番外編:そして魔王は西より来る-1
番外編です。
一方その頃、日本では。
それは、サタンマルッコ、ストームライダー、キャリオンナイトによる三つ巴の死闘と呼ばれた大阪杯より約4週後。舞台は関西、京都競馬場。
GⅠ天皇賞春。京都競馬場3200mにて施行されるそのレースは、春の古馬長距離戦線の最高峰、並びに国内において最も権威あるレースの一つである。
また、クエスフォールヴはこの日が春シーズン最後の国内戦であり、レース後は欧州へ羽ばたく予定となっている。
故に、ここを逃すと次は秋。当然、クエスフォールヴに負けてきた陣営の鼻息は荒い。奇しくもそれは、遠く欧州の地でセヴンスターズとそれに負けてきた陣営の構図とよく似ていた。
《……――ッ! 1000m通過が64秒!
第NN回春の天皇賞、とんでもない立ち上がりとなりましたッ!
先頭はゼッケン番号⑦番のスティールソードッ! リードは1馬身!
スローペースに抑え、後続を引き連れての逃げ!
後ろの馬は誰も行かない、行こうとしない!
これは後ろの馬はクエスフォールヴをマークした形か! 馬群が密集しております!
そして、超スローペースとなりました!》
細原文昭は馬上でちらりと後方を確認する。
(付いて来ているな。そして誰も抜きに来ない。へっ、どいつもこいつもお前が行けよって面してるぜ)
一周目のスタンド前。罵声に近い歓声が左手側から叩きつけられる中、人馬はゆったりと1コーナーに侵入する。
『親父。次の天皇賞、勝てなかったら俺を降ろせ』
口が裂けても自分から降りるとは言えなかった。だが、そろそろ結果を出さねばならない。客観的に見て、スティールソードという競走馬において最も伸び代のある部分は騎手だ。関東なら横田や海老名、関西なら竹田や外国人ジョッキー。若手の己より実績や腕前の確かな乗り代わり先は幾らでもある。
これまでの戦い、騎乗ミスで負けたと思われるレースは無かった、ように思っている。
では、己の騎乗で勝てたレースはあったか。
無い。
だから証明する。スティールソードには細原文昭こそが相応しいと。
《ここから長い向こう正面の坂。ゆったりとした隊列で果たしてどこまで行くのか。
クエスフォールヴはやや中団。スローペースの中でこの位置取りは果たしてどう出るのかダミアンロペス。
ここで1600mの標識を通過。坂の頂上へ、おっと。
スーッと脚を伸ばし始めたのは先頭スティールソード。リードが僅かに開くが後続の馬もこれに従いペースを上げ始める!》
もうすぐ坂の頂上。
細原は大きく息を吸い、長く吐いた。まるで呼吸を共にするかのように、スティールソードの身体も心なしか膨らんで萎んで見えた。
(あいつに出来て)
菊花賞。坂の上りから超ロングスパートで先頭に取り付き、最後まで脚を鈍らせなかったサタンマルッコ。
(あいつらに出来てッ!)
大阪杯。残り1000mからスパートを掛け、魔王の首に手を掛けたストームライダー、そしてキャリオンナイト。
「俺等に出来ねぇわけがねぇッ! 行くぞテツゾーッ!」
残り1000mのハロン棒と同時に細原は鞭を打った。間もなく坂の下りに差しかかろうかというところだった。4馬身離した先頭だが、そもそもここまで超スローペース。誰かが動けば後ろも続く。背後に轟く馬蹄の音が一層激しさを増したように感じられた。
相棒は好く応えてくれた。500kg弱の馬体をしなやかに躍動させ、頭を下げたその走行体勢はさながら一本の矢。
文昭が思うスティールソードの競走馬として優れた部分とは、騎手の手綱を信頼しそれに応じてペースを変化させる自在性、それを実現する心肺機能と切れる脚である。
同型のサタンマルッコほど心臓が強くない。ストームライダー程切れる末脚を持たない。だがこの素直さ、自在さだけは負けていないと確信している。
或いはそれが、自分に対してだけ発揮される信頼であったらいい。騎手としての独占欲がそう思う。
スティールソードは激しい走りで坂を下った。後続がペースを上げつつも内を膨らまないよう駆けたのに対し、下りの勢いで外へ大きく膨らむ程だ。
ロスではあるだろう。だからどうしたというのか。
(こっちは力が有り余ってんだ!)
肉体の話だけではない。
見ているだけだったジャパンカップ、そして有馬記念。隣を走っていた栗毛の丸は大阪杯で激闘を制して、今度は世界へ行くのだという。
大阪杯への出走は時期尚早と、まずはBlackTypeの誉れを得るため、天皇賞への集中。
結局栗毛の丸にも、嵐の馬にも、リベンジ出来ていないまま。
この鬱屈した感情はどこへ向ければいい。
世代の番付評価で頭を押さえつけられた俺達は、どうすればいい。
(勝つしかねぇだろうが!)
踏みしめた芝がちぎれ飛びターフを舞う。
広がる誰も居ない一面の緑。
スティールソードは相棒を乗せ、淀の直線へ放たれた。
《坂の下りで鞭を入れたスティールソードが先頭! リードは5馬身くらいある!
