7F:夢のはじまり-6
有馬記念のスタンドを遠くに見る発走地点が横田は好きだった。
響くファンファーレと手拍子をスタートゲート前で輪乗りしながらどこか遠くで聴いている。もう間もなく枠入りが始まり、そしてレースが始まる。
ふいに、手元に収まる乗馬鞭が気になった。
(鞭を使うな、一番最初に言われたな)
マルッコに乗るようになってから、全く使わなくなった仕事道具。
鞭を振るわない事、それは築き上げた信頼の証であり、横田自身の己が騎乗技術に対する誇りでもあった。
もしも乗り始めの頃に使っていたら、落とされていただろう。そういう馬だ。気性はよく知っている。
それが今では口にせずとも繋がっている間柄。まさに戦友とも呼べる仲になった。これだけ深い絆を結んだ馬は多く無かった。
いよいよ枠入りが始まる。1枠①番の枠入りは一番最初。枠の中に居る時間が最も長いためそれを嫌う陣営もある程だ。
「調子はどうだいマルッコくん」
短くて長い待機時間中、横田はゲートに収まった相棒に声をかけた。
相棒は、愚問だ、と言わんばかりに鼻息で応える。
相変わらず分かったような反応をする馬だ、と口元に笑みを浮かべた。
相手は強い。だが、果たして絶対に勝てないというほど強いだろうか?
絶対の皇帝ルドルフの子供がテイオーで、その娘とフウジンの間に生まれた生き残りの娘。それを見初めた暴君との間に生まれた、この魔王。血統書を読み解けばそんな筋書きが思い浮かぶ。
「悪いことするのは魔王の特権らしいからな」
せいぜい首を洗って待っていろ、一番人気。
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《……――さあいよいよ、いよいよ、今年の有馬記念が始まろうとしています。
出走16馬のドリームホースたちが繰り広げる激闘。しかとその目に焼き付けましょう!
最後、⑯番キャリオンナイトがゲートに収まりました!
第NN回有馬記念…………スターァトしましたぁ!
さあまず何がいく、俺が行くと①番サタンマルッコと②番ダイランドウがあっと言う間に3コーナーへ飛び込んでいく!
他は出遅れなどもなく順調に出たようです!
先行争い①番サタンマルッコ②番ダイランドウ身体半分ダイランドウが前に出て一周目の直線に身体が向きます。
ダイランドウはやる気十分。諦めすら感じさせる鞍上国分寺騎手の長手綱! 今日も元気に行きっぱなしでかぁなりぃ飛ばしております!
2馬身ほど切れて①番サタンマルッコ。さあ折り合いはどうだ。なんだか上手く行っているように見えるぞ? サタンマルッコ、ダイランドウとは競り合わず落ち着いている。今のところは上手く行っているのではないでしょうか。さあそこのところはどうなのか横田友則。
先頭が直線の坂に差し掛かろうとしています。
サタンマルッコから離れて5、6馬身に③番グリムガムジョー。おっと位置を上げて直線で①番サタンマルッコに並びかける構え。
その後ろ内に入れたのは④番ラスリテイク、それから⑦番クエスフォールヴがこの位置。前目に番手集団の先頭を併走、遮るもののない良い位置に入りましたクエスフォールヴ。
外から⑫番ワンダースピンさらには⑧番モデラートなどが追走、⑬番ロバーツが内にいて⑭番コトブキツカサ、⑤番スピーシーハイと続いて最内⑥番オリジナルランク包まれていますが今日は落ち着いて見えます。切れて1馬身⑮番グレーターミューズ、最後方⑯番キャリオンナイトが内ラチ沿いを走って正面スタンド前を通過していきます。
スタンドからは割れんばかりの大きな拍手が送られます中山競馬場。
今1コーナーにダイランドウが入ったところで1000m通過が57秒3。57秒3!?
速い! 過去最速の通過タイムなのでは無いかと疑うばかりのタイム!
猛烈な勢いでダイランドウが1000m通過!
これで2500m走りきる事が出来るのかダイランドウ!
あれよあれよと後続を引き離し、二番手集団を7、8馬身程離しているぞ!
その二番手集団もかなり速い! 内に①番サタンマルッコ、外に並びかけて③番グリムガムジョーだがグリムガムジョーはどうだ、鞍上本田騎手は手綱を抑えているが行きたがっているようにも見える。折り合いが怪しい!
そこから切れて5馬身内に④番ラスリテイク、⑦番クエスフォールヴがやや下げて追走、2コーナーの終わり際、外の⑫番ワンダースピン、⑧番モデラートら後続が一気に位置を上げ始めている。後ろでは届かないと見るや竹田騎手が位置を上げたか。
向こう正面に各馬流れてゆきます。
さあ後続が速くもペースを上げてきた。⑭番コトブキツカサ、⑪番ヴェルトーチカ、それらを追うように⑩番ボーンバンガードと⑨番ハネルマネルミノルも差をつめにかかる。先頭ダイランドウとはまだ10馬身以上差がある!
