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12F:夢のつづき-2

 マルッコがフォワ賞で名乗りを上げてより翌週。

 吉沢率いるノースファームの総力の結晶であるクエスフォールヴの姿は、アイルランド共和国レパーズタウン競馬場にあった。

 整備された競馬場というよりは草原に柵を立てただけといった風情の当地。今年度の第一目標としていたクエスフォールヴは漆黒の馬体を艶めかせ、今か今かと発走を待ち望んでいた。


「会長。どうでしたかクエスの調子は」


 スタンドの関係者席。個室というよりはテラスに近いその場所で、秘書の折村は吉沢に訊ねた。迫る発走に対する緊張からか、幾分か声を詰まらせながら吉沢が言う。


「絶好調といっていいだろう。馬場に入ってからも落ち着いている。大丈夫だ。クエスならやってくれる」

「言い方は悪いですが、セヴンスターズが凱旋門賞三連覇へ集中するためにここを回避してくれたのは僥倖でしたね」

「いようがいまいが勝っていたさ。我々のクエスフォールヴならね」


 吉沢の中でキングジョージでの敗戦はノーカウントであるらしい。折村もわざわざそんな野暮な事を口にしない。

 愛チャンピオンSは10ハロン、即ち2000mで開催される。2000mという距離に対する実績の薄いクエスフォールヴにとっては、引退後の種牡馬的価値を高めるために、是が非でも欲しいタイトルであった。

 折村の言にあるように、セヴンスターズは予定していた愛チャンピオンSへの出走を取りやめている。陣営としてはキングジョージでの激走は予定外であったらしい。

 日程の近しい愛チャンピオンSと凱旋門賞。昨年度制覇し同距離での実績が十分であるセブンスターズは愛チャンピオンSよりも、歴史的偉業となる凱旋門賞三連覇へ万全の体勢で挑む事を優先した。そのために出場を見送ったというのが内実である。


 にわかに色気づくのは毎年セヴンスターズにやられ続けた他陣営だろう。目の上のたんこぶの消えた陣営の"今年こそは"という意気込みたるや鬼気迫るものがある。それらの意気込みは出走する優駿達の馬体にも現れていた。

 絶好の仕上げ。極限の仕上げ。完璧な仕上げ。各陣営がこれ以上無いという調整で挑んでいる。


「誉であるな」

「は?」

「この栄誉あるレースで、今日この日、クエスフォールヴが一番人気であることが、だ」


 現地の単勝オッズ2-1(=3.0倍)が物語る実力への信頼。それらは昨年度の凱旋門賞、ならびに前走のキングジョージ。その走りから2000mをこなせるだろうという評価をされての事は明白であった。

 日本競走馬の愛チャンピオンS勝ち馬は未だ存在しない。それは出走した馬が少ないという事情もあるだろう。しかし新たな一歩、日本競馬の挑戦であることは間違いない。


「頼むぞクエス……」


 視線の先遠く、スターティングゲートへ収まる出走各馬を祈るような気持ちで見守る。




 ゲートの開く音はスタンドまで届かない。かすかに地を伝う蹄の音が発走を報せた。

 前に出るのは日本の馬。クエスフォールヴの帯同馬でありペースメーカーを務めるラインフォールヴ。クエスフォールヴの半兄だ。


 ラインフォールヴはぐんぐん後続を引き離す。大逃げだ。

 吉沢の策、それはサタンマルッコという稀代の逃げ馬の登場によって顕在したクエスフォールヴのハイスピードレースへの適性。アメリカ競馬のような地獄の消耗戦を道中で強いる事で鋭い末脚を切り札にする他馬を封じつつ、塊となりやすい道中を縦長の隊列に誘い、進路妨害を未然に防ぐ。


 作戦通りラインフォールヴは快調に飛ばしていた。実況の告げる時計では1000m通過が58秒。二番手を走るクエスフォールヴまでは10馬身程であるから、以降は60秒以上のペースである計算だ。

 誤算があったとするのならば。

 それらのペースに他馬が全く付き合わず、クエスフォールヴからもまた10馬身程馬群が切れてしまっていた事だろう。


「これは、どうなんだ?」


 ラインフォールヴが潰れると見た後方集団。それはまだいいとして、平均ペースを刻むクエスフォールヴから10馬身離れているというのをどう捉えるべきなのか。


 楽逃げ。


 脳裏を掠めるそんな単語。ラインフォールヴを度外視すれば、クエスの位置はそう呼んでよい位置取りだろう。これが日本の阪神競馬場辺りであれば既に勝利を確信する程だ。


 僅かな逡巡。そして目線を変える。

 ラインフォールヴには1800mのレースだと思って走れと伝えてある。それはサタンマルッコが作り出すオーバーペースを意識して――次走、凱旋門賞を勝つための予行演習でもあった。


「そういうことか」


 なるほど、ぬるい。馬場の違いはあれど、これではぬるま湯だ。

 つまりは。つまりは。


直線(よーいドン)だけで勝てると思っているんだな? 私のクエスフォールヴに!」


 なんという傲慢だ! キングジョージであれだけの走りを見せ付けたというのに!

 憤懣遣る方無い吉沢は声を張り上げた。


「やれダミアン! 見せ付けろッ!」


 声が届いたわけではないだろう。残り800m地点より進出していたクエスフォールヴは600mでまた更に脚色を変えた。

 直線。400m地点でラインフォールヴと順位を入れ替える。後方集団の脚色たるや凄まじいもはあるのだろう。息を入れた瞬間、開いていた差が見る間に縮まる。

 だが遠い。

 直線最後の坂。坂など上り慣れている。少しも鈍らず、むしろ鋭さを増して漆黒の馬体が駆け上がる。

 全く問題ではない。三着に8馬身。二着のラインフォールヴですら5馬身残す圧勝。


「名乗りは上げた。行くぞ折村くん。表彰式だ」


 待っていろセヴンスターズ。待っていろ凱旋門賞。

 待っていろサタンマルッコ!



