5F:彼らの目覚め-3
新緑の牧草地とすぐ隣の柵に囲まれた農地。アンバランスというか不自然なその場所こそマルッコの故郷、中川牧場だ。
ダービー、宝塚記念と春の激戦を終えたマルッコは故郷中川牧場で秋競馬への英気を養っていた。とはいえその生活は賑やかなもので、
「あ! こっち向いた……写真取って写真!」
「マ、マルッコくんかわいいなぁ」
新聞や雑誌、ニュースでマルッコを知ったミーハーなファン、競馬好きな熱心なファン、テレビや雑誌の取材員、時期的に夏休みなのも相まってそうした見学者達が後を絶たない。 一般的にサラブレッドは臆病な生き物だ。大きな音、見慣れない物、嗅ぎなれない匂い、それらに敏感に反応してしまう。
ともあれそれは一般的なサラブレッドの話で、マルッコのような図太く人懐っこい馬にはあまり関係が無い。せいぜいが気疲れするくらいだろう。
今もカメラを向けたファンに対し、「プーマか? プーマのポーズ決めていいんか?」とでも言いたげに、後ろ足立ちで探り探りポーズを決めようとしている。
牧場事務所では地元の商工会と協力して作った『マルッコ饅頭』や『マルッコ煎餅』が売りに出されている。どちらも元から丸く、マルッコの額の星にあやかって丸いマークを押しただけの代物だが、そんな物でも飛ぶように売れ、中川牧場の財政を、延いては羽賀競馬周辺を潤した。
世はまさに、マルッコフィーバーだった。
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キーホルダーの無い無機質なシリンダー錠。それが彼の家の鍵だった。
勝手知ったる他人の家。男は友人宅の鍵を開け、無造作に廊下を進んだ。
鼻腔をくすぐる酒の臭い。リビングの扉を開けば、それはより濃度を増して纏わりついた。
乱雑に転がされた酒瓶は一応生活への配慮からかテーブルを中心に散乱しており、整頓された家具に反してそこだけが荒んでいた。側にはソファーで体を丸めている家主。三日前、部屋の掃除をしたのは男だ。記憶の画像を重ねてスライドさせれば、酒瓶以外がぴたりと符合する事だろう。
「また、飲んでいたのか」
声をかければ男の友人はもぞもぞと顔を向けた。
「…………ん。誰だ? ケルニーか?」
「そうだ。お前のママ役を遣わされているケルニー様だ」
「もう三日経ったのか」
ケルニーが友人のマネージャーから世話役を仰せ付かったのは、もう二年も前の話になる。友人は心を悪くしていた。
「クリストフ。そんなに酒ばかり飲んでいては身体を壊すぞ。お前の復帰を待っている人達が沢山いることを忘れるな」
「俺はもう乗らない。放って置いてくれ」
「こっちも金貰ってメードみたいな真似してる以上は義務があんだよ。本気で言ってねぇよ。だがなクリストフ、お前の健康を心配する俺の気持ちは本当だ。飲むな、とは言わないが、もう少しだけ俺を安心させるような生活をしてくれ」
「……悪かった」
クリストフと呼ばれた男は赤焼けた顔でぶっきらぼうに言い、テーブルの酒瓶に手を伸ばす。しかし目的の物まで手は届かない。ケルニーの手が遮っていた。
「ミネラルウォーターを飲むだけだ」
「ここに水があるってことは、一応割って飲むっていう理性が残っていたんだな」
「ストレートでなんてキツすぎて飲めたモンじゃないさ。俺は酒の味を楽しむ派なんだよ」
少しもそうとは思わせない口ぶりでペットボトルの水を呷った。
それを見届けて、ケルニーは転がされた酒瓶たちの片付けを始めた。
「シャワーでも浴びてきたらどうだ」
「汗はかいていない」
「そうか。あぁ、鞄の中に雑誌がある。適当に読んでいてくれ」
聞いているのかいないのか。クリストフはソファーに背を預け天を仰いでいた。
裏庭の集積場所へ瓶を片付けリビングに戻ってみると、クリストフは雑誌をぱらぱらと興味なさそうな目でめくっていた。一応、彼が能動的に興味を示したバイクの雑誌を持ってきてみたのだが、この様子ではさしたる暇つぶしにはならなさそうであった。
「…………最近じゃバイクの雑誌にも競馬の記事が載るのか」
ああチクショウめ。その話題を避けて雑誌を選んだというのに、よりにもよってそんな特集組みやがって。脳内で数十通りの呪詛を編集者へ吐きながらケルニーは取り繕った。
「へえ。まあバイクの雑誌だって少しはニュースを取り扱ったりするモノだろ?」
「それもそうだな」
手の進みを見るに、どうやらクリストフはその記事を読むことに決めたらしい。青い瞳が静かに文字を追っている。
平気そうか。そう肩の力を抜いた時だった。
「ケ、ケルニー……」
友人の声は震えていた。
「どうした?」
「この記事に書いてあることは本当か?」
「はぁ? まだ読んでないから知らないよ」
「見てくれ」
促されるまま側へ寄り雑誌に目を通す。
