が4人ひしめき合っていた。
真昼間だというのにそれぞれの手にはビールやチューハイの缶が握られ、ビニール袋でごちゃついたテーブルの上には思い思いに買ったと思しきつまみが開封され散乱している。
彼らは大学の同級生でかつては同じ学び舎で過ごしていた。そしてそれは既に十年以上前の出来事でもあった。
いつ頃からかは分からない。少なくとも学生の頃はこんな習慣は無かった。
それぞれの就職先で始まった社会人生活。連絡をし合っているうちに始まるだらしない時間の共有。いつしかそれは休日の昼下がりに行われる宅飲みという習慣に変わり、仲間内の一人が競馬を話題にしてからは、酒を飲みながら日曜競馬を観戦する会に変わった。
「おっ、まーやん来た! これで勝つる!」
「はいはい今日もご期待通りつまみになりそうなもの作ってきてやったぞ。ありがたく食すがよいぞ」
男が差し出したトートバッグをうやうやしく受け取り、コレ幸いと中から次々タッパーを取り出す。だらけていた男達が意外な俊敏性を発揮してこれらに群がった。
男は料理人だった。学生時代は全く関係のない学科を学んでいたのだが、趣味が高じて中華料理屋の厨房で働いている。
男も適当な場所に腰を下ろし、冷蔵庫から勝手に拝借した缶チューハイを開ける。別段咎められる事もない。ギブアンドテイクを通り越した男同士の"ツーといえばカー"である。
どうという事のない飲料だが、ここまでそれなりに歩いてきた喉につめたいアルコールは効く。9月は実質夏みたいなものだから特に。
「さて今日は毎日王冠なわけだが?」
話題を提供する時に少し抑揚をつけて鬱陶しい感じに切り出すのがお決まりである。
「ンン、まーやん氏。本命はどの馬でしたかな?」
「これこれ。まーやん氏と言えば嵐厨でござろう」
「そうでしたな。宝塚記念で、ブフォッ、三着(笑)のストームライダーでしたな」
「てめぇこの野郎ライダーは弱くねぇ宝塚はあんなもんたまたまだ、たまたま」
「まーやん氏顔真っ赤だな」
「はいはいここまでテンプレ」
彼らは学科がバラバラだった。しかし大学のアニメ研究サークルという場所が彼らを一つにつなぎ、30過ぎた今日までのだらけた関係を続けさせているのだ。
「毎度思うけどこれ、要る?」
「手を変え品を変えやってるから、なんか辞め辛くて」
「お約束って大事じゃない? 2chもノリが変わって付いていけなくておじさん悲しい」
「まあいいじゃん。で、毎日王冠だっけ。俺まだ買ってないんだよねオススメは?」
「ストームラ」
「ストームライダー以外で」
「そもそもどの馬出るんだっけ。俺もまだ買ってないから皆で相談して当てようぜ」
「てか狙うなら10Rじゃね? ここは一番人気が鉄板だってヴァ」
「ほらほら雑誌もって来てやったから一緒に見ようぜ」
先ほどまでのだらけ具合はなんだったのか、狭いテーブルに身体を押し付けあって同じ紙面を読んでいる。こういう所は学生の頃から変わらないなと思いつつ、男も頭越しに雑誌が見える位置まで近づく。文字は読めるが、正直なところ文面は全く頭に入ってこない。いいのだ。こういうのはノリで。
『ダイランドウが勝負の鍵を握る!』
『東京1800mは枠順がキーポイント!』
『どうなる毎日王冠! 人気の二頭は外枠発走』
『1枠1番が鍵を握る! 秋初戦は秋なのにハルランマン!』
『タクミが斬る! 鍵を握る中距離覇者ストームライダー』
「部屋の鍵何個あるねん」
「鍵多すぎ問題」
「セキュリティに問題のある毎日王冠のようですね」
「雑誌が当てにならないことは分かった」
「まあでもダイランドウかライダーのどっちかじゃね?」
「馬連のオッズやばそう」
「二倍台だろうな」
「はいはーいここにサイコロがありまーす。シミュレーション開始ー」
「おいばか止めろお前のサイコロはデスサイコロ――……」
