6F:彼の迷い-2
「では夕方からの天気予報です。みのりちゃ~ん!」
「はぁ~い! WNK気象予報士の兵藤みのりで~す。
ここ、京都駅前ではなんと! 現在小雪がちらついております!
小粒で雨と見紛うほどなんですが、10月での降雪はなんと観測史上初!
厳しい冷え込みに注意が必要です。
ではこの後のお天気です。
今降っている雪は夜には雨となり、朝方には止んでいるでしょう。
気温が低くなっていますので、寝具にはいつもよりもう一枚、多くした方がいいかもしれません。
明日の天気です。
明日は一日曇り空。週末にかけては雨が続く見込みとなっています――……」
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競馬において大穴とは、逃げ先行、落馬によって引き起こされる事が多い。それらの要素を副次的に有利にする物、それは悪天候だ。
京都競馬場のパドックは午後から降り出した雨の中、傘を差す観客が醸し出す静かな熱気に包まれていた。週末からぐずついた天気が続いた影響で馬場状態はすでに不良の発表。何かが起きるならこんな日だ。それらの兆候を逃すまいと馬券師たちは間もなく現れる優駿達を待ち構えている。
メインレースまではまだ時間がある。それまでのレースで軍資金を増やしておこうという魂胆なのだろうが、得てしてそう上手く行かないのが世の常だ。
そんなパドックの様子を、一段低い位置――内側からクリストフは見ていた。
そういえば、日本の競馬はこんな感じだったな、と懐かしんでいた。
日本の競馬は世界的に見ても平場(メインレース≒オープン特別ではないレース、もしくは重賞開催が無い日の開催日。要するに特別ではない日)の熱気が非常に高いといえる。未勝利や条件戦のレースに数万人の観衆がつくことはかなり異質だ。ドイツから短期免許で騎乗に来ていた騎手が、未勝利戦で大きな声援を受けた事に対して多大な衝撃を覚えたと述懐しているなど逸話が多い。
懐かしい空気を堪能しマルッコの馬房へ戻ろうか、と足を踏み出した時、横合いから声がかかった。
「クリストフ!」
見覚えのある顔。数瞬の後、それと名詞が結びついた。
「ヨコタ、さん」
勝負服姿の横田は朗らかな笑みを浮かべながら、クリストフの肩を叩いた。
「久しぶり。元気だった?」
「アマリ元気じゃなかったです」
横田は正直な言葉に苦笑いし、探るように「もう、その……いいのか?」と続けた。彼は知人とその相棒の身に起こった出来事について知っていたのだ。
「ハイ。彼に励まされましタ」
「マルッコか?」
「ハイ。マルッコはいい仔でス」
「ああ。よく知ってる」
「今は、スダサン厩舎のお手伝いしています。体を直したら、騎手、またやりたいでス」
「そうか。そうか……!」
横田はクリストフが厩舎の手伝いをしている事を小箕灘経由で聞いていた。騎手の道を諦めたのかと考えていたが、どうやら彼は辛い経験を乗り越え、ブランクを埋めた後にかつての道へ戻ろうとしているらしい。それは、似た経験を持つ横田にとって我が事の様に嬉しい出来事だった。
「それじゃあ、また後でな。俺、これからレースだから」
「ハイ。がんばってくださイ」
目に薄っすらと涙を浮かべていた横田は、照れ隠しのようにそう言って騎乗へ向かった。
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最近はそうでもなかったんだけどなぁ。
クニオは引きつった口元を意志の力で平静に保ちながら、雨中の京都競馬場パドックを周回していた。
いや、それは正確ではない。ほとんど止まるような速度のマルッコの手綱を引いていた。
夏休みの羽賀で、すっかりアイドル扱いに慣れてしまったこの栗毛の癖馬は、カメラのレンズやスマートフォンを構える観客一人ひとりに視線を送るかのように、殊更ゆっくりと歩いていた。恐らくファンサービスのつもりなのだろう。
「なんだカ、あまり集中していませんネ」
二人引きで口を取っているクリストフことクリスも、そんな様子に苦いものを滲ませていた。
「まあこれはこれで集中していると言えなくもないけど」
「fanの皆さんは、大切ですガ……」
「うーん、いつもだったら騎乗でピリっとしてくるんだけど、今日は横田さんがパドックから乗れないからなぁ」
