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10F:彼の助走と彼らの驚き-2

 冷えと暑さの比重が傾きつつある4月下旬。昼下がりの栗東トレーニングセンター須田厩舎マルッコの馬房では、獣医が部屋主の足元を診察していた。ここ数週間ですっかり顔なじみとなった熟年の医師に、マルッコも「しっかりたのむよー」と心なしか顔を凛々しく保っている。


「うん。やはり足元にダメージは見られませんね。あれだけ走って肢より背中が痛むなんて、本当に頑丈な馬ですね」


 獣医の言葉に固唾を呑んで見守っていた小箕灘とクニオは盛大に息を吐いた。


「私も不思議だったんですがね。今にして思うと、当歳の頃から浜辺で遊んでいた馬なんでね。海の水で足元が冷やされて、所謂アイシングみたいな効果が出ていたんじゃないかと思うんですわ。その分損耗が無く育って、今に至る……とか」

「まあ、無くは無さそうな仮説ですなぁ。しかし屈腱へのアイシングは屈腱炎その物の予防には効果が無いって言われますしねぇ。やはり単純に持って生まれた身体が丈夫なんじゃあないでしょうかね」

「いいことじゃないですかセンセイ。とにかく、これでマルッコは元通り走れるって事なんですよね?」

「そうですな。ただ、また大阪杯のような走りを繰り返せば、今度はどうなるかは分かりません。やはり、最後の一伸びで使った走り方は、出来る事なら今後やらせない方がいいでしょう。限界以上の走りは、馬でなくたって命に関わりますから」


 そこまでやれてしまう、というのもある意味マルッコの才能であるのかもしれない。普通の競走馬は追い立てられようとも、命に関わる程の激走など、それこそ命がかからない限りしようとはしない。何がマルッコを駆り立てるのかは普段の態度から推し量る事が出来ないが、小箕灘はそう考えていた。


「あの走り、サタンステップとか呼ばれてるらしいですよ」


 クニオが能天気に言った。


「テイオーステップのパクリかよ」

「でもいいじゃないですか。今まであの走り方、とかあの足の使い方、とか、指示語が微妙で言い難かったし」

「作ったそばから封印されてるあたり、サタンステップも浮かばれねぇな」

「言えてますね。サタンステップ、格好いいと思うんだけどなー」


 マルッコが二本足でラインダンスを踊るような映像しか思い浮かばず、小箕灘は考えるのを止めた。


「とにかく医師(センセイ)。今日はありがとうございました」

「ほい。またなんかあったら教えてください」


 獣医の背を見送り、改めてマルッコを見やる。


「ともあれこれで、準備は整ったな」

「いよいよフランスかぁ。俺、フランス人にナンパされたらどうしよう」

「あっちじゃ童顔は受けが悪いからな。日本人男なんか相手にされないだろうよ」

「そんなー」

「ひーん」


 何故かクニオと感情をシンクロさせたマルッコの情けない嘶きが厩舎に響いた。

 少しの躓きはあったが、かくしてサタンマルッコ号と厩務員クニオ、さらに調教師小箕灘は空路にて敵地(フランス)へ乗り込むのだった。



----



 ■ 彼が帰って来た!? ■



 5月某日。シャンティイ競馬場に一頭の競走馬が降り立った。それは東の地より遥々フランスへやってきた栗毛で目がとっても可愛らしい日本の競走馬サタンマルッコ号だ。10月に開催される凱旋門賞に向けて、秋までの期間フランスに滞在するとの事だ。

 今年のジョッケクルブ賞の勝ち馬の名前を言える皆さんでも、昨年度、日本ダービーを勝った馬の名前は知らないだろう。親切心から伝えておこう。彼がそうだ。


 サタンマルッコは日本ダービーだけでなく、国際GⅠレーティングに認定されているジャパンカップを二着、更に年末に行われる日本競馬の祭典、有馬記念で優勝したスーパーホースだ。

 先程ジャパンカップを二着と伝えたが、そのレースを優勝したのは昨年凱旋門賞で二着を取ったクエスフォールヴだ。記憶に新しい人も、いるんじゃないだろうか。

 そしてクエスフォールヴは有馬記念にも出走し、サタンマルッコと順位を入れ替える結果となった。短期間で順位を逆転させたサタンマルッコの潜在能力には注目するだけの価値がある、と僕は思うよ。


 さて、実は本題はそこじゃないんだ。僕がタイトルにした「彼」って誰? 皆さん気になって仕方がない頃だろう。

 僕の感じた驚きを共有するためには、いくつか説明しなければならない事柄がある。嫌いかもしれないけれど、少しだけお勉強をしよう。


 サタンマルッコ。可愛い見た目の割には「サタン」だなんて強そうな名前だよね。まあそこは肝心じゃなくて、注目して欲しいのは「マルッコ」の方なんだ。

 「マルッコ」っていうのは、日本の言葉で"丸い物"に対する愛称のようなんだ。意味を直訳すると丸い子供、らしいよ。さてここでもう一度彼の写真を見て欲しい。彼の美しい栗毛の馬体から愛らしい瞳に移して、今きっと貴方は隣のページの写真とこの文章を交互に見ていることだろう。もう少しだ。その愛らしい瞳から少し上。もう気付いたね? そう、"丸い物"とは彼の持つ白い星のことだったんだ。