学生の時から変わらない下らないやり取りは時計の針の進みを速くした。
「あ、やべもうパドックの時間じゃん」
あっという間に時間は経ち、時刻は3時過ぎ。
最初は真面目に予想していた彼らだったが、サイコロを振り出した辺りから空気が怪しくなり、気付けばボードゲームを始めていた。
誰かが慌ててテレビをつける。
「よかったちょうどパドックだ」
東京競馬場のパドックは画面越しにも多くの観客で埋め尽くされている事が見て取れた。
ダイランドウとストームライダー。短距離の王者と中距離の猛者。両雄共に得意距離から200mずれたこのレース、その結末を見逃さんとして詰め掛けているのだ。
『竹中さん。今日はGⅡですが、お客さんがいつもより多いですね』
『明日の京都大賞典といい、古馬戦線は注目のカードが多いですからねェ。
近年は調教技術が高まり前哨戦を必要としない馬も増えました。ですから、まぁどちらのレースにも言える事なんでしょうが、こうして本番前のレースでこれだけの名馬達の戦いを見られるとなれば、やっぱり観戦したいと思うのが競馬ファンの心情なんじゃないでしょうかねェ』
「競馬場が近ければ俺達モナー」
「車で4時間はさすがにきついよな」
「そいや年末どうする? 今年は有馬見に行く?」
「去年酷い目にあったから止めようぜ」
「けど有馬にはサタンマルッコとかクエスフォールヴ帰ってくるんだろ? こんなん98レベルの伝説不可避じゃん」
「先の話はわかんねーなー」
『4枠8番ダイランドウ。現在のところ単勝2.3倍、一番人気です』
「ほーんダイランドウ一番人気なんだ」
「んまあセンハチなら2000の実績より1600の実績重視するよな」
「とはいえ東京センハチとかクソコースだからなぁ」
「でもダイランドウとかストームライダーってスタートいいやん? だったら枠とか殆ど関係ないんじゃないの」
「まあそういう所含めてダイランドウなんじゃないの? スプリント戦の大外枠でハナ切った馬だぞ」
「ナルホドナー」
いや、そんなことはない。
仲間内の会話に混ざらず、男は心中で反論する。
彼は仲間達が言うようにストームライダー贔屓、ネットスラングでいうところの嵐厨である。
曰く、まず名前が格好いい。
乗られる側なのにライダーっていうのが違和感ありつつ一周回ってロックだし、そもそも馬に乗る人はジョッキーだし。それでいて嵐に乗っちゃってるものだから、その昔彼の右手に封印された古の魔王も疼こうというものだ。
それに、二歳の時のストームライダーは周囲の馬が比較にならないくらい図抜けて強かった。走りが伸びやかで、跳ね馬っていうのはこういう馬みたいなのを言うのだなと感心混じりに馬券を握り締めた。
レース運びもいい。王道の先行押し切り。優位な前目につけて、後ろの馬より鋭い末脚を繰り出す。分かり易く負けるわけがなかった。差し追い込みなんてスタートで前に出れない馬の言い訳なのだと教えてくれた。
二歳時の化物感も凄かったが、三歳になって皐月賞を勝った時、これで今年は決まりだと確信した。
掲示板のレスバトルも全戦全勝だ。そりゃそうだ。相手がどれだけ言葉を弄そうとも、こっちは二歳チャンプでレコードホルダー。クラシック初戦もレコード更新。出来ないことなんて無い、圧倒的実力、圧倒的才能、絶対正義ストームライダー様なのだから。
ストームライダーは男を気持ちよくした。競馬場で、掲示板で、飲み会の居酒屋で。
そんな馬だから当然入れ込んだ。男にしては珍しく、特集のある号の競馬雑誌を毎回買うくらいには。
ちっぽけな男を自負する彼が想像する最強の形、それこそがストームライダーだった。
それが負けた。しかもぐうの音も出ないほど完璧に。
勝ったのは別の形をした最強だった。なるほど、前目につけて後ろの馬より鋭い末脚で勝つ。ではそれより前で同じ事をしたならば?