記事には『日本ダービーの勝ち馬、サタンマルッコ。圧巻のレコードタイム』とあった。
「競馬のことはさっぱりだ。だけど、ダービーの勝ち馬を間違えるなんてことは無いんじゃないか」
「違うんだ。違う……これは……これはセルクルだ。いや違う。いやでも……」
何事か、ケルニーには分からない言葉で呟いたクリストフは、やがて決然と顔を上げた。
「少し出かけてくる」
「は?」
言うが早いか、ジャケットを羽織り身の回りの物をポケットへ詰め込んで玄関へ向かって行く。ケルニーは慌てて追いかけた。
「お、おい。家はどうすりゃいいんだよ」
「いいようにしておいてくれ」
「待て待て待て! 行き先くらい教えていけ!」
玄関口の扉に手をかけたところだった。
「ニホンに行ってくる」
振り向いたクリストフの瞳は、かつての理知的な光を湛えていた。
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「はい皆さんどうもこんにちはこんばんは。タケダダケTV春シーズン終了版でございます。
この番組ではJRA栗東所属騎手、竹田豊と司会の私、宮前譲一がゲストの皆様をお迎えして春競馬を回想する、という番組となっております。お相手はお馴染みこの方!」
「どうも。竹田豊です」
「はい。ということでねタケ君。今年の春競馬も終わったという事でね。ああ今年もタケダダケTVの時期がやってきたなって感じがしていた訳ですけれども。どうでした今年前半戦を終えてみて」
「うーん。毎年色々あるけど、今年も色々あったなって感じです」
「そらそーだ。じゃあその色々あった春競馬。振り返ってまいりましょう。
まずはこのコーナー。ジーワン、メモリィバァック!――……」
「……――てことがありましてね、この時は思われてた以上に必死でしたよ」
「タケ君っていつものほほんとした顔してるから、必死って言われてもちょっと想像つかないよ。
じゃあ次へ行って……はい。いよいよお待ちかね、日本ダービーです!」
「きちゃったかぁー」
――竹田騎手は苦い表情。
「今年の日本ダービーはそれはそれは大事件が起きましたね。皆さんご存知の通り、羽賀競馬出身のサタンマルッコ号が日本ダービーを制覇。地方出身馬としては初の偉業を成し遂げました。
そして! 今日はなんと! そのサタンマルッコ号主戦騎手である横田友則さんをお招きしております。どうぞ横田騎手!」
――スタジオ脇から現れる横田騎手。和やかな笑顔だ。
「どーも横田友則です」
「いやぁーダービー初制覇、おめでとうございます!」
「あざっす!」
「この人はぁ!」
――満面の笑みを浮かべる横田騎手。一方竹田騎手は渋い笑い。
「横田騎手は長年ダービーを勝ててなかったですが、念願かなってついに初制覇。しかもその様々な記録やジンクスを破っての劇的大勝利。連日報道されご存知の方も多いでしょうが、今一度申し上げますと。
まず地方出身の競走馬による日本ダービー初制覇。
次に青葉賞トライアル組からの日本ダービー初制覇。
ほぼ同意義ですが2400m以上経験馬による日本ダービー初制覇。
18頭立てになってから8枠16番での出走で日本ダービー初制覇。
さらにレコードタイムを更新し、何より鞍上横田でダービー制覇。これでしょう」
「ちょっとちょっとやめてくださいよ、もう勝ったんだから許して!」
「うふふ。それでどうですか横田さん。ダービージョッキーになって」
「最高ですね。やーこれで横田ダービー友則ジョッキーを名乗れますよ。ねぇ竹田ダービー豊ジョッキー」
「この人、最近酒の席とかずっとこんな調子なんですよ? だから宝塚じゃ絶対この人に負けないって決意してましたもん」
「それだけ喜びも大きかったということでしょう。そして横田ジョッキーは日本ダービー制覇を持ちまして、JRA全GⅠ競走完全制覇という偉業を達成いたしました! クス玉もどーん!」
――宮前がヒモを引くと、クス玉が割れて中から【横田騎手おめでとう!】の文字。
「スタジオに入ったときからこのクス玉なんだろうってずっと思ってたんだけど、トモさんのための仕込みだったんですか」
「いやぁ、祝っていただけて嬉しいです」
「尚、タケ君も同実績を達成しているので、この場には二人のグランドスラムジョッキーとでもいうんですかね、そんなお二人が揃っている訳ですよ。まさに大正義タケダダケTVといった具合で、日本ダービーのレースを振り返って行こうと思います!」
――日本ダービー発走直前のゲートの様子が映し出されている。スタートし各馬一斉に走り出す。
「⑯番のサタンマルッコが絶好のスタートを決めて、そのまま先頭に立ったと。
内のほうではタケ君のストームライダーやラストラプソディーも好スタート。このお馬さんたちもスタート上手よね。タケ君はこのときどうだったの?」
