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番外編:そして魔王は西より来る-2

 竹一族。古くから中部地方にて馬産で名を上げていた豪族の末裔であり、戦後の日本競馬界でも活躍する一族である。

 財界に顔の利く竹山氏が資金を集め、竹中氏が育み、竹田氏が乗る。いつしかそれらは複合企業となり、今日の竹グループとして名を馳せる。

 競馬解説の竹中は竹一族の中でも一等の変わり者で馬産に従事しなかった。騎手の竹田はまさしく一族の看板を背負う存在だろう。


 竹一族の方針が変わったのは、先代から後を受け継いだ竹山秀一がオーナーに就任した1980年代後半、日本が世界の競馬との格差に震撼した時期であった。


「牧場、トレセン、競馬場、という日本のシステムでは古い。馬を主体として見るならば、産まれた場所で育つべきであり、また、訓練も同地で行うべきだ」


 それは豊富な資金を持つ竹一族であるからこその発言ではあろう。零細の牧場が一流の競走馬を育て上げるだけの訓練施設を自前で備えられようはずもない。

 だが、竹一族は動き出した。いつか来るであろう最優の種を待つ牧場由来の優秀な牝馬。栗東、美浦、両トレーニングセンターを凌駕する充実した訓練施設。併設された放牧地とまさにそこで生まれた馬房。一流の職員。外部施設に一切頼ることなく一流の競走馬を輩出する体制は2000年を過ぎた頃、ついに確立された。奇しくも同様の発想を最大勢力であるノースファームも行っており、外厩制度の後押しもありこの試みは想定以上の効力を発揮した。


 無論、施設を整えただけで勝てるほど競馬は甘くない。勝率は確かに上がった。それにより経営も軌道に乗り、外部資本を招いての生産もスムーズに行くようになった。

 あと少し。もう少しで手が届く。遥かなる高み、GⅠに。


 そして彼らの宿願は成就した。

 嵐吹きすさぶ中、一頭(ひとり)狂ったように駆け回っていた幼駒。職員らにはアラシと呼ばれていたその馬。

 ストームライダーと呼ばれる形を以って。



----



 竹中牧場、現役競走馬用厩舎。軽トラックくらいなら内部を走行できる道幅の廊下を歩きながら、ストームライダー管理調教師、山中雅史(やまなか まさし)は手中の麦穂を弄んだ。

 目的地に到着する。訪ね馬は濃茶の顔をひょこりと出した。


「ようアラシ。元気そうだな」


 大阪杯後、牧場へ戻されていたストームライダーだ。ピクピクと耳を動かしながら、山中の手の平を受け入れている。

 ストームライダーはレース前一週間以外は基本的に生まれ育った故郷である竹中牧場で過ごしている。なれた場所。広い場所。見知った人間、見知った馬達。その中での生活は馬にとってストレスが少ない。それこそが竹一族が誇るシステムである。

 現にストームライダーは疲れこそ見せていた物の、リラックスした様子で静養している。気性が激しいと言われる日本の競走馬において、レースや調教後の疲労感の中、ピリピリしていないのはかなり珍しい。このシステムの優秀さを山中はまさに肌で感じていた。これならば二週と待たずにまた動かしていけるだろうとも。


「調子はどうだ」


 革靴の足音。顔を向ければそこには竹グループ代表である竹山秀一が供も連れずに手を上げていた。そろそろ50の後半に差し掛かるという年齢にも関わらず、行動力というか、奔放さのようなものが目立つ男だ。だが、それが竹グループの原動力にもなっていた。


「これは、オーナー。ご挨拶もせずすみません」

「いや、いい。そのままで。ただ金持って口出してるだけの人間だからな。現場の人間に気を遣わせても仕方ないだろう。いつも言ってるが面倒な形式は省いていい」


 とは言ってもな、というのが山中の胸中だ。

 元々竹一族の中において山中は新参かつ外部の人間だ。ただ竹中牧場から競走馬を委託されている美浦所属の調教師。横柄に振舞えば角が立つどころの話ではない。


「しかし、負けたな」

「私の力が足りませんでした。申し訳ありません」

「それも何度か言ったな。あれは勝った馬が強かった。スタッフは最善を尽くしていたよ

うに私は思う」


 山中はストームライダーから手を放し、うつむいた。

 どうしたの? とストームライダーは山中を下から伺うように覗き見る。


「それでも、です」


 勝たせたかった。あの理不尽(サタンマルッコ)にだけはなんとしても。

 山中は外厩を使う馬にありがちなトレセンの『餌やり調教師』ではない。所属こそ美浦だが、馬を見る確かな目を買われ、竹中牧場内でも調教計画や指導を行う調教師という名の専門家だ。

