12F:夢のつづき-5
マルッコと俺は完璧だった。フォワ賞での予行演習、あれのおかげでマルッコの息の入れ方もより洗練されていた。だが――
左前を走る葦毛の馬体。
強い。
強すぎる。
道中は思い通りに操ったはずだ。
鈴が付くのは予想していたが、まさかあれだけ厳しいマークがセヴンスターズに敷かれるとは考えていなかった。だがそれはそれとして、自分のレースは淡々と構築してきたはずだ。はずなのに。
あのハイペースで、あの包囲網の中だぞ。
どうしてこれだけの末脚が残っているんだ。
足を止めてしまったクエスフォールヴ、そしてリスリグ。あれが正しい。フォルスストレートから位置を上げた馬はあそこで息が切れなくてはおかしい。出口間際で策も弄した。追走して同じだけの脚を使っていたはずだろう。
まさか。
過ぎる可能性。
まさか、直線侵入直後から緩んでいた100m。
あれっぽっちで息が入ったって言うのか。
化物。
そんな無茶苦茶が許されていいのか。
これでは弱点らしき物を突く隙すらない。
セヴンスターズ。あの馬は直線で併走されると途端に脚が緩む。キングジョージにて俺の乗ったサンダーズとあわやの瞬間を演じたのはそれが原因だ。ゴール板手前、サンダーズが燃え尽きなければ本当に勝っていた。
騎手は上手くやっている。だからこそのマーク戦法。抜き去る一瞬以外はじっと追走して耐え、その時が訪れた瞬間交わして突き放す。
どこまでも追いかけるスタミナ。そして瞬間的な切れ味に絶対的自信があるからこそ取れる手段。
それを封じるべくフォルスストレート出口間際のラップを乱し、後続のペース上昇を不必要なほど上げさせた。だが、策ごと喰い破られた。
もう打つ手が無い。
本当に?
いや、ある。鞭だ。
だがここまで非常に厳しいラップを刻んできた。ロンシャンの前半1000mを57秒台で通過して走りきるなど狂気の沙汰だ。尋常でないスタミナを持つこの馬であっても既に限界が近い。当然だ。2400mを走って使い切るようにペースを刻んだのだから。残りは200mを切っている。もうあと200m分の力しか残っていないのだ。
それでも、それでもその限界を超えてしまえるのが我が相棒。
そんな状況でステップを出せばどうなる。
瞬間、再生される"あの瞬間"の映像と彼が砕ける生々しい感触。
どうする。
また。壊してしまうかもしれない。
マルッコの身体は成長した。もしかしたら、耐えうるかもしれない。
不気味な軋みは感じている。破滅の前触れ。背か、腰か、或いは肢か。
どうする。
マルッコ。君の意思を感じる。あの白い奴に負けられない。そう猛っている。
覚えているさ。ああ覚えているとも。セルクル、君も抜かれるとそうやって怒った。
やっぱり君は彼だった。
やっとわかった。君はまだ走り続けていたんだ。あの12ハロンを、凱旋門賞を。
輪廻してでも、もう一度ここに立つ為に。
わかった。
時間は極緩慢に流れていた。
その中を、俺だけが動く。
何千、何万回と繰り返した動作。
目を瞑っていたって出来る。身体に染み付いた動き。
鞭を抜く。
君に貰ったこの命。今こそここで燃やして見せよう。
今度は君と打ち勝つために!
「負けるなッ! セルクルッ!
イッターレ・オラアアアアアアアアァァァッ!」
時が動き出す。
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《……――ああ、また、なのか……っ!
セヴンスターズ完全に先頭!
…………
…………チクショウ。
チクショウ!
負けるなッ! 差し返せマルッコォッ!
そんな馬に負けてんじゃねぇ!
ぶち抜けッ!
差せマルッコッ!
サタンマルッコッ!
走れぇ!
マルッコッ!》
どこかで言った。「差せ!」
誰かが言った。「負けるな!」
遠く離れた日本の地。
名も知れぬ誰か達が叫ぶ。
男が、女が、若者が、老人が、金持ちが、貧乏人が、会社員が、政治家が、社長が、パートタイマーが、たかだか12ハロンの獣道が織り成す結末に絶叫していた。
「差し返せ!」
勝って欲しい。
「負けるな!」
何かに負けた自分達の代わりに。
「がんばれ!」
自分達ではそこへ行けないから。
《サタンマッ!?