理屈は分かった。でも秋はライダーが勝つ。
ところがそこから思いもよらぬ挫折。勝つどころか菊花賞では同じ相手に大敗。
不吉な可能性が過ぎる。早熟早枯れ。
しかしそれらの戯言はすぐに払拭された。年末の香港カップ。あまりにも圧勝であり、有無を言わさぬ実力の高さを見せ付けた。
だが、その後の競走成績は春に想像したような華々しいものにはならなかった。
必勝を期した雪辱戦、大阪杯。負けるわけに行かない戦いでハナ差の2着。決して得意とはいえない2000mの勝利により、世代の評価がサタンマルッコによって完全に塗り替えられる。
挑戦者の立場になっての安田記念、マイル戦。実力差を見せ付けられる2着。
宝塚記念。去年には着順で上位だった馬達に先着され3着。
正直言って苦しい。もしもこの成績が過去の馬だったのなら、早熟で成長力が高くなかったのだなと切り捨てているかも知れないほどに。
だけど。
『5枠9番ストームライダー。現在単勝2.5倍、二番人気です』
「やっぱり俺はストームライダーだわ」
「まーやん熱いライダー推し」
「そらそうよ」
「見た感じ調子はよさそうだよね。+6キロがちょっと気になるけど」
「注目のカードだけど陣営としちゃ前哨戦だからな。メイチじゃ仕上げないだろ」
「でもダイランドウは割ときっちり絞ってた感あったぞ」
「いやあの馬レース出るときはいつもきっちり絞ってるぞ」
「え、まじでさすが須田っち」
「いや須田っちは関係ないだろ、あるけど」
あの輝きが贋物だったとは思えない。
誰がなんと言おうと勝って欲しいのはストームライダーなのだ。
男は鼻息も荒く腕を組む。室内なのに意味も無く仁王立ちである。
「え、まーやんどした?」
「俺はこの戦いを黙って見守る」
「お、おうそうか」
「また変なスイッチ入ったな」
そうしてガヤガヤやっているうちに本馬場入場、スターターが旗を振ってファンファーレが流れる。
「よし、8-9の馬連いちまんえんだな。はい現金徴収ー。勝ったら皆で焼肉行こうぜ」
「いやいや2倍の馬券じゃ焼肉くえねーだろ。ほい2000円」
「やっすい食べ放題のやつで」
「それなら牛丼屋で豪遊しねぇ?」
「あ、それいいわ採用。まーやんもそれでいい?」
男は無言で頷く。出来るだけ強そうに。そしてレースの開始を待った。口を真一文字に結んでいるが、金も大して賭けていないのに心臓はバクバク鳴っている。
体勢完了し、いよいよ――……
『スタートしました! ダイランドウ、ストームライダー人気の二頭は好スタート!』
「よしよしいいぞーこれ」
「俺たちの馬連8-9一万円がんばえー!」
「勝ったら豪遊」
「※牛丼屋に限る」
『バックストレッチに入り隊列が形成されます。
先頭はやはりというべきかダイランドウ今日も元気に飛ばしております。
今日はどうでしょうかダイランドウ。気持ちよく走っておりますが果たしてゴールまで走る事が出来るのかどうか。
二番手はストームライダー差は3馬身ほど後続を引き連れて――』
「いいぞ、今日は外差し決まってないから前でいい」
「1000m通過が58秒台ならダイランドウ確勝レベルだがどうかな」
「1800でそんなペースなわけねーべ」
『先頭のダイランドウが馬群を引き連れて3コーナーに差し掛かりますがおっとォ!
