7F:夢のはじまり-3
ばっちゃばっちゃ。
栗東トレーニングセンタープール調教施設の水面には不気味な三角形が浮かんでいた。
しっとり濡れて黄土色に染まったその三角はすぴすぴと音を鳴らし、時折赤い割れ目を覗かせている。
「マルッコ、そろそろ上がるぞ」
「ぶふぉー」
菊花賞馬、サタンマルッコその馬である。
厩務員クニオに連れられ、マルッコは今日もプールでのトレーニングに励んでいた。
競走馬の水泳設備は一周約50mの円形コースで存在する。
心肺機能の向上、調教のクールダウン、或いは単純に遊びとしてのストレス解消などを目的として選択される調教だが、最大の利点は浮力により地面に足を付けず運動が可能、つまり足元への負担が無い事であり、足を故障した馬のリハビリとして使用されることが多い。トウカイテイオーが骨折後ブランク一年で有馬記念を征した際に使用された調教として有名だ。
「にしても、毎日毎日よくそんだけ泳げるねー丸いの」
施設の監視員の男が呆れたように言った。
「地元じゃ毎日海を泳いでましたからね」
「どーりで堂に入った泳ぎをすると思ったわ」
「たぶん200m水泳のレースがあったら世界一ですよ」
「んなもんまず馬用の水泳コースがねーべよ」
「仰るとおりで」
スロープを通って陸に上がったマルッコが体を震わして水滴を飛ばす。後でしっかり洗いなおすとしても、水の滴る状態でうろうろする訳にもいかないのでタオルで拭ってやる。マルッコは「世界を縮めたはー」と成し遂げた顔でされるがままだ。
有馬記念はいよいよ週末に……5日後に控えている。そんな中小箕灘陣営より出走するサタンマルッコはトラックでは殆ど走らず、調教の殆どをプールでの水泳でこなしていた。
プール単走3時間。それで身体が作れるのかと当事者以外の見守る誰もが考えていたが、不思議な事に馬体の仕上がりは良好であるように映る。羽賀時代の調教での不真面目さと自主トレでの勤勉さを知るクニオが居なければ成されなかった調教プランではある。
「丸いの、足元悪いんか?」
「いいえ? ただちょっと有馬に勝つための秘策というか、そんな感じです」
「ほー。そら楽しみにしとくわ。有馬頑張ってな」
「はい。ありがとうございます。それじゃあ今日は戻りますね」
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サタンマルッコ故障説。ジャパンカップのゴール後、鞍上横田友則がすぐに足元を気にして下馬した事、有馬記念へ向けての調教で一切時計を出さなくなった事から囁かれ始めた噂だ。
そんな中であったので、12月21日、有馬記念に対するサタンマルッコの最終追い切りの公開調教には大勢の報道陣が詰め掛けていた。
コースはお約束のEダートコース。6ハロンの軽めの調教が予定されていた。
果たしてサタンマルッコは元気な姿を見せた。滑らかなスタート、回転が速く力強い前脚の掻き込みで向こう正面からコーナーを回り、そして宣言通り終始軽い足取りで記者達の前を横切ってわった。
タイムは6F-80.7秒ラスト1F12.4秒。元より追い切りで走るタイプの馬ではなかったが、GⅠを勝った馬にしては反応に困る数字だった。
「調子? 絶好調とはまた違うけど、いいと思いますよ。ジャパンカップ並みの走りは期待していただいて結構です」
サタンマルッコの調子はどうか? という質問に対する小箕灘調教師の回答だった。
「サタンマルッコ号は今回中山競馬場で初めてのレースですが、その辺りはどのようにお考えでしょうか」
「特に問題ないでしょう。小回りで言ったら阪神競馬場で散々やってますしね。それにこの馬のフットワークで走れない競馬場なんてないと思ってます」
「目下一番人気とされるクエスフォールヴですが、勝算はいかがでしょう」
「もちろん出走する以上は勝ちに行きますよ。前回のジャパンカップでは完敗でしたからね。負けたままでは終われません。人馬ともにやる気十分なので、ここで雪辱を晴らします」
常にない強気な発言に報道陣がどよめく。
「横田騎手。本日が最終追い切りでしたが、背中に跨ってみてどのような感触を得られましたか」
「今日は軽めだったので、いつも通りですね。ただ、ここまで三週間、ずっと気持ちが切れずに続いているというのは感じていたので、本番でも良い結果を残せると思っています」
「それは勝利宣言ということでしょうか?」
「いや、僕が強気なこというと負けちゃうので、そこまでではありません」
そう告げた横田の顔には、確かな自信が浮かんでいるよう報道陣には映った。
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有馬記念は競馬の祭典としての側面を強く持つ。
世代を越えた名馬が激突するその年の競馬を締めくくるレース。そうした理念の下にあるドリームレースであるからで、これまでも数々のドラマを生み出してきた。
ともあれ、お祭りであるからに。そこには普段のレースでは見ることが出来ない特別な催しがいくつかある。暮れの中山は地域を上げてのお祭り騒ぎであるし、中山競馬場はダービーもかくやの出店の数々。
そうした盛り上がりの一つとして近年催されるようになった物。それがテレビ番組での公開枠順抽選会だ。
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「12月25日。クリスマスに彩を添える有馬記念の公開枠順抽選会が間もなく始まります。今年で第N回目となるこの抽選会、今年からはウェブでの同時生中継も行われており、只今、この会場の模様は各種衛星放送、さらにニマニマ動画などでご覧頂いております」