サタンマルッコ追ってくるッ!
サタンマルッコ追ってくるッ!
2馬身、サタンマルッコ!
1馬身、サタンマルッコ!
並ぶのか!
並ぶか!?
並んだ! 並んだ! 並んだ!
喰らい付け!
差せ!
負けるな!
外セヴンスターズ内サタンマルッコ、二頭の競り合い!
首の上げ下げ!
いや、これは出たか!
なんということだ! 出た! 前に出た! 前に出たかサタンマルッコ!
頭半分!》
「まだだッ!」
それは名も無き魂の叫び。
「首の上げ下げで決着? 冗談じゃねぇ!」
《サタンマルッコ差し返した!
これは差し返した!
しかし外セヴンスターズまだ粘っている早くゴールしてくれ!
がんばれマルッコあと少し! 50mもない!》
「これじゃあの子が勝った所を見れないだろ!」
菊で、有馬で、大阪杯で、死ぬ気で競ったのは何のためだ!
俺がここに居るとあの子に伝えるためだろうが!
「身体半分、しっかり突き出て完全勝利だ!
日本馬舐めんじゃねぇぞ!
いったれ、どチクショーがあああああぁぁぁッ!」
《サタンマルッコ前に出たぁッ!
身体半分!
身体半分!
もう少し!
あと少し!
行けッ!
勝てッ!
サタンマルッコ!
サタンマルッコッ!
サタンマルッコォォォォッ!
勝ったあああああああぁぁぁっ! 勝った! 差しきった! 間違いなく勝った!
身体半分! 半馬身前に出てゴール板を駆け抜けましたァッ!
日本競馬積年の宿願が今成就されましたッ!
見てくれ世界のホースマン! 俺達はここまでやってきたぞ!
おれだぢの、がぢだああああぁぁぁッ!
――…………》
歩く事もままならぬ様子でマルッコは荒げた息を繰り返していた。
勝った。間違いなく。
実感なき結果は未だ感動を呼び起こさない。
「ヘロヘロじゃないか相棒」
マルッコはクリスの言葉にうるせーやいと首を僅かに上下させた。一つ二つ。大きく息を入れて、ゆっくりと歩き出した。
下馬はしない。まだ、やり残した事があるのだから。途中で降りたら格好が付かない。
ゴール板の向こう側からスタンド側へ。
喝采が人馬を迎えた。
足取りに迷いは無い。そしてその足は検量所へ向いていない。
ゴール板の正面。柵から身を乗り出すように、その女性は待っていた。
かつての少女は時の流れで大人になった。
人と馬では一生長さが違う。その歩む道のりも。
それでも彼は戻ってきた。約束を果たすために。
少女は待った。迷いながらも人の道で。
「ひん」
お待たせ。今日も勝ったぜ。ちゃんと見てたかい。
「Bienvenue a la maison Cercle」
何言ってるのかわかんねーや。
まあでも、たぶん嬉しいんだろ。よし見てな。君の愛馬は最強なんだ。
「ヒイイイイイイイィィィンッ!」
高々と上がる嘶き。俺はここだと叫ぶように。
「ヒイイイイイイイイイイイイイイィィィンッ!」
俺の勝ちだと誇るように。
「ヒイイイイイイイイイイイイイイイィィィィンッ!!!!!!」
聞こえてるのか返事をしろよと猛るように。
『ワアアアァァァァァッ!』
『ヒイイイイイイイイイイイイイイィンッ!』
『ワアアアアアアアアアアアアッ!』
『ヒィィィィンッ!』
『ワアアァァァァッ!』
――…………
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「放送席、放送席。勝利ジョッキーのインタビューです。
クリストフさん、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「ネジュセルクル号以来のGⅠ制覇となりましたが、お気持ちはいかがですか」
質問に対して、クリスは周囲を見渡した。
報道関係者を。競走馬が見せたパフォーマンスに熱狂冷めやらぬ観客を。
「夢を見ています」
遠く、天覧席のガラス越し、全身で喜びを表すオーナー。やれやれと困った顔のケイコ。
遠慮がちにしているクニオ。男泣きしている小箕灘。
相棒の首にしがみつくミーシャ。まんざらでもない顔の相棒。
「起きていても続く、素敵な夢です」
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