ここで、と言わざるを得ない、ここでストームライダーがダイランドウへ並びかけに行った! 行った行った行った。安田記念の時より更に早く仕掛けに行った』
「うはまじかよ早くね?」
「ダイランドウ、ちゃんと走れば安田の時みたいに直線半ばで二の足使うからな。誰かがいかなきゃいけないんだろうけど、正直こうなったらもうダイランドウ負けなくね?」
「まだわかんね。ライダーって主人公属性あるから秘められた力が覚醒する展開ある」
「ねーよと言わざるを得ないが勝ち負けはまだわからんな」
『後続も猛烈に追い上げてきている。
これは、これは中距離にしては珍しく、珍しく中団が膨らんでおります。
後続は団子。後続は団子だ、先頭はダイランドウ、外に半馬身付けてストームライダーで直線に入ります』
「よっしライダーいい位置!」
黙って見届けようと思っていたが思わず男の喉から声が出る。
「位置だけはいい!」
「3コーナーで結構無理したからどうだ」
「いやコレ結構余裕ありそうだぞ」
『先頭ダイランドウ!
抜けた抜けた後続を引き離す!
やはり走りさえすればスピードの絶対値が違うのか!
ストームライダーも食い下がる! ダイランドウリード1馬身!』
「う、おおおダイランドウつええ」
「ダイランドウが歩いてない、訴訟」
「前二頭で決まりだな! 勝ったわ風呂入ってくる」
「おいやめろ」
『しかしここで後続もぐんぐん差を詰めに来た! 4馬身、3馬身、残り200を切る!』
「ほらあああ!」
「うわああすまんそんなつもりじゃ刑事さん信じてくださいぃぃ!」
騒ぐ仲間らも目に入らず、男は画面を食い入るように見つめていた。
(違う。差を詰められているんじゃなくて息を入れているんだ)
瞬間、男の中で様々な映像が浮かんでは消え、一つの連続した解答を導き出した。
安田記念、まるで距離が長かったかのような直線での失速。
宝塚記念、一度は後塵を拝したキャリオンナイトを差し返した。
そして今。並ぶように走る二頭は同じように後続との差を詰められている。ダイランドウとライダーは同じだけ減速しているということだ。男にはそれがまるで、大いなる飛越を前にした助走であるように見えた。
これまで何度もストームライダーのレースを見てきた。けれどそのような感想を抱いたことは一度も無かった。
(変わろうとしているんだ。もがいているんだ)
勝つために。立ち塞がる壁を越えるために。
『ここでダイランドウがもう一度! もう一度ダイランドウが突き放す!
強い強い! ストームライダー食い下がる! ストームライダーがピッタリ付いている!
やはり最強の二頭の争い!
逃げるダイランドウ! 追うストームライダー!
二頭のレース! だが、これは、ダイランドウ! 頭一つで押さえ込んだかダイランドウ! ダイランドウ先頭!
ダイランドウ先頭で、ゴールインッ!』
「おわー!」
「ぶはああああダイランドウかー!」
「うおおお接戦だった!」
「どっちが勝っても勝ち確の安心感よ! や馬連神」
騒ぐ仲間達の声もどこか遠く、男は呆然と画面の中、フォーカスされているダイランドウとストームライダーを見送っていた。
あの天才が、己の考えた最強が、勝つために必死でもがいている。
人によってはそれを無様だ滑稽だと笑うのかもしれない。
でも。
「俺、調理師免許目指すわ」
趣味が高じて、なんとなく働いていた。現状に満足して、明日も明後日も働いて週末の休みを目標に漠然と。
変わろう。俺の最強がもがいている。勝とうと頑張ってる。
頬を熱いものが伝った。
「俺もやるんだ。俺も」
「ちょ、まーやんどうした? マジ泣き?」
「え、ごめん煽りすぎた?」
「うるせーそんなんじゃねー」
頑張ろう。今度は途中でやめたりなんかしない。
レースシーンを短縮するはずが、全体としてなんかすげー長くなったゾ。
まーやんと呼ばれた男の掲示板への書きこみはダービー前後の掲示板内に登場しています。
別に目立つ内容ではないのですが、読んでいけばたぶんコイツかな、という目星はつくと思います。
次回、たぶん天皇賞! もしかしたら分けるかも……いやたぶん、おそらく分ける……かな……まとめて書ききれる自信がないので……