 どこか、見覚えがないかい? いいや、皆さんは知っているはずだ。忘れているはずがない。我々は"丸い物"と呼ばれていた競走馬をもう一頭だけ知っているはずだ。

 そうとも。ネジュセルクル――"純白の丸"なんてあんまりな名前の競走馬が、4年前に僕たちを熱狂させていたよね。そしてあまりにも突然に消えてしまった。

 ロンシャンの慟哭。あの写真はこの雑誌で掲載していたけれど、僕は初めて目にした時、涙が止まらなかったよ。


 もう何が言いたいのか聡明な読者の皆さんなら分かるよね?

 あの、陽気で何をしでかすのか分からない"丸い物"が、魔王(サタン)だなんて物騒な名前を携えて帰って来たんだ。僕にはそうとしか思えなかったね。

 驚くべきことはまだある。件のロンシャンの慟哭以降、騎手活動を休養していたクリストフ・ユミル騎手が現役復帰したんだ。それどころか、そのサタンマルッコの主戦騎手になるというのだから、開いた口が塞がらないよ。


 この不思議な符合をどう捉えたらいいのか、僕は大いに戸惑っている。

 今月の記事は随分とオカルティックになってしまったけれど、敢えて感じたままを書き綴ったんだ。馬体の色や顔立ちにそれほど似た特徴がある訳じゃあないんだ。でも、そうと言われてみてみれば、或いは勘のいい人なら一目見た瞬間から、何か似ていると感じなかったかな。


 神秘的な話はここまでにして、彼らの今後についても触れておこう。

 サタンマルッコはシャンティイトレーニングセンターで調整後、7月の頭にはサンクルー大賞へ出走。その後はフォワ賞を足がかりに、凱旋門賞へ挑戦するそうだよ。

 日本馬としては昨年に引き続き、長期のフランス競馬挑戦だね。

 もちろん、我々フランス勢も負けていられないよ。ブリテン野郎は粉々に粉砕して、日本からの挑戦者を堂々と迎え撃ち、競馬界にフランス有り! というところを見せ付けていきたいね。


 ~ アラン・ユーグ ~



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 新緑の風を鼻一杯に吸い込みながら、股下の僚馬の手綱を緩めつつ、木のトンネルを駆け抜けた。

 こちらへ着たばかりの頃は驚きの連続だったけど、もう結構慣れたなぁ。クニオはそんなことを考えながら、先の見えない長さの直線馬道をキャンターさせる。


 シャンティイ調教場。滞在先の小早川(こばやかわ)厩舎が所属するトレーニングセンターで、フランスギャロ(日本でいうところのJRA)が所持するトレーニングセンターの一つだ。

 日本で想像するトレーニングセンターとは規模も姿もまるで異なる。

 森、或いは草原の中をそのまま駆け抜けるかのような、自然豊かな場所。それもそのはず自然の森を切り開いて利用した調教場であるのだから。何も知らない人間ならば、森に迷い込んだのかと錯覚するだろう。

 クニオも当初は「え、こんな森の中を走るの?」とか「え、森抜けたら草原になったぞ。なんかよその敷地にはいった?」とか「え、ここどこ?」など散々戸惑ったり迷ったりしたが、毎日通えば一月も経つころにはすっかり落ち着いたものだった。

 なるほどなるほど。これだけ自然に近い環境で走っているから、欧州の馬は気性が比較的穏やかなんだな。体験としてクニオは学んだ。


 マルッコも広々としたコースにご機嫌の様子だ。道幅からしていつも走っている栗東のEダートコースとは倍ほども違う。自己領域が不必要に大きいこの馬がご満悦なのも頷ける話である。

 更に、ともすれば終わりがないのではないかと不安に駆られる程果てしなく長い直線。実際は道に終わりはあり、ただとてつもなく一周が長いだけの周回コースなのだが、直線400mもない栗東のオーバルコースに慣れていると、戸惑いは大きい。


(日本の競馬は実力的には負けてないって今でも思うけど、やっぱ施設とかそういう部分だと全然まだまだなんだなぁ。第一こんなに広い土地が無いし。羽賀とは比べることすら恐れ多いや)


 それでも。勝負を決めるのは馬自身。こんな凄い施設で走っている馬達を、マルッコが全部蹴散らしてくれるに違いない。


「なっ、マルッコ」

「ひん?」


 そう信じたクニオの問いかけは、上の空な嘶きで返された。


「にしてもお前、初日から迷いなく走ったよなぁ。やっぱ馬だから本能的に道の繋がりとか分かるのか?」

「ふっひーん」


 すげーだろ、とでも言いたげな嘶き。そんな反応にクニオは軽く微笑み、視線を前に向けた。森の馬道はまだまだ続く。


「どこに行っても、馬は馬なんだなー」


 それはある意味真理であるかもしれなかった。


大阪杯にて感想でいただいたモブ馬の名前を頂戴しました。

改めて御礼申し上げます。(といいつつ言うのは忘れていた)

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