38 そしてその化粧師は
「嘘でしょ?」
その話を始めて聞いた時、私は思わずそう聞き返していた。
だってとてもじゃないが、実際にあったこととは思えない。
今だって、できることならいっそのこと聞き流してしまいたいような気もする。
「まさか、私を皇后にするって言ったの? 朝議の席で?」
私の質問に、黒曜は迷うことなく頷いた。
ここ最近では珍しく、その顔には鼻歌でも歌いかねない満面の笑み。
「だからそう言っているだろう。官吏達の了解は取った。軍部はむしろ賛成している。華家に養子に入ってもらうことになるが、知らぬ仲ではなし、翠月の許可も得ている」
同席している翠月こと余暉を見ると、彼はとても不機嫌そうな顔をしていた。
許可を得ているとは思えない表情だが、彼はきつく口を引き結び反論する気はないらしい。
「そ、そんな急に……」
確かに華妃にそんな申し出をされて心は揺れていたが、この世界では身寄りもない私が本当に皇后になれるとは考えていなかった。
なれたとしても、もっとずっと先のことだろう。
そんな風に考えていた自分に気付く。
「急ではない。前々から妃になってくれと言っていたじゃないか」
「き、聞いてたけど本当にそんなことできる思わないでしょ!」
半泣きで、思わず怒鳴り返してしまった。
昼下がりの光順門。
後宮と外を隔てる門の一つに呼び出されてきてみれば、皇帝どころか余暉と深潭そろい踏みで私を驚かせた。
宮闈局の宦官は全て処分されたので、部屋の中には他に誰もいない。
「で、でもそんなの、皆さん反対するでしょう? 私なんて……妃でもないただの女官アルよ!?」
動揺して問い返すと、機嫌のよさそうだった黒曜は一変して、憮然とした顔をした。
「自分をそんな風に卑下するな。鈴音は榮の皇后になるのだから」
(だめだ。話が噛み合ってない!)
救いを求めるように深潭を見れば、彼の眉間の皺は思ったほど深くはなっていなかった。
そういえば彼こそいの一番に反対しそうなのに、ここまで黙って話を聞いていたのは逆に不気味ですらある。
私の助けてくださいという視線に根負けしたのか、深潭は仰々しくため息をついた。
「……諦めなさい。我々がいくら説得したところで、陛下は耳をお貸しにならないのだ。私はもう諦めた。いっそ鍛えれば、下手な妃よりは悪くないかもしれない。その……花琳も喜んでいることだし」
(いや、それ絶対最後のやつが決め手ですよね!?)
冷徹無比の宰相は同時にとんでもない愛妻家だ。
その溺愛ぶりは凄まじく、謙虚で可愛い嫁のためだったらどんな理不尽だって飲み込みかねない。
(花琳……いやありがたいけど。ありがたいけど!)
私は思わずその嫁を思い浮かべた。
本人はいたって謙虚ないい娘なのだが、いかんせん天然すぎて夫の深すぎる愛にまだ気づいていない。
「よ、余暉?」
これはもう駄目だと諦め、今度は旧知のもう一人に水を向けてみた。
この世界の兄と慕う人だが、彼の家の養子になるとなればそれはそれで色々と問題なはずだ。素性の知れない皇后の後ろ盾として、彼自身に対する風当たりも強くなることだろう。
しかし予想に反して、彼は強く反対しなかった。
どころか水を向けても上の空で、返事をするのに少しのタイムラグがあったくらいだ。
「余暉?」
今度は違う意味のハテナをのせて呼んでみると、はっとしたように彼は私の方を見た。
「あ、ああ。いや、俺としては鈴音を養子にすることは全然構わない。小鈴にさえその気があるのなら、まあ悪くない話じゃないか?」
一体どうしたというのだろう。
前は妃になることすら猛烈に反発していたというのに。
一体どうしてしまったのだと首を傾げていると、心なしか意地の悪い笑みを浮かべた黒曜が、私に耳打ちをした。
『あの内乱からずっとこの有様だ。療養中の華妃が心配なのだろう』
華妃は現在、妃としては異例中の異例だが城下の華邸第で傷を癒している。
死に際の雨露に人質に取られたらしく、私はそんなにひどいのかと心配になった。表情からその空気を察したのか、黒曜が言葉を付け足す。
『なに。具合が悪いわけじゃない。ただ義理の親子とはいえ年頃の男女だから、まあ色々と事情があるのあるのだろう』
どこか楽し気に言う黒曜の言葉に、私は目を見開いた。
(え!? 二人ってそういう関係だったの!?)