クリスのマルッコを見る目は心配そうだ。母親が帰りの遅い子供を待つ顔にも似ていた。
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「……――パドックの解説は引き続きラジオウェスト織田雅也さんです。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「それでは各馬一周見て回りましたが、ここからは織田さんかが気になった馬をピックアップしていきましょう」
「はい。まずは大外⑱番、ダービー馬サタンマルッコですね」
「⑱番サタンマルッコは現在単勝1.7倍の一番人気です」
「ダービーや宝塚記念で見せた走りから実力は本物。逃げ馬不利と言われる菊花賞ですが、あれだけのスタミナを見せ付けられては逆らえません。この、今降っている雨も逃げ先行にプラスであると思います。
気になるところとしてはまずやはり前走からトライアルを踏まず直行である点でしょう。
中間の調教や追い切りは訳の分からない部分が多いですが、もともとそういう馬ですし、今日こうして馬体を見てみても身体つきは緩いところもありません。
周回中は、なんというか、あまり集中しているようには見えませんでしたが、この馬の過去のレースを見ても大体そんな感じなので実力を発揮できる状態にはあるんじゃないでしょうか。
外枠発走である点については、スタートが抜群に上手な馬ですし、仮に出負けしても長距離のレースですから、余程の出遅れ等で無い限り特に問題なく先頭に立てるのではないかと思います。
次に⑧番のスティールソードを挙げたいと思います」
「⑧番のスティールソード。現在単勝3.2倍の二番人気です」
「今日は絶好と言われた青葉賞に匹敵する仕上がりなんじゃないでしょうか。歩いているだけで一回り大きく見えるほどです。
この馬も逃げ先行馬なんですが、展開としてどうしても他の馬がサタンマルッコを意識する動きとなるので、その中でどう動くかがポイントとなりそうです。直線よりも道中での動きに注目したいですね。
それから、人気上位馬ばかりで穴党の方には申し訳ないんですが、①番ストームライダー、⑩番ラストラプソディーにも注目したいです」
「①番ストームライダーは現在単勝3.8倍の3番人気。⑩番ラストラプソディーが5.2倍の4番人気となっています」
「ストームライダーはトライアルから変わらず好調を維持しているようです。見栄えのする凄い身体付きをしていますね。距離適正が不安視されていますが、絶対能力の高さでこの中でも上位であると考えました。
ラストラプソディーは父系が長距離戦を制している事から血統背景はバッチリ。追い切りでの動きも抜群と、十分勝ち負けに届く実力、調子であるように思います」
「それではもう一頭、お願いします」
「②番のヤッティヤルーデスがすごく気になりますね。この馬はパドックだと静かな、というか元気が無い感じで歩く馬なんですが、今日はなんでしょうね。雨の中元気いっぱいといった感じで、何かやってくれそうな気がします」
「ありがとうございました。菊花賞発走まで、今しばらくお待ちください」
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《手拍子に送られて、伸びやかな最終音をトランペットが鳴らしきり、万雷の拍手が起こります京都競馬場。今年は雨の中6万8千人のお客さんが3歳牡馬最終戦を観戦に訪れています。
皐月賞馬ストームライダーはダービーの雪辱を果たすのか。
競馬史に新たな蹄跡を刻んだダービー馬サタンマルッコがその実力を示すのか。
それともスティールソード、ラストラプソディー、カタルシスといった馬達の逆襲が成るのか。その身に刻む血の証明。クラシック最終戦菊花賞間もなくスタートです。
奇数番号の馬が、おっと①番のストームライダーが珍しく、珍しくといって良いでしょう。珍しくゲート入りを嫌っている。先に後ろの番号の出走馬が収まっていきます。
⑰番まで収まりましたが、さて……今、ストームライダーが勢いをつけて係員に引かれながら……収まりました。続いて偶数番号の馬が枠入りを始めます。②番ヤッティヤルーデスが収まり、順調に進んでいきます。最後に⑱番、サタンマルッコが収まりました!