『見てるニキ~www』『すみかたんぺろぺろ』『大本営発表視聴者100万人』『うおおおおお』『ようお前ら』『有馬の生中継が見れるとはニマニマも偉くなったもんだ』
画面に流れる文字列の数々。視聴者によるリアルタイムでのコメントが表示されているのだ。その様子は、司会者の傍らに設置されたモニタでも確認する事ができるようになっ
ている。
女性アナウンサーから言葉を引き継ぎ、男性アナウンサーが口を開く。
「今年も出走する"全"陣営から調教師、騎手、その他関係者の皆様にお集まりいただく事が出来ました。誠にありがとうございます」
カメラが会場を映す。厳粛な空気の中、600人は詰め込める広大なホールに沢山の競馬関係者、そして壁際には中継の撮影機材やスタッフがずらりと並んでいた。
スクリーンに映像が映し出される。
それはルドルフが、ブライアンが、グラスが、クリスエスが、ハーツが、フリートが、中山の直線ターフを一着で駆け抜けるシーンだ。
「強いものが勝つのか、大駆けが起こるのか、暮れの中山大一番。有馬記念はここから始まります! 第NN回有馬記念、公開枠順抽選会ですッ!」
盛大な拍手と共に開催が宣言された。
『わー』『8888888』『海老名激怒』『服wwww』『おー』『切れんのはええよww』『さっきちらっと映ったけどもう切れてた』
「改めまして競馬ファンの皆様。今年はウェブ中継も始まりまして、ウェブを通してご覧になっているファンの皆様も多いことかと思われますが、有馬記念の公開抽選会でございます。もうすでに、沢山のコメントを頂いていて、その盛り上がり足るやまさに競馬の祭典の名を冠するに相応しいものであるように思います」
「ちょっと盛り上がりすぎてる感もありますよ! そんな調子だと抽選まで持たないので少しクールダウンしていきましょう」
『はーい』『はーい』『おk』『はいすみかせんせー』『はーい』『うんわかったー』
「今年も全陣営の関係者の方々が一堂に会す有馬記念抽選会。各陣営、くじ引きに対する気合の入りようも一入でございましょう。特にね、コトブキツカサ陣営の……なんでしょうね、もう絶対にいい枠引いてやるぞ、という意気込みが先程からヒシヒシと感じられましてね、それが会場に伝播して緊張感に満ち溢れておりますね」
『コトブキ海老名』『海老名ァ!』『8枠の男海老名』『海老名8枠』『名前がもう外枠だもんな』『海老名の服wwww』『真っ赤なスーツとかなんなのw』
「さて、ここでゲストのご紹介です。JRA元騎手の岡田順平さんと、競馬中継でもお馴染み、今年ようやくダービー解説家になった竹中正平さんです。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「やぁよろしくお願いしますねぇ」
『ダービー竹中』『皇帝岡田』『岡田爺また髪薄くなったな』『また髪の話してる……』
「今年もフルゲート16頭の出走馬にて開催されます有馬記念。持ち味を生かすための枠順はそれぞれ異なりますが、それでもねぇ、竹中さん。やっぱり外枠なんかは引きたくないものですか」
「えぇ。有馬記念の外枠なんかはねぇ、もうはっきりデータ出ちゃってますからねぇ。平等にならないのはおかしいっていう意見も御座いますがね、まぁなるモンはなるで仕方ないものですから。今日の関係者の皆さんの顔つき見てくださいよ。レース走る前より緊張してますよ」
「特に、海老名ジョッキーなんかね、警戒色かってくらいすごい色のスーツ着てますよ」
「ん? あぁ今マイクが海老名騎手に手渡されます」
「あ、どうも海老名外志男です。でもね、今日は私、海老名外志男じゃないんです」
「と、申しますと?」
「このね、何の因果か過去5回この抽選会に参加させて頂きましたが、全部8枠だったという結果を受けましてね。特に前回の抽選会では1枠か8枠かの二択で8枠を引いてしまったという事でね。このたび、今日に限って改名いたしました。
昨日までは外を志す男でトシオでしたが、今日は内を志す男でウシオです。
ラッキカラーは赤。海老名内志男です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
『wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww』『名前ごといったwwwwwwwww』『そこまで気合入ってんのwwwwwwwww』『8枠海老名』『\ウシオァ!/』
会場も笑いに包まれ、フラッシュが焚かれる。
「凄まじい気合を見せていただきました。海老名ジョッキー。
さぁ、それでは、第NN回を迎えます有馬記念、出走馬並びに各陣営をご紹介してまいります」
「黄島さん、よろしくお願いします」
「はい。それでは出走馬、各陣営、順にご紹介してまいります。
ファン投票一位。クエスフォールヴ。道行重文調教師。ダミアンロペス騎手。佐々岡忠オーナーです」
『佐々岡だ』『エース佐々岡』『佐々岡ほんとふけねーな』
「ファン投票二位。サタンマルッコ。小箕灘健調教師。横田友則騎手。中川貞晴オーナーです」
『オーナー緊張しすぎだろww』『人間の方のS氏』『馬の方がこの場でも落ち着いてそう』『横田お前なにわろてんねん』『人間の方のS氏死にそうな顔してる』
「続きまして――……
に、ににっかんいちい……ほげえー
ジャンル的に総合の掲示板内に入るのはきつそーですが、目指すだけならタダなので引き続きのご声援がいただけるよう一層精進します。
今日は夜にももう一回更新の予定です。たぶん21時(喜びの舞)




