33 繋がる絆
思わず泣きそうになっていたら、節くれだった手が繊細な釵を拾い上げる。
「これは……」
釵を拾ったのは、一番年長に見える白髪交じりの髭の男だった。
男は小さな紅花石蒜を目の前でじっくりと凝視する。倒られてしまうのではと心配したが、そんなことはなかった。
彼は近くにいた兵卒に釵を渡し何事か言いつけると、私の両腕を離すよう命じたのだ。
「しかし、将軍!」
中には不服そうにする者もいたが、将軍と呼ばれた男には誰も逆らえないらしかった。
私は支えを無くし、その場にへたり込む。
なんだかひどく疲れてしまった。
水たまりで服が汚れるのも何も気にならない。
頑張って後宮の異変を伝えなければと思うのに、釵が無事に戻るのか不安でそのことばかりが気になってしまう。
(しっかり、しなくちゃ)
空を見上げると、不意に雲間から光が漏れた。
いつの間にか雨は止んでいたらしい。
しばらくその光を眺めていると、周囲にざわめきが起こった。
こちらに近づいてくる一団が見える。
全員厳めしい鎧姿。もう逃げる気力も残っていない。
俯いた水たまりに、晴れ間がのぞいた空と情けない自分の顔が映っている。
***
そうなる可能性はあると危惧していた。
あるかもしれない―――ぐらいの微かなもので、それほど真剣に恐れていたわけではないが。
それでも事前に、伝令を飛ばしておいた自分を龍宝は心底褒めたくなった。
目の前には、厳めしい男達に囲まれた小柄な影が、力なく座り込んでいる。
思わず駆けだした龍宝を深潭が止めようとしたが、その手は甲冑に当たり容易く弾かれた。
「鈴音!」
皇帝の登場に気付き、兵士たちが次々と膝をつく。
臣民は玉体を直視することすら許されない。龍宝にとっては見慣れた光景だが、鈴音はあまりの出来事に目を丸くしている。
「こく、よう?」
鈴音は、茫然と座り込んだまま。
龍宝は自ら膝をつき、宦官に扮した女官を立たせてやった。
茫然としている鈴音は、いつものように怒ったりせずされるがままだ。
―――雄しべのない花の釵を持つ者が現れたら、直ちに伝令で伝えよ。
龍宝は馬を急がせ、数日前には既に王都に戻っていた。
しかしそれを知らせず、敢えて禁軍苦戦の噂を流したのは、雨露を泳がせてその一味を一網打尽にするためだ。
細作に探らせていた老人は予想通り、龍宝が親征に出た瞬間から活発に活動を始めた。
馬を集め、人を集め、よくもまあそれだけの財産を蓄えていたほどだと呆れたほどだ。
膿を出し尽くしたと思っていた官吏の中からもそれに協力する者が出たのは、残念というよりいっそ小気味いいほどだった。
龍宝と共に親征に参加した兵士たちは既に、庶民に化けて入城を済ませている。
本来なら華々しく凱旋すべきところを、龍宝が城に入ったのは昨日の夜のことだ。
遂に雨露が動き出したと知らせを受け、紫微城で迎え撃とうと待ち構えていた。
そしてその待機中に、釵を持つ者が現れたという報告を受けたわけなのだ。
龍宝があらかじめその命令を周知させておいたのは、何も言わず王都に残してしまった化粧師が、有事の際に何をしでかすか全く想像がつかなかったから。
後宮で大人しくしていてくれればいいが、諍いに気付いて戦場に飛び込んでくるかもしれない。
自分の知らないところで迂闊に死なれでもしたら堪らないと、龍宝は保険のつもりで伝令を発したのだった。
そしてその当たってほしくない予想はやはり、的中した。
跳ねた泥がなくても薄ぼけた灰色の深衣は、宦官に化けて後宮を抜け出すためのものだろう。
とにかく生きてはいるようだと、黒曜は安堵の溜息をついた。
こんなつまらないことで彼女を失うつもりは無いのだ。ただ、今回はするべきことが多すぎて、鈴音のことが後回しになっていた。
龍宝ですら、数日前に王都に戻ったばかりなのだ。
何とか翠月に釵を託すことはできたが、事情を話すこともできず、彼女にしてやれたことといったらそれぐらいだった。
「どうしてここに……?」
ようやく我を取り戻したのか、鈴音の目に理性の光が宿る。
戦いを前に殺気立った心が、少しだけ癒されるのを感じた。
(彼女を―――そして国を守るために、この戦絶対に勝つ)
それは龍宝の胸に、大きな闘志が灯った瞬間だった。