さあ……今、菊花賞、スタートしました!
あ。
ああぁぁッ!? サタンマルッコ出遅れたッ!
躓いたか足を滑らせたか、横田騎手があわや落馬かと思う程大きく体勢を崩す間に出走各馬は一周目の3コーナーへ飛び込んでいきます。
その後ろ大きく遅れてサタンマルッコ。どうやら競走は続行出来るようでありますが、前とは10馬身程差が開いてしまいましたッ!
京都競馬場観客席からは悲鳴の嵐! 波乱の立ち上がりの菊花賞となりました!
先頭はスティールソード、内へ寄せてゆっくりと坂を下ります――……
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スタートの一完歩目でマルッコが窪みに足を取られた。表面上平坦に見えた芝だったが水を吸って膨らみ、地下が空洞だったのだ。
更に間の悪いことに降りしきる雨が鐙を湿らせ、片足が鐙から外れてしまった。一時は首に捕まらなくては落馬しかねない体勢だったが、背中の異常を素早く察知したマルッコがスピードを落とし、その間に横田は騎乗姿勢を修整することが出来た。
この間約一秒。しかし加速に乗った競走馬とこれから加速する競走馬との間で一秒の差は果てしなく大きい。それは常のマルッコが絶好のスタートを決め、スタートから400mで他馬と開く差に等しい。
遠ざかる馬影に、慌てたマルッコがハミを取って行く気を見せた。
「マルッコ!」
横田は強い意志で手綱を引いた。背中から困惑が伝わる。
「任せろ!」
この位のロス、なんでもない。俺が勝たせてやる。
水しぶきの上がる淀の坂を下りながら、人馬は遠くの馬影を見やる。
「あいつら全員、ぶち抜くぞッ!」
噛み合ったハミが緩む。身を委ねたマルッコの身体から力みが抜けていく。
理性ある怒りに身を包んだ栗毛の怪馬に闘志が宿った。
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……――一周目のスタンド前を通過していきます。雨粒を吹き飛ばすような大きな声援が送られます。馬群は徐々に縦長の隊列となっています。
先頭は⑧番のスティールソード。切れて2馬身④番アレンティ。その後ろに①番ストームライダー今日も先行策、そこから馬群が固まってラストラプソディー、ナイトアデイ、ガイデスブルグ、ホウユウアオゾラ、ゴーゴーオルソスらが内、外にヤッティヤールーデス、ケルヴィンハット、マイザーアカウント等、この辺り横に広がって進んでいます。
そして馬群の最後方フォールオブアースから離れて10馬身。ここにサタンマルッコがぽつんと追走しています。
先頭通過が63秒。雨を勘定するなら平均ペースと言って良いペースで1コーナーへ向かいます。この辺り、隊列は固まったように思います。
一隊となって2コーナー、向こう正面へ進んでいきます。
さあ淀の上り坂。この辺りペースが緩んで一息といったところですが、
『おおおおおぉぉぉぉぉ――……!』
おっと凄い歓声、いやどよめき!
向こう正面の坂に入ったところで出遅れて最後方のサタンマルッコが位置を上げ始めている! 坂の真ん中辺りで大外をぐんぐん進み、今馬群の中段あたりに付けましたが、まだまだ位置を上げている!
前の方も一気にペースが上がってきた! この辺り一気にレースが動いて参りました!
2周目の3コーナーに差し掛かります坂の頂上。ここから先は下り坂。
しかしサタンマルッコの仕掛けに反応した各馬は全体的にペースが速いぞ!?
果たしてこのまま行くのかどうか。
そして現在4、5番手のサタンマルッコはここからどうする!
この動きに各馬はどうなる!
横田騎手の手は変わらず動き通しだ! これを見てラストラプソディー川澄騎手も追い始めた!
4コーナーの下りに差し掛かりますが、これは正直、意外な展開!
なんとあの出遅れからサタンマルッコが間もなく先頭に取り付こうとしています! それで持つのか横田友則!
並ばれたスティールソードに、ああなんと鞭が入った! 細原騎手勝負に出た!