 事前の調整は完璧だった。何が足りなかったのか。実力が足りていなかったとは思えない、思いたくない。


「次走はどうするんだね? 私としては春は宝塚で終わり、と思っているんだが」

「はい。私も宝塚記念を目標に計画すべきだと考えます。しかし」

「しかし?」

「秋を見据えるのならば、宝塚記念の前にもう一つ使いたいレースがあります」


 山中は決然と面を上げた。


「安田記念です」





 高原に位置する竹中牧場は夏も近づく5月下旬でもいくらか冷涼な気温を保つ。

 遠く周回トラックから戻るストームライダーの姿を見つめ、山中はこっそり溜息を吐いた。


 ハイペースへの追走、自ら先頭を走りレースを牽引できる勇気、馬群の中で耐える我慢強さ、抜群の末脚、ロングスパートを実行出来る優れたスタミナ、そして厳しいトレーニングから回復する速度。競走馬の備える要素として完璧に思えるストームライダー。しかし彼には一つ重大な欠点があった。


「強めに追ってみたんですが、やはりダメですね」


 その日の調教の結果をすまなそうに頭を下げる竹中牧場の職員。

 分かりきっていた事だったので山中は軽くいなした。


 優れた心肺機能。優れすぎたが故に、強めの調教程度では全く根を上げない。それは通常、全く欠点とはなりえない。だが、それ故に事態が深刻化するまで、誰一人として気付けなかった。


「今日も息を入れずにそのままですね……」


 ストームライダー。

 彼はその必要が無かったが故、息を入れるのが壊滅的にヘタクソだった。

 その優れた身体能力が1600mをこなし、2000mのラスト200mを流せる程度に楽勝させてしまう。大阪杯の明暗を分けたのはその200m。未知の全力疾走で肉体の限界を迎えたのだ。


 おかしいと気付いたのはダービー。最終的にレコード走破ではあったものの、明らかにラスト200mは精彩を欠いていた。確信したのは菊花賞トライアル神戸新聞杯。騎手に命じて試させた結果だった。

 奇しくもそれは、原因は違えど同世代におけるダイランドウが持つ危うさと全く同じであった。


 ストームライダーは牧場(ここ)が安全な場所であると知っている。賢いあの馬は訓練程度で命を賭けない。求められた程度で、出来るだけで走る。

 そして競馬場が命を賭ける場所であることも理解している。


 だからこそ。

 なぜかその弱点を克服しつつあるダイランドウと走る事によって何かを掴めれば、学んでくれれば。

 そうでなければ勝てないのだと理解してくれれば。

 完璧な施設が生んだ意外な脆さ。皮肉にもそれこそが最大の障害となって嵐を襲う。




----




調教師(センセイ)。ライダーが安田に出るみたいですよ」


 昼下がりの須田厩舎。大よそその日の調教を終えまったりとしていた所で、大河原は言った。話題の元となった新聞を広げつつ、胡乱な眼差しの須田へ見せる。


「あぁ? ライダーが安田ぁ? んなわけねー……うわマジじゃねえかどうしよう」


 須田が一瞬で素に戻る貴重なシーンを見て大河原は笑いをかみ殺す。後に引きはしないが、こういう時に笑うと須田は怒るのだ。


「えぇ? なんでライダー? いやそりゃ中距離っちゃ中距離だけどよ。マイルはよしなってマイルは。なぁ?」

「はぁ」

「なになに……秋を見据えてのマイル出走? どういうこっちゃこりゃ。秋は短距離戦線に移動ってことかぁ?」

「いや俺にもさっぱりで」

「宮杯(高松宮杯)勝ってゆっくり出来ると思ってたのによぉ。これじゃ安田も手を抜けねぇぞ」


 ダイランドウ。在りし日の大暴走より能力を開花させ、昨年秋の国内短距離GⅠ路線、スプリンターズS、マイルCSを制覇。まさかの有馬記念出場、5着からの高松宮杯制覇。紛う事無き国内短距離王者である。