「スタートは良かったので行く馬いなかったら行っちゃおうかなとは思ってましたよ。外からサタン(マルッコ)が行くの見えたし、スティールソードも二番手を取りにいったから、じゃあその後ろでいいかなって感じで収まりましたね」
「1コーナーから2コーナーに差し掛かる頃には隊列が出来上がってたと。そしてここで場内からざわめき。サタンマルッコが後続を引き離して大逃げになっていたと。この辺はプランどおりだったんですか? 横田さん」
「ええ。ストームライダーに勝とうと思ったら前の競馬になると思ってたんで、その中で今回はこういったレース運びにしよう、というのは戦前からありましたね。
それと大逃げを打っているように見えるんですが、実はちょっと違うんですよ」
「と、いうと?」
「レースのラップ見てもらうと分かると思うんですが、この1コーナーでのリードはスタートでの差そのままなんです」
――サタンマルッコは(1F計測タイムそれぞれ秒)11.7-10.6-11.4-12.2-12.4で1000mを通過している。
「スタートだけで平均的な馬より1秒近く速い。後は出たままのスピードを維持すれば、だいたいこのくらいのタイムになりますね」
「1000m通過が58.3秒と。実況の馬場園アナも言っていましたが、ダービーとしては明らかに速かったですよね」
「タイムとしてはそうですね。けど本当に無理に力を入れた逃げでもないんでね。楽に行かせて貰ってますよ。これがダービーじゃなければ、僕は1コーナーで勝ちを確信していた位です」
――どこか納得した表情の竹田騎手。
「向こう正面に入っても先頭は変わらず。後ろも殆ど変わらなかったのかな? ここから12.4のラップタイムが続くと」
「実を言うとこの辺覚えてないんですよね。時計刻むのに集中してて、マルッコが息を入れる音で直線向いたって気付いたくらいで」
――4コーナーを曲がり直線を向くサタンマルッコと、それを猛追するスティールソードとラストラプソディー。
「ここでラストラプソディーとスティールソードが傍目には足の上がったように見えたサタンマルッコを追い抜こうとペースを上げました。このときタケ君のストームライダーはまだ馬群の先頭で後方集団と一緒にペースを上げてましたね。これは?」
「前の二頭がサタンを抜きに行ったのはすぐ分かったんで、包まれないように後ろとペースを合わせながら足を温存していました。仕掛けのタイミングとしてはちょっと早かったと思ったんでね」
「実際にそうなりました。仕掛けた二頭はサタンマルッコを交わせず坂の終わりで足を鈍らせます。この辺りでタケ君も仕掛けてますね。一瞬で二頭を抜き去って、さあ後はサタンマルッコだけとなったのですが」
――距離が詰まらないままゴールへ進む二頭。
「この時現地は凄い声援でしたね。声援っていうか、悲鳴と絶叫?
馬場園アナが最後に『どういうことだ!?』って実況するんですけど、私も何が起きてるのか分からなかったですねぇ。横田さんはサタンマルッコにどんな魔法をかけていたんですか?」
「物凄く端的に言うなら、足が残ってたってだけですね」
――椅子からずり落ちる真似をする宮前。
「あそこで足を残せるっていうのがサタンマルッコの才能ですね。抜群のスタート、強い心臓、僕が乗りたい理想の逃げ馬そのものですからね、マルッコは」
「ははぁ。最後なんか伸びてましたもんね。あの時僕、内が伸びる馬場なのかなって思ってましたよ」
――得心が行ったと竹田騎手はなんども頷く。
「そういえば横田さんはサタンマルッコとどこで接点を持ったんですか?」
「マルッコが阪神の未勝利戦に出てきた時ですね。その時僕も騎乗していたんですが、ずっと折り合わないまま圧勝して、ゴールした後も息が乱れて無くってね。こりゃすげぇ馬だって思って、マナー違反は承知の上ですぐ営業かけましたね。
けど次走に声がかからなかったからダメかーって半ば諦めてたんですけど、青葉賞から乗ってくれって言うじゃないですか。そりゃもう飛び上がって喜びましたよ」
「それじゃあ横田さんの慧眼は正しかったわけですね」
「そういう結果に結びついて、本当に良かったです」
――ゴール板を先頭で駆け抜けるサタンマルッコ。
「そして戴冠。終わってみれば府中12ハロンをレコードで逃げ切り勝ちと非常に強い内容。いやぁなんかこうやって振り返るとね、勝って然るべきであるように思えるんですがね。サタンマルッコの普段の様子を見ていると、どうにもちょっと、そうは見えないというかなんと申しますか」
「あはは。マルッコは変な馬ですからね。けど実力は本物ですよ。それに本当に可愛い奴なんで、皆さん引き続き応援よろしくお願いします」
「ここでちょっとCMです。ウェブ番組だからってCMを飛ばしちゃいけませんよ!」
今日は21時にももう一話更新します。
ほんとうに沢山の方に読んで頂けて毎日楽しいです。