細原騎手、坂の下りでゴーサインッ!
困惑と悲鳴の大合唱が迎える京都競馬場の最後直線!
外へ大きく膨らみながらスティールソードとサタンマルッコが馬体を並べる! 後方集団とは差を開いた!
内の方では⑦番ホウユウアオゾラ、②番ヤッティヤルーデスが突っ込んで来るが、前の二頭までは3馬身はある!
ストームライダーはどうだ! 脚が鈍い! 馬群の中から割って来れない!
先頭はスティールソード半馬身! 身体を併せて外サタンマルッコ! どうやらこの二頭の争いになったようだ!
内スティールソード! 外サタンマルッコ! 残り100m!
もう差が無い! 大接戦! サタンマルッコ前に出たか! いやスティールソードが差し返す!
内スティールソード外サタンマルッコ!
どっちだ!
どっちだ!
どっちだあああああぁぁぁぁッ!
まっっったく並んでゴールイン!
これはきわどい勝負になりました!
……三位入線は②番ヤッティヤルーデス、⑩番ラストラプソディー、この辺りの争いとなったようです。
しかし一着争いは微妙! 直線100mを切ってから一度サタンマルッコが頭一つ抜けましたが、最後にはまたスティールソードが差し返したようにも見えました。
電光掲示板には写真判定の表示。さらにこのレースは審議のランプが灯っています。
今、この件に付きましてアナウンスがなされます。
『京都11Rはサタンマルッコ号が発走機を出た後、躓いた事に関して審議いたします』
審議はサタンマルッコのスタートについてのようです。不利を受けて、もしくは不利を与えたとも思えませんので、着順に影響のある審議ではないように思われます。
それにしてもあの位置からのスタート。さらには向こう正面からのロングスパートと激しいレースを繰り広げましたサタンマルッコ。
さらにそれを受けて立ったスティールソード細原文昭騎手。最後、直線まで両者の激しい追い比べとなりました。レースの余韻に浸るかのように、場内はまだ大きなざわめきに包まれております。
あっ、今ゴールの瞬間の映像が映し出されます。
これは、これは……どうでしょう。両者ともに首を伸ばしきっておりますが、僅かに、僅かに外サタンマルッコが優勢であるようにも見えます。確定まで今しばらく……あっ!
着順が表示されました!
一着、⑱番、サタンマルッコッ!――……》
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電光掲示板の一番上に表示された⑱の数字。
観衆の悲喜交々を聴きながら、横田は胸をなでおろした。
最後の瞬間、残した感触はあったのだが、何分雨であるしゴール板を抜けた次の瞬間にはスティールソードに交わされていた事もあって、自信が無かったのだ。
「おめでとうございます。悔しいですけど、次は負けませんよ」
激闘を繰り広げたスティールソードの鞍上、細原が言葉通りの悔しさを滲ませて言った。
かつてマルッコに突っかかられた事のあるスティールソードは鼻息も荒くマルッコを睨みつけていたが、マルッコはつーんと顔を逸らしていた。
その態度におや? と思いつつも、
「ありがとう。今日はめちゃくちゃきつかったよ」
「まぁ、あれだけの出遅れですからね……じゃあ先に行きます」
細原はスティールソードを促して、計量場へ向かって行った。
「どうしたマルッコ。元気が無いな」
「ぷる」
ああもしかして。
「スタートのことでも気にしているのか? いいんだよ。ああいう事だって、偶にはある。そういう時のために、俺達がいるんだから。さあそれよりも帰ろう。ほら、行くぞ」
マルッコはしぶしぶ~といった感じで足を出し始めた。
スタンドからは割れんばかりの声援。やや野次も含まれていたがそれはご愛嬌。
何故ならサタンマルッコとはそういう馬なのだから。
いつも読んでいただきありがとうございます。ブックマーク、感想、評価、とても励みになります。
毎日とっても楽しくかいてます。今しばらくお付き合いくだると幸いです。
クリストフと横田が競馬場で再会した描写がありますが、これは横田が調教で乗る日はクリストフが休みになり、その間なまった身体を鍛えなおしていたからです。