-----



 サタンマルッコという競走馬に調子の波はあまり無い。

 レースの後ならそれなりに疲れたりもするが、暑さ寒さ、体調不良に起因する調子と呼べるものにはほぼ左右されない。

 あるのは気分によるムラ。目標に対する集中力の違いと呼ぶべきムラが人間の目で見ると調子の波のような何かに映るだけだ。

 預かってから二年と半年ほど。ようやく見えてきた管理馬の性質。それ故に小箕灘はシャンティイの芝を走るマルッコの姿に感動を覚えていた。


(こんな走りに集中しているマルッコなんて見たことが無い。覚えている限りじゃダービーの前が一番だったが、あの時とさえ比較にならねぇ)


 一戦叩いてやる気になったのか。気候風土が気に入って走る気になったのか。あるいは別の何かが原因で火が点いたのか。

 振り上がった前肢が叩きつけられる様のなんと豪快か。柔らかい身のこなしのなんと流麗なことか。バネのように伸びる後脚の躍動感。強いられるでもなく、鞍上の指示に従い前を向くその一体感。まるでレース中のような集中力で調教に挑んでいるではないか。

 全く分からない。本当なら己がレースへ目を向けさせてやらねばならなかった。勝手にやる気になった、勝手に走るようになった、勝手に火が点いた。


「お前はいつもそうだな、マルッコ」


 思い通りになった試しがない。つれてくるのはいつだって結果だけ。少しは安心させろってんだ。

 冷たい風が鼻に染みて涙が浮かぶ。


(まだ、前哨戦を勝っただけだ。何かを成し遂げた訳じゃないだろ)


 泣いている訳じゃない。涙が浮かんだ目をゴシゴシ擦りながら、小箕灘は我が子の走る姿を見守った。

 決戦へ向けて、世界は動き続けていた。



-----



 フランス国内、パリ市外より遠く離れた県外の牧場、セヴンスターズの滞在地として選ばれたのは自然豊かな、極ありふれたそんな場所だった。

 アラブが誇る競走馬組織ダーレーを率いるジェイクもまた、休養中の愛馬(セヴンスターズ)の様子を眺め、頬を緩ませていた。

 馬は可愛い。それが栄誉を与えてくれる我が子であるのなら尚更。


「殿下。凱旋門賞の出走登録が定まったようです。こちらに」


 煩雑なやり取りを嫌うジェイクは差し出された資料を嫌な顔もせず受け取った。

 出走予定の馬についての情報が纏められている。戦績、血統、レース展開。和やかな顔でそれらをめくる。知った名ばかりだ。その殆どが愛馬が負かした馬の名であるのだから。ふいに、その手が止まる。


「この馬は?」

「は? は! 失礼します」


 ジェイクの指差す先を確認する男。額に丸い白斑。日本馬のサタンマルッコだった。ジェイクの手元が震えて非常に見辛かったが、男はそのように答えた。

 不穏な気配を察知した牧場の馬達がそそくさとジェイクの側を離れる。その中には一際気配に敏感なセヴンスターズの姿もあった。むしろ真っ先に逃げ出していた。


「そうではない。君。覚えが無いかね。この馬の額の白斑に」

「は! はぁ……丸い、としか」

「白い丸だ」


 ギロリ、と血走った眼が男を睨みつける。


「白いッ、丸だッ! 白はネジュ! 丸はセルクルッ!

 アイツだ! アイツがまた私の邪魔をしに現れたッ!

 4年前もそうだったッ! 私の愛馬、ムーランホークを何度も何度も何度もッ!

 サタンだと!? 何の冗談だ! アイツが地獄から帰って来たっていうのか、あぁ!?

 一体何度私の邪魔をすれば気が済むのだあの疫病神はァァッ!」


 激昂は止まる所を知らず、いつしか手にした資料は地面に叩きつけられ、何度も何度も執拗に踏みしめられた。かつて将来を嘱望されながら、その戦歴に二着を刻み続けたムーランホークという愛馬の仇であるかのように。そして理不尽な力で立ちはだかり続けたネジュセルクルに対する怒りであるかのように。

 やがてピタリと動きが止まる。執拗に踏まれたサタンマルッコの写真は穴だらけになっている。


 呼べ。


「ケインスニアだ。ケインスニアをフランスに輸送しろ。あの馬は今本拠地に居たはずだな」

「は? いやしかし、ケインスニアはレース後で年末の香港まで休養の予」

「呼び戻せぇぇッ! 追加登録だ追加ァァッ! なんとしてでも捻り込めェッ!

 万が一にでもなァ! あの馬に負けてみろォ! 私は一生私を許せなくなるだろォがァッ!

 三連覇だぞッ! 三・連・覇ァ! 三連覇がかかっているのだ! 歴史的偉業なんだぞッ!

 絶対に負けられないのだ! 特にこの丸い星を持つ、この馬だけにはァッ!」

「は! すぐに取り掛かります!」

「騎手も用意しろ! 一番いい騎手をだ! 金を惜しむな! 絶対にぶっ潰すッ!」

「は!」


 男はすぐさま取り掛かった。条件は厳しい、だが出来ない事は無い。


(しかしケインスニアか。スプリントの馬だったが、ラビットにするつもりか?

 はぁ……殿下も普段は優しいんだけど、馬の事になるとムキになって見境が無くなるのがなぁ)


 内心をおくびにも出さず、男は走った。出来ない事は無いだろう。だが時間が無い事も確かなのだから。




いつもありがとうございます。

可愛い女の子は増えないのに可愛いおじさんは増えていく

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