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36 戦の終わり



 悲鳴にもにた、翠月の声が響く。

 一番皇后に近いと言われる、華充儀がそこにいた。

 追い詰められた雨露は、人質として華家の妃を連れだしたのだ。

 おそらくは皇帝に対して、それがもっとも効果のある脅しになると考えたのだろう。

 後ろ手を縛られたまま無理矢理池を渡ったらしい彼女は、疲れ切っているのか体を起こすこともできずにいた。

 すぐさま池に入った翠月を目にし、雨露が怒声を上げる。


「それ以上近寄るな! でなければこの女を殺す」


 池を泳ぐため鎧を脱いだらしい雨露だったが、彼は懐に隠し持っていた小刀を抜いて瑞英の首筋に押し当てた。


「やめろ雨露! これ以上罪を重ねるのか」


 この言葉に、老人は皮肉気な笑みを見せた。


「罪など! そんなものが恐くて国盗りなどできるか。皇太后の死にざまはどうだった? お前がここにいるということは、義理の母をも見捨ててきたということだろう」


 わざと兵士達に言い聞かせるように、雨露は大声を張り上げた。

 親征に参加したものはみな、彼女の壮絶な死に様を知っている。


「お前とここで問答するつもりはない。華妃を離せ、雨露」


 池には既に幾人もの兵士が潜み、じわじわと包囲網を縮めつつある。

 中でも翠月の勢いは凄まじく、飛沫をあげて歩いていく。もうその水位は胴体にまで達し、蓬莱山に達するのは時間の問題だろうと思われた時だった。


「近寄るなと言っているだろう!」


 と、雨露が叫んだ、その時。

 それまでぐったりと動かずにいた瑞英が、自ら小刀に向かって身を乗り出す。

 驚いたのは龍宝や翠月だけではない。刀をもった雨露自身も驚き、慌てて彼女から切っ先を離した。

 そうでなければ、おそらく彼女の首は落ちていたことだろう。

 突然の蛮行は、死をも辞さない彼女の決意を感じさせた。


「瑞英!」


 裂けた皮膚から血が流れ、池を汚す。

 雨露は信じられないものを見るような目で、血に濡れた小刀を凝視していた。


「わたくしには構わず、早くこの男を……っ」


 瑞英が苦しげに言う。

 傷が痛むのか、それともまだ体力が戻っていないのか。

 その美しい柳眉は顰められ、青ざめた肌に残った紅だけがあかあかと鮮やかだった。


「瑞英、無茶をするな。お前がそこまでする必要はない!」


 翠月が叫ぶ。

 彼はまるで自らが切り付けられたかのように、苦しげな顔をしていた。


「大家、どうかこの男をお早く……。翠月様に最期にお会いできた。それだけでわたくしに悔いはございません。お家のためにお役に立てず、若様、申し訳ございませんでした……」


「やめてくれ瑞英。俺などに謝るな。俺はお前を利用しようとした男だぞ……」


 耐え難いとでも言いたげに、翠月が俯く。


「いいえ。若様はわたくしにも優しくしてくださいました。華家の血を引きながら、のうのうと難から逃れてしまったわたくしに……」


「ええい、黙れ黙れ!」


 繰り広げられる愁嘆場に痺れを切らしたのか、雨露が瑞英の髪を乱暴に掴む。


「家のためなら死ねる? そのためならば命は惜しくないと? 馬鹿な! 傀儡に捧げるには随分とむなしい忠義だ。俺の親は貧しさに負けて二束三文で息子を売り払った。宦官に売られた子供が、どうなるか知っていたにも関わらずだぞ!」

 老人の叫びは血を吐くような苦しみに満ちていた。


「陽根を切り落とされ、飲まず食わずで三日耐えた。いっそ死んでしまいたいぐらいの渇きと苦しみだ。家のため? 家族のため? 笑わせるな。血のつながりという不確かなものに頼って腹が膨れるか? 温かい寝台で眠れるか?」


 雨露が狂ったように笑う。


「それなら望みどおり、家のために死ねばいい!」


 そう言って、雨露は縛られたままの瑞英の体を池の中へと放り投げた。

 そして周囲が彼女に気を取られている内に、石碑にとりついてその下にある抜け道を通ろうとする。


「瑞英! 瑞英!」


 義理の娘の名前を叫びながら、翠月は鎧のまま池の中を潜った。

 龍宝もまた、素早く池に飛び込む。

 彼は飛び魚のように素早く池を潜り抜け、蓬莱山にたどり着く。

 大人四人も乗ればいっぱいになってしまうような、小さい島だ。

 そこで雨露は石碑に取りついたまま、歯を食いしばっていた。


「なぜだ! なぜ動かない!」


 その哀れな背中に、龍宝が歩み寄る。


「それはな雨露。ここが宦官を惑わすための偽りの道だからだ。宦官が裏切った時のために、本当の抜け道は皇帝にのみ口伝で伝えられる」


「なんだと……」


 雨露が振り返る前に、龍宝は無造作に老人の首を刎ねた。

 周囲に血しぶきが上がる。

 小島と皇帝は血で真っ赤に染まり、意思を失った体は哀れに崩れ落ちた。

 一瞬、言いようのない沈黙が場を支配する。

 そして大きく息を吸い込むと、龍宝は叫んだ。


「銅鑼を鳴らせ! 戦は終わった!!」


「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」


 勝利の雄叫びが城壁を飛び越え、王都にまで轟く。

 ほとんど何も知らされなかった城下の住民は、一体城で何が起こったのかと空を仰いだ。


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