よく見知った二人だが、お互いにそういう気持ちがあるなんて思わなかった。
でもぼんやりとしている余暉は確かに、まんざらではないように思える。
『傷が治ったら、華妃は黒家の嫁にして余暉に降嫁させようと思う。鈴音の義理の姉だぞ』
余暉に聞こえないように言う黒曜は上機嫌で、今ばかりは年齢相応の青年に見えた。
ずっとお世話になってきた余暉が結婚するのは少し寂しいが、彼には幸せになってほしかったので私には嬉しい知らせだ。
「あー、それにな鈴音。お前は自分なんかと言うが、鈴音の立后にはなにも反対の者ばかりじゃない」
「え?」
意外な言葉に、思わず聞き返してしまった。
「当然、官吏の中には考え直すよう言う者もいるが―――軍部なんてむしろ歓迎ムードだぞ? 後宮の危機に危険を顧みず軍に飛び込んできた女傑だと、お前に心酔している者までいるらしい。それはそれで面白くないが、支持してくれるというのなら悪い話じゃない」
「はあ……」
一応相槌を打ってはみたが、あまりの内容に俄かには信じられなかった。
だってこちらは軍人さんの顔さえろくに知らないのだ。
なのに心酔なんて言われても、言葉が悪いが騙されているんじゃないかとさえ思ってしまう。
「例の、臘日の宴でのお前の働きや、宦官に身をやつして後宮を飛び出してきたのが評価されたんだ。素直に受け取っておけばいい」
まるでいいことのように黒曜は言うが、どうにも腑に落ちない。
むしろぼろぼろの格好を見せつけたことに羞恥心が湧いてきたぐらいだ。当時は必死だったとはいえ、泥だらけだったり宦官の格好だったり色々とどうかと思う。
「あとは―――そうそう賈侍中も珍しく賛同してくれた。妹が後宮に入っているからどうかと思ったが、いないよりはいる方がましだからだそうだ」
侍中というのは門下省の長官で、官吏の中では深潭と同じぐらいに偉い。宰相である深潭は尚書省の長官で、もう一人は中書省の長官である中書令。
この三人で国の政治はは行われているのだと、厳しい春麗の講義で習ったことがあった。
(妹がってことは、やっぱり賈妃のお兄さんなのかな? まさか賈妃が、口添えしてくれたとか?)
いかにも自分に都合のいい想像だが、他に思い当る理由なんてなかった。
出会った時は私を嫌っていた彼女だ。
そう考えるには厳しい気もしたが、なんだか認められたようで嬉しくなった。
「だから鈴音。きっとお前や俺が思っているよりも、障害は少ない。後宮でも、お前を慕うものは多いと聞いている。庶民での皇后を娶ったとなれば、今回のような無用な反乱も減るだろう。だからどうか、受けてはくれないか?」
黒曜の真摯な瞳に、私はもう逃げることなんてできないのだと悟った。
それに、私の身寄りがないからこそ国の役に立てるなら、喜んでそうしたいという気持ちになる。
話に聞いた虎柵県の結末は、あまりにも悲しかった。
黒曜もその反乱軍の人達も、多分どちらも国を憂いていたのだから余計に。
大赦で反乱軍の家族に対する九族皆殺しは行わないことになったが、それでも死んだ人達は戻ってこない。
一度面会に来てくれた、芙蓉姐さんのことも心配だ。
母を再び失った彼女は、深く傷ついているように見えた。
誰かが憎しみあったり、誤解で傷つけあうことはひどく悲しい。
少しでもそんな悲しみが減らせるのなら、私が皇后になるのだって悪いことではないのかもしれない。
「わ、分かりました……」
小さな小さな声で答えると、隣の椅子に座っていた黒曜に強く強く抱きしめられた。
「陛下!」
「おい! 何をしている!」
いくら何でも深潭と余暉に窘められたが、黒曜は耳を貸さない。
私は本当に本当に恥ずかしくて体が熱くて、もう何もまともなことは考えられなくなった。
ただ、日本から流されてきた私の不思議な人生は、今からもっと大変なものになりそうだとこの時思ったりした。
それでも黒曜となら、きっと後悔なんてしないけど。
だから私の化粧師としての人生は、これでお終い。
これからは化粧が得意な皇后として、誰かの役に立てたらなって思う。




