32 落ちた釵
尚紅から移動し難を逃れた春麗と子美だったが、彼女たちが目にしたのは信じられない光景だった。
「そんな、まさか……」
子美が震えながら口を押さえる。
春麗も見た目こそ変わらないが、動揺しているのか静かに息を飲んだ。
彼女達の目の前には、信じがたい光景が広がっている。
玄武門を抜けて、大量の兵士達が流れ込んできたのだ。
彼らが身に着けている鎧は禁軍の物ではなく、また騎乗したまま後宮に侵入するという乱暴さから敵だということは一目で見て取れた。
子美と春麗、それに春麗が老師と呼ぶ老人の三人は、小屋の中でじっと声を殺している。運の悪いことに、彼女達のいる小屋は玄武門からほど近い場所にあった。
後宮にいる者達の中で、この不審な軍隊が乗り込んできたと知っているのは今のところ三人だけだろう。
彼らは宮闈局の宦官達によって、苦も無く後宮に招き入れられていた。
常春と言われる女の園が、男たちの手で蹂躙されようとしている。
「そうか雨露め。玄武門から入城する手始めに、後宮でことを起こしたというわけか」
ぼそりと、老人が呟く。
そもそも紫微城は、背後からの攻撃を警戒して竜山という山を背に建っている。そして後になって竜山ごと皇帝陵とし、歴代の皇帝を祀る廟を置いた。
その皇帝にとって大切な山と門を守るのは、北衙に属する左右羽林軍。
「そうか、羽林軍の大部分は、陛下の親征に参加している……」
春麗が悔し気に言う。
榮の短くはない歴史の中でも、紫微城は背後からの攻撃を受けたことがない。
それはそこに竜山という天蓋の要塞を要しているからだが、攻め手が後宮の宦官を味方につけているとなれば話は変わってくる。
無理をして馬で山を登り、親征で数の減っている羽林軍を叩く方が、まともに正面突破するより圧倒的に楽に決まっているからだ。
ばらばらの鎧を身に着けた兵士たちが、ぞくぞくと後宮に乗り込んでくる。
もし彼らに見つかれば、妃や女官達は無事では済まないだろう。
「どうか無事、鈴音が後宮の異変を伝えてくれていますように」
子美が震えながら神に祈る。
美女三千、まるで仙界のようだと謳われる後宮は、絶体絶命の危機に瀕していた。
***
門をくぐった先にいたのは、大勢の軍隊。
「怪しいやつ、何をしている!」
すぐに見咎められた私は、その身柄を拘束されてしまった。
「宦官は敵方についたという情報もある。斥候かもしれん」
若い兵士に捕まり、引き出されたのは髭を蓄えた年配の男性達の前。
着用している鎧からして、多分この人たちの方が位が高いんだろう。頭には赤い立派なふさふさがついている。
(宦官が敵……ということはこの人達は雨露側の軍隊じゃないんだろうか?)
予想もしない事態に、とにかく困惑するしかない。
武装した彼らに対する恐怖はもちろんあるが、今は驚きと後宮をどうにかしなくてはという気持ちが勝っていて、殺されるかもしれないということにまで頭が回らなかった。
「あ、あの!」
何事か話し合う彼らに、思い切って話しかける。
「なんだ?」
「わ、私宦官違います! 尚紅の女官してる、ます。鈴音申します!」
慌てたので、また文法がおかしくなってしまった。
訝し気ないくつもの視線が突き刺さる。
「怪しいやつ……切り捨てるか?」
一人が刀を抜いたので、辺りに緊張した空気が漂う。
私はあまりに現実離れした出来事に、思わずその剣を凝視してしまった。
日本刀とは形が違うんだなとか、そんなどうでもいいことを考えた。
「待て。拷問して中の様子を吐かせるのはどうだ?」
「その前に本当に女かどうか調べるべきだろう」
「えっ」
突如襟首を掴まれ、服を脱がされそうになる。
女官だと証明するためには仕方のないことかもしれないが、大勢の男性の前で服を脱がされるのかと思うと先ほどより強い恐怖が襲ってきた。
そんなこと耐えられるはずがない。
反射的に抵抗すると、やはり宦官なのだろうと疑われる。
揉み合っている内に、懐に仕舞っていた紅花石蒜の釵が落ちる。
玳瑁は金属より脆いので、私は慌てた。繊細な細工が折れてしまっていないかと心配になる。慌てて拾い上げようとするが、両腕をそれぞれ戒められていたのでそれも叶わない。
「はな、して」
男達の固い長靴に踏まれれば、釵はひとたまりもないだろう。