 それどころか、次走安田記念は昨年二着。これを制せば史上初となる国内古馬短距離GⅠ完全制覇の偉業達成となる。手が抜けない等と須田はのたまうが、元よりそのつもりがない事を大河原はよく知っていた。

 昨年秋冬で国内短距離組との格付けは済んだと須田たちは考えている。余程の不利が付かない限りは次走の勝算も高いと。そんな時に訪れたストームライダー安田記念参戦の報せだ。やはり楽にはいかないのだと思い知らされる。しかし。


「でも実際のとこ、ライダーってマイルだとどうなんです?」

「2歳の時点で朝日杯をレコードだ。テンもいいし瞬発力も高い。身体つきも距離の長いところ走らすよりは短い方がいいような感じはある。まあこなすだろうよ。理想は1800とか2000の中距離の区分だとは思うが」


 だからなんだよな。と須田は一端区切る。


「どうして今更マイルのレースに使ってきたのかが分からねぇ。ましてや府中(東京)の1600だぞ? 阪神外回りでレコード出すような馬が今更得るものなんかねぇと思うが……あぁ、それで秋か。なるほどな。秋の毎日王冠やら天皇賞を見据えてるのか」

「えっえっ、どういう事ですかセンセイ」

「新聞の記事鵜呑みにすればって話だが、向こうさんは秋競馬を見据えて今回出走するらしいじゃねえの。秋にやる東京競馬場のGⅠつったら何があるよ」

「秋ですか? 天皇賞とジャパンカップ?」

「そうだな。そんで安田も東京競馬場だ。恐らく、秋までにレースで何か試しておきたい事があって、その確認のために選ばれたのが安田記念だったって事だろう。ふーん。そういうことしちゃうんだ。だったら負けてやれねぇよなぁ? なぁ?」

「アッ、ハイ」


 あ、センセイ怒ってる。

 紙面の何が気に障ったのかは分からないが、どうやら急激に機嫌が悪くなったようだ。それならば長居はすまい。大河原は「ちょっとダイスケの様子みてきまーす」とバレバレの言い訳を残し、速やかに脱出した。




 ダイランドウは厩舎の馬房でもしゃもしゃと飼葉をあさっていた。時々動きが止まるのは眠くてうつらうつらしているからだろうと大河原は推察する。

 少し足音を大きくしながら近づく。ダイランドウは一際臆病な性格をしているため、突然近づかれるのを怖がるためだ。こうしてうとうとしている時は存在を報せてやらねばならない。

 ダイランドウはぴょこっと餌箱から顔を上げ、漆黒の耳をピンとそばだてた。


「よーダイスケ。お前偉い事になったぞぉ」


 なにがー? と尻尾をゆさゆさ振るダイランドウ。閂に寄りかかる大河原のうなじに顔を埋め、計算通り鼻先を撫でられると尻尾が更にご機嫌に揺られた。


「次はライダーと対戦だとよ。大変だなぁ。覚えてるか? 皐月賞で戦ったあいつだよ……なんて言ってもお前は覚えて無さそうだな」

「ひーん」


 臆病かつ寂しがりやで甘えん坊。どういう訳だが仲のいい大親友のマルッコがいないと、夜になるたび泣くは喚くは暴れるわでとんでもない目に遭わされた。しかし思い返してみると元々そういう馬で、マルッコが居る間だけ大人しかったとも言えた。


「お前もたいがい訳のわからん馬だよなぁ。いやまぁそりゃ俺達人間からすれば馬の考えてる事なんて、本当には分かりゃしないんだけどさ」


 毎晩厩舎に泊り込むことで落ち着くようになった。身体はきついが、家族(ダイスケ)が辛い思いをしているのなら、それを助けてやりたいと思うのだ。


「きついかもしれないけど、次も頑張れよ、ダイスケ」

「ぶる?」


 家族(ダイスケ)が走れば、応援してやりたいと思うものだ。




----




 6月上旬。

 晴天の下、相対速度時速60kmの風が全身を叩きつける中、竹田豊とストームライダーは府中の芝を駆け抜けていた。東京競馬場芝1600mGⅠ安田記念。春の短距離路線の総決算となるレース。