二番手にはラストラプソディー、内を回ってクエスフォールヴも追ってきている!
だが先頭はスティールソード! 残り200mを切った!
これは!
これは脚色が鈍らない!
逃げ切り濃厚! 逃げ切り濃厚!
クエスフォールヴ突っ込んでくるが先頭スティールソードも余裕がある!
スティールソードだ!
決まりだ!
お見事! スティールソード今一着でゴールインッ!
細原厩舎に春戴冠ッ! 長男文昭が見事射止めた春の盾ッ!
スティールソード! 4歳世代、3強の一角である事を見事証明したクエスフォールヴ撃破ッ!
鞍上細原ジョッキー左手を高々と突き上げましたッ!》
細原の下り鞭。
そう語られる第NN回春の天皇賞は、アーリースパートで勝負を掛けたスティールソードが3馬身差で最強古馬を打ち破った。
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「おぐ! でぃば?」
細原文昭は自分の呻き声のようなもので目を覚ました。夢を見ていた、ような気がする。いい夢だったような、悪い夢だったような。どちらにせよ声が出るような展開の夢だったのだろう。溢れた声で目を覚ましたのだから。
のろのろと枕元をまさぐる。携帯端末の画面は目覚ましが鳴る三分前を示している。二度寝も出来ない微妙で貴重な時間。文昭は行くか行かないかならば前に進む方を選ぶ。もたもた身体を起こしてベッドの淵に腰掛けた。
飾り気のない部屋が目に映る。鉛筆立てと電気スタンドしかない机。壁には電気屋から貰った数字だけの色気無いカレンダー。綿の萎んだ座椅子。唯一趣味を感じさせるのは大き目のディスプレイとそれに接続されたAV機器とゲーム機ぐらいなもの。
自分の部屋である。ふいに嗅覚を刺激する甘ったるい臭い。酒でも飲みすぎたんだろうかと思索に耽る。と同時に、昨日の記憶が蘇る。
熱狂する観衆。どこか遠くにそれを聞く自分。視界の奥広がる緑のターフ。眼前で上下する相棒の頭。荒い呼吸。ゴール板。見えないテープを断ち切ったかのような解放感。
「そうか。勝ったんだ、俺」
呟きは無音の室内に広がって消えた。
その静寂が呟きに対する肯定であるように思えて、文昭は口元をまごつかせた。
少し記憶を整理する。
祝勝会で馬主共々散々騒いだ。何軒か連れられた。大丈夫だ覚えている。
そして普段は着いて行かないような綺麗な姉ちゃんの居る店にも連れて行ってもらって。そこから覚えていない。
「それで頭が痛いと。アホだな俺は」
念のため枕元の財布を確認する。別段抜かれた感じはない。万札は景気良く消えていたようにも見えたが。
勢いをつけて立ち上がる。
黙っていても明日はやってくる。明日とはつまり今日だ。
そして騎手であると同時に父の厩舎の厩務員でもある文昭には仕事がある。人に休日はあっても馬には平日だ。
行くか。
シャワーや着替えを手早く済ませ、家を出た。
(そういえば、俺ってGⅠジョッキーになったのか。)
厩舎に向かいがてら、文昭は出し抜けに己の現状を認識した。
天皇賞春。一着賞金1億5000万。騎手の配分は5%。つまり750万が手元に来るわけで、それは未勝利戦なら約37勝分に相当する。殆ど年収のようなものだ。
文昭の歩様に乱れが生じる。それはやがて小躍りするようなスキップに変わった。
美浦に限らず、競馬に関わっている家庭の大半はトレーニングセンターの周囲に住いを構える。細原家も例に漏れずそうだ。家から歩いて15分の場所に細原厩舎の舎屋はある。
厩舎の扉を開く。もぞもぞと生物が蠢く気配。
「ようチャンピオン。元気してっか」
馬の聴力は高い。好きな物、嫌いな物が発する足音を聞き分ける事など容易い。
そんな優れた聴力を以って、当歳(0さい)からの親友、テツゾーことスティールソードは馬房の中から首を伸ばして文昭を迎えた。ぷるぷると嘶きながら差し出した文昭の袖を甘噛みする姿は目尻が下がる程愛らしい。
馬はレースに勝とうが負けようが、馬なんだなあ。
親友であり相棒の変わらぬ姿に、濃い鹿毛の毛並みを撫でながら、そんな間抜けな事を考える。
「ひーん」
他の馬房の馬達がおれも構えと次々顔を出し、宿直の厩務員がのそのそと起き出してくる。
こうして相棒や他の馬と顔を突き合わせ、日常に戻った事でようやく実感が湧いてくる。
「ああ。俺達、勝ったんだな」
茶色い相棒は静かな瞳で見つめ返し、豊かな尻尾をゆさゆさと振って答えた。
「よう、おはようさん」
「あ、親父」
一通り朝の仕事を終えた辺りのことだ。昨晩、というより朝方まで関係者と飲み明かしていた父、大吾が厩舎に顔を出した。普段なら嫌味の一つや二つ言ってやるところだが、生産牧場、調教師、オーナー含めて全員がGⅠ初勝利。そんな喜びを爆発させている所に水を差す程、子供ではない。