それら見る形で内ラチ沿い⑬番ロバーツ、一つ切れて⑥番オリジナルランク、並んで⑮番グレーターミューズ、最後方変わらず⑯番キャリオンナイトといった体勢です。
さあ二番手サタンマルッコとグリムガムジョーと後続の差が縮まってきたリードは5馬身。この差をどの辺りで詰めるのかクエスフォールヴ、今残り1000mの標識を、
おぉぉっとぉ! ここでクエスフォールヴが動いた!
今日も馬なりで行く!
スーッと位置を上げてサタンマルッコに並びかけようかといった動き、だがサタンマルッコもスピードを上げてリードを保っている!
後ろの方からはモデラートがクエスフォールヴの後ろに付いた!
スピードとスタミナの極点! 会場のボルテージは最高にあがってきた!
どよめきを怒号に変えて残り800mの標識を通過、各馬3コーナーへ差し掛かります!
先頭変わらず②番ダイランドウ、気配はどうだまだ残せるのか、少なくともまだ歩いてはいない!
二番手①番のサタンマルッコとの差は7馬身、後続を引き連れていっきに詰めていくサタンマルッコ、③番グリムガムジョーはちょっとついていけないか、入れ替わり⑦番クエスフォールヴがサタンマルッコの後ろ3馬身にピタリとつけている!
4コーナー! モデラートは外へ出す! 内で⑥番オリジナルランク、⑯番キャリオンナイトが位置を上げた!
さあ中山の急カーブを曲がりきって、第NN回有馬記念最後の直線に入った!
先頭はダイランドウが頑張っている!
しかしサタンマルッコがこれを交わした! サタンマルッコ先頭!
しかしピタリとつけるクエスフォールヴ、ダミアンロペス! モデラートも付いてきている!
外の方ではコトブキツカサが突っ込んでくる!
残り200m! サタンマルッコ先頭! クエスフォールヴ脚色がいい、クエスフォールヴ脚色がいい!
ジャパンカップと同じになるのか!
ダミアン右鞭!
交わした! 1馬身! 2馬身!
モデラートは伸びてこない!
サタンマルッコまだ頑張っている! 頑張っている!
後ろの方から馬群を抜けてキャリオンナイトとオリジナルランクが突っ込んでくる!
しかし先頭は抜けた抜けた抜けたクエスフォールヴ!
坂を駆け上がって先頭クエウフォールヴ! ゴールまであと100m!――……
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彼ら全てが道中の駆け引きを理解している訳ではない。
だが、勝負を仕掛けたのだとは誰しもが理解できた。
故に、3コーナーの直前、位置を上げたクエスフォールヴに対して群衆はどよめきで応えた。
はええよ!
がんばれー!
よしいけ!
てめぇそれで負けたら承知しねぇぞ!
いいぞ!
つかまえろ!
それでいい抜いちまえ!
いけー!
あんなに前を走ってる馬に追いつくかもしれない。
あれだけ飛ばしているんだから当然差せるはずだ。
なにをしてるのか分からないけどなんか凄そう。
理由なんか人それぞれで。超満員の観客は各々が反射的な歓声を上げていた。
道中あれだけ縦長だった隊列があんなにも詰まっている。
4コーナーを回った競走馬たちが最後の力を振り絞る。
観衆の声色が再び変わる。
先頭を走っている黒い馬を栗色の馬が抜き去った。
一番人気といわれていたクエスフォールヴとかいう馬がそれと一緒にあがっていった。
その外側にはなんだか分からないけど途中からずっと前に行こうとしていた馬がピッタリくっついてる。
何となく分かったのは今前に居ない馬は勝ち目が薄いということ。
誰かが何かを空に投げた。ひらひら舞うそれは馬券の束。目当ての馬がそこに居なかったに違いない。
させぇぇ!
やれえええ
竹田ァァァ!
やめろぉ!
そのままぁ!
ああああ!
意味のある言葉もあれば意味の無い叫びもある。
金や見栄や名誉や意地。
着飾った若い女が。髪の薄いおじさんが。高い時計を腕に巻いた男が。老人が、連れられた子供が、おばさんが。
出す心算のない声が腹の底から喉を伝って音の波になる。
原始的な興奮と熱狂が十万超の濁流となって緑のターフへ流れ込む。
それは、クエスフォールヴという馬が先頭に立った瞬間、最高潮に達した。
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またこの馬かッ!