 前には3馬身離れて漆黒の馬体の暴れん坊、ダイランドウ。

 スタートしてから600m。二番手につける(ライダー)に3馬身、そこから後ろにもう2馬身。短距離馬相手にたった600mで5馬身ちぎるその瞬発力。直線への位置取りが生命線の短距離レースにおいて絶対王者として君臨するだけの理由がそこにあった。


指令(オーダー)はダイランドウをマークだけど、それすらキツいな)


 やることは分かっていた。

 ストームライダーという馬の分水嶺となりうるこのレース。絶対に失敗は許されない。

 長い騎手生活の中で、これほどの才能に恵まれた馬と出会ったことは無かった。いや、それまでは運命であると感じていた馬は居た。それらが全て過去形で語られる程、ストームライダーの絶対能力は高かった。まして一族の想いの詰まった集大成である。乗馬に対してドライなスタンスを保っていた竹田であっても、入れ込まずには居られなかった。


 責任を感じていた。

 レースで馬に乗れるのは己一人だ。他ならぬ己が気付いてやらなければならなかった。相棒(ライダー)の欠陥に。


(お前なら分かってくれるはずだ、ライダー)


 3コーナーに入り、後ろも徐々にペースを上げてくる。ストームライダーはダイランドウの真後ろに付ける。体感ではペースが速い。マイルにしても、だ。どの馬もダイランドウを負かしに行く騎乗をしてペースが速まっているのだ。


 4コーナー。そろそろだ。竹田は手綱を導いてライダーを外に出しダイランドウと併走させる。ダイランドウは道中のペースを維持したまま直線へ入った。そしてそれはストームライダーも同様に。


 右手側のスタンドから吹き荒れる音の洪水。壁のような物理的圧力を持って人馬へ叩きつけられる。直線へ入った。


 足音が近づいてくる。後続の馬が一斉に襲い掛かってきたのだ。だが、竹田は振り返らない。ただじっとダイランドウにだけ意識をあわせていた。その動きは股下の相棒(ライダー)にも伝わる。

 わかる。

 ライダーの意識が隣を走るダイランドウに向けられた。


 大外に振られた馬達が外の方、並びかけてくる。

 残り400のハロン棒を通過した。スッとダイランドウの姿が後方に流れる。

 微かに聞こえる長い呼吸。


(これだライダー。これなんだ)


 ダイランドウが息を入れ始めた。大半の競走馬はコーナーで息を入れる。それは直線で求められる厳しいスピードを実現するため、経験で行われる行動だ。しかしあの馬は任意のタイミングでそれをやる。例えば、他馬が脚を使って追い抜こうとする直線の途中に。


 ストームライダーの異常性は呼吸を整えなくとも、要求される限界速度を実現できてしまう身体能力。走れてしまうのだからペースを緩める必要なんてない。

 違うのだ。


 外の馬達は道中の無理がたたってペースが落ちている。ライダーを交わすまでにも至っていない。

 残り200mに入った瞬間の事だ。左手側から聞こえる足音が力強く変わった。ライダーは見ている。抜き去ったはずのダイランドウがもう一度脚を伸ばし、並ぶ間もなく己を抜き去っていく所を。

 頭、目、首、身体、尻、尻尾。

 見送るしかない。だってこれ以上の速度が出せないのだから。


 背中から伝わる感情は困惑。どうして? まただ。なんで?

 これが初めてではない。ダービー。大阪杯。そして今回。


(分かってくれライダー。こんな想いはこれで最後だ)


 勝った負けたをするならば、ライダーは外の馬がしたような走りをするべきだった。

 手綱を握る指先が掌に食い込むのも構わず、竹田は強く握り締め続けた。

 ゴール板を駆け抜けた。割れんばかりの歓声が一気に萎んでいく。

 1馬身半差の二着。

 今のままでは一生縮まらない差だ。


「ライダー。お前に必要なのはあれなんだ」


 決着後、どこか呆然とダイランドウを見つめるストームライダーに、竹田は労うこともせず馬上から声をかけた。


「あれなんだ」


 どうか伝わってくれ。竹田の声は祈りにも似ていた。



次回の更新は22日19:00の予定です。

実はアラシ君はダイスケしてたというお話。

あと念のためいっておくと、竹一族はフィクションです。

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