ところがその父親の機嫌が悪い。
「おいおめぇ、あの後ナミちゃんとどうなったんだ」
「ナミ? 誰だそいつ」
「かぁーっ! おめぇ意外と女泣かせな奴だなぁ! あんなに甲斐甲斐しく世話してくれたのに」
「はぁ?」
本気で心当たりの無い文昭はより深く昨夜の事を思い返す、がやはりキャバクラに連れて行かれた辺りで記憶が途絶えている。
「その顔、もしや記憶が飛んじまってるのか?」
「キャバクラに行ったとこまでは覚えてる」
「それだよ。そこでお前がベッタリだったのがナミちゃん」
「つまりはキャバ嬢ってことか?」
「おう。お前、それはそれはデレデレしてたぞ。何かしらんがそんなお前を向うも気に入ってたみたいだし。はーつまんな」
「マジかよ。本気で何も覚えてねぇ」
「お前が深酒しすぎてフラフラだったからタクシーに乗っけて送ってってもらったんだよ。ウチでずっこんばっこんヤッたもんだと思ってたんだが、その様子じゃそのまま眠っちまったみたいだな。ざっこ」
何故か一々毒を吐いてくる父親にイライラしつつ、さらに思い出す。
「それ、本当にあった事なのか? からかってないよな?」
「マジだっつーの。お前電話番号とか交換してただろ。見てみりゃいいじゃねえか」
「本当かよ……うわ、本当にあった」
ナ行にはナミという名で登録されていた。女の知り合いの番号など登録していないから間違いようも無い。分かりやすいようにしたのか、ナミ トリウミと登録されている。それが女の名前らしい。
「記憶に無さすぎる。どれだけ浮かれていたんだ昨日の俺。つーか酒って飲みすぎると本当に記憶飛ぶんだな。漫画だけかと思ってたぞ」
「電話してみろよ。ほら」
ニヤニヤしている大吾はからかう気マンマンのようだ。
「水商売の人間ならこんな時間は寝てるだろ。だいたい俺からすりゃ知らない女なんだから向こうからかかってこない限り電話なんかしねーよ」
「けっ、つまんねーの」
「それよりもだ。天皇賞の反省会、やっちまおうぜ」
「おう、そうだな。事務所に行くか」
二人は連れ立って移動した。
ディスプレイに流される天皇賞の映像。記憶の中のそれは主観視点であるが、テレビカメラを通して己の騎乗を眺めていると、少し不思議な気分になる。状況を俯瞰し、主観と照らし合わせる作業がこの反省会である。
「はっきり言って運がよかった」
大吾は硬い口調でそう切り出した。
「逃げ馬が居なかった。クエスが外枠発走で後ろ目の競馬を予定していた。他馬がクエスにピッタリでテツゾーを軽視した。クエスの鞍上ダミアンがスローペースに乗るのがヘタクソだった。ま、上げりゃ切がねぇ」
「だけど突っつかれたって負けた気はしなかったぜ」
「まあ最後まで自分のレースは出来ただろうよ。本来ならクエスの位置取りはもう3馬身は前じゃなきゃおかしかった。マークでそれが出来なかったか、遭えてそうしなかったのか。どちらにせよ、あの展開、状況でお前が坂の下りで鞭を打ったのはベストの選択だった。よくやったぞ」
「へっ」
文昭は照れ隠しにペットボトルの水を傾けた。画面の中の己も一着でゴールし、喜びを爆発させているところだった。
「次はどうすんだ? 宝塚だよな」
「ああ。クエスが居なくなるが、正直次はきついぞ。ダイランドウ、ストームライダー、キャリオンナイト、他にもモデラートとかGⅠ馬がぞろぞろ出てくる。例年通りしょっぱいメンツだけが揃ってくれりゃいいものをよぉ」
「ダイランドウ、本当に出るのかぁ?」
「須田さんは出す気だったから出るだろ。有馬をあれだけ走れたんだし」
「じゃあハイペースか」
「そうだな。正直、大阪杯を見た後だと、そんなレースでストームライダーと戦いたくはねぇもんだが……あれもサタンはよく勝ったわ。ライダーはついてねぇな、あんな馬と同世代だなんて」
「去年の今頃は、ライダーと同世代の馬は哀れなんて言われてたっけな。まあ俺はちっともそうは思わねーけど」
細原文昭には欲しい物がある。
金でも権力でも買えない、形無き証明だ。
「あいつらに勝ちたい。一目見ればすぐ分かる才能の塊だから、あいつらにこそ俺は勝ちたい。そう思うね」
いつも通りではダメだ。必要なのは、乾坤一擲の勝負。
それを踏まえてどうするべきか。必要な相談を文昭は始めた。
明日も19:00に更新予定です。
9/10追記 1000m通過タイムを65→64に変更 作中は少し渋った馬場という舞台設定ではありましたが、ご指摘があり良馬場で65秒はさすがにないかなと