横田は別次元の末脚を見せ付ける黒い凶星を左手前に見ながら毒づいた。
あれだけのハイペースで追走させてこの末脚。一体何をどうしろというのか!
懸命に走る己が相棒にはまだ余力がある。だがその余力は加速の鋭さではなく速度の維持だ。サタンマルッコの持つ唯一の弱点、それは決定的な切れる末脚を持たない事だ。こうして相手に余力が残った状態で突き放されると巻き返しが出来ない。
チクショウ、今年はダメなのか。
諦めかけたその時。かすかな物音が耳朶を打った。
――クレ
なんだ、なんだこの音は。
――ムチヲ、クレ
大地を蹴り飛ばす四肢。全力で稼動する心臓の鼓動。燃料を補給すべく大きく膨らむ鼻と胸。
だとすればこの音はなんだというのか。
――ムチヲ、クレ、オレハマダヤレル!
言葉ではない。しかしそれは彼らの間にだけ通じる共通言語だった。
――オレガ、カツ!
熱い鼓動の背中が語る。手綱を通してハミが語る。
負けられない。ただそれだけに命を燃やす。
それは勝利への渇望。
俺が勝たせて、お前が勝たせろ。
そうか。お前がそう言うのならば!
結論は封印だった。
"あの"走りを再現するには今の筋肉では耐え切れない。
それがどうした。
相棒が勝つと言っている。それに応えるお前はどうだ。
横田は鞭を抜いた。
揺れる視界。開けて望むは坂の頂上ゴール板。
身体を一杯に捻った。腕を振り上げて、下ろした。
「勝てマルッコッ! いったれおらあああああぁぁッ!」
栗毛の魔王が躍動する。
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……――クエスフォールヴ先頭!
クエスフォールヴ先頭! リード2馬身!
後ろは来ない! 届きそうに無い!
大勢決したか!
世界の翼がありまをあぁッ!
うちからもう一度サタンマルッコ! すごい脚!
なんということだ伸びてきている!
ゴールまであと僅か!
サタンマルッコ追ってくる!
追ってくる!
行く!
迫る!
並ぶか!?
並んだ!
内外二頭ッ!
どっちだ! 差すか! 残すか!
横田の鞭ッ! ダミアンの腕ッ!
抜けた! 頭一つ!
サタンマルッコだ、サタンマルッコだ!
サタンマルッコだあああぁぁッ!
差しきったァァァァッ!
サタンマルッコ横田友則、間違いなく差しきったァッ!
ジャパンカップの雪辱を果たす大激闘ッ! 征しましたッ!
鞭を握った右手を上げる横田友則ィッ!
場内は割れんばかりの大歓声です!
直線残り200mで交わされ、一時は完全に大勢決したかに思われましたが、坂の頂上残り70m地点から再びの猛追。2馬身の差を見事に巻き返しましたサタンマルッコ!
もはや疑う余地は無し! これは本物だ! 一段上の能力を示して見せました!
西から来た魔王、サタンマルッコ! クリスマスの有馬記念で産声を上げましたッ!
二着に敗れはしたものの、クエスフォールヴ。ハイペースに付き合った上での高い位置からのロングスパート。その能力の高さを遺憾なく我々に見せてくれました。
三着は接戦、ビデオ判定が待たれますが――今サテライトビジョンでゴール時のスロー再生が映されております。これは、どうでしょう。⑥番オリジナルランク、⑧番モデラート、⑯番キャリオンナイト、⑭番コトブキツカサ、そして②番ダイランドウが一団となっていますが、三着は……これは⑯番のキャリオンナイトでしょうか。キャリオンナイト優勢であるように見えます。ジャパンカップに続いてキャリオンナイトが健闘か。
2コーナーからサタンマルッコと横田騎手がスタンドへ戻ってきました。
横田騎手は笑顔で相棒を称えます。首をテシテシと、サタンマルッコもくすぐったそうに身を捩っています。
さあ今、サタンマルッコが正面スタンドに帰って、
『ヒィィィィンッ!』
わあ、勝ち鬨を上げました! なんという馬だ!
あれだけの激走をして尚、褒めてくれと言わんばかりの大音声!
『……ォォイ』
『オオイ』
『……オオォイッ!』
『ヒィィィンッ!』『オオオオォォイッ!』『フィィィンッ!』『オォイッ!』
『ヒイインッ!』『オォォオオイッ!』『ヒイイィィィンッ!』『ドオォイッ!』
……神秘的な、これはある意味神秘的な出来事であるのかもしれません。
今、この瞬間、我々と彼との間に言語が成立しているのです。
或いはこれは、競馬の神様がくれたクリスマスプレゼントなのでしょうか。
第NN回有馬記念。勝ち馬はサタンマルッコ。
この名とこの光景を、我々は深く刻み込む事でしょう》




