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31 明日のために



 雨はまだ降り続いている。

 私は黴臭い宦官の服に着替え、ぬかるむ道に飛び出した。

 春麗は自分が行くときかなかったが、何人も連れ立っているのは人目を引くし、それに例の抜け穴を知っているのはこの中では私だけだ。

 一年前、有事の際に使うようにと深潭に言われ、本当に使う羽目になった抜け穴。

 抜け穴のある小屋は宦官の宿舎だったが、そこにいる宦官が敵か味方かはまだ分からない。もし雨露側の宦官がいれば、私はすぐに捕まってしまうだろう。


 (こわい、けど。それでもやらなくちゃ)


 体が震える理由は寒さだけではなかった。

 それでもやり遂げなければならないという意思が、私の体を動かしていた。

 私たちのいた果樹園の小屋は、例の穴から少し離れた場所にある。

 外廷と内廷とを区切る壁沿いに歩いていくと、恐ろしいほど人気がなかった。

 雨とはいえ、普段なら仕事に励む女官達がいなければおかしい。

 捕まっているのか、或いは怖がって隠れているのか。

 華妃がどうなっているのか気になったが、様子を見に行くわけにはいかないので無事を祈った。

 ところどころ、壁を見張る宮闈局の宦官の目を避けつつ、なんとか例の小屋にたどり着く。

 用心して中に入ると、運のいいことにそこは無人だった。

 以前世話をしてくれた老人は位が上がっているはずだから、もしかしたら今は使われてないのかもしれなかった。土間にある竈は埃をかぶっているし、毎日使うはずの薪の備蓄も見当たらない。

 ほっと胸を撫でおろし、私は懐の中に隠した釵を握った。

 金属とは違いほんのりと温かいそれに触れると、勇気が湧くのを感じる。


 (黒曜だって遠くで頑張ってるんだから、私だって!)


 そう自分に言い聞かせて、例の抜け穴を探った。

 運のいいことに、抜け穴は塞がれず立てかけられた箕に隠されそこにあった。勿論向こう側からばれないように、穴とぴったり同じ色、形の木片で塞がれている。

 もしかしたら深潭か黒曜は、私がまたこの穴を使うことになると分かっていたのかもしれない。でなければ、皇太后を追い出してなおこの穴を放置しておく意味がないからだ。

 穴は狭いけれどなんとか通ることができた。

 雨は小降りになっている。

 以前と同じように、宦官を真似てひょこひょこ走った。

 不思議なことに、以前はそこら中にいた見張りの兵士が、一人もいない。

 おかげで難なく両儀殿にたどり着くことができたけれど、不安な思いを消すことができなかった。

 流石に両儀殿の入り口には見張りの兵士がいて、私はそれを見て安堵したぐらいだ。


 (でもどうしよう。見張りに捕まったら今度こそどうにもならないかもしれない)


 以前は偶然通りかかった余暉が助けてくれたが、今回もそうなるとは限らないのだ。

 今は一刻を争う時。一か八かに賭けてはいられない。

 どうしようかと物陰で考え込んでいると、私は自分がある大きな勘違いをしていることに気が付いた。


 (違う、行くべきなのは両儀殿じゃない!)


 一年前と同じ道を辿ってここまで来てしまったが、両儀殿は基本的に皇帝が政務を行う建物だ。

 しかし今の紫微城に皇帝はいない。

 だとすれば目指すべきなのは、深潭か余暉のいる場所だ。

 私はもしもの時のためにと、黒邸にいる間に叩き込まれた紫微城の見取り図を思い浮かべた。

 北を上にして、紫微城の広大な敷地は一番上から玄武門、甘露殿、両儀殿、太極殿、承天門、朱雀門という巨大な建物群によって中央を貫かれている。玄武門から両儀殿までが内廷、つま皇帝の私的な空間で、そこから先は外廷と呼ばれる官吏の仕事場だ。

 紫微城は城とはいっても、規則正しく区分けされた巨大な街のようなものだ。だから二人の職場(この言い方が正しいかは分からないけど)にたどり着くためには、門番のいる門をいくつも越えなければならない。

 私は頭を抱えたくなった。

 いっそ身一つで北衙に駆け込んでしまいたいけれど、そのほとんどは黒曜が遠征に連れて行ってしまったはずだ。

 南衙がいるのは紫微城の外、そこにたどり着くのは深潭と黒曜を探すよりも難しい。


 (落ち着いて、例えばあそこの兵士さんに、事情を話してみるとか?)


 私は両儀殿の門番を見上げ考えたが、すぐに首を横に振る羽目になった。

 あそこにいる兵士が、雨露の味方じゃないとは言い切れない。

 味方じゃなかったとしても、怪しいやつだと捕まえられてしまえば外に出てきた苦労も水の泡だ。


 (難しくても、やるしかない)


 私はそっと忍び足で、両儀殿から離れた。

 宰相である深潭がいるのは、太極殿と承天門の間にある中書省か門下省のどちらか。

 そして御史大夫である余暉がいるのは更にその先の、承天門にほど近い御史台のはずだ。

 距離的には深潭の方が近いけれど、彼が中書省か門下省のどちらにいるのか分からない。前回会うことができたのは朝議という特殊な時間帯だったからであって、今回もその幸運に縋ることはできないのだ。

 私は悩んだ末、三つの中で今いる場所から一番近い、中書省に向かうことにした。

 中書省にたとえ深潭がいなかったとしても、中書省の建物を抜けた先には御史台がある。

 より近く、どちらかに遭遇する確率の高そうな道を選んだのだ。

 何気ない顔をして、両儀殿から西へ歩き左側にある二つ目の門。達筆な文字で『粛章門』と書かれた小さな門をくぐった。

 初めて来た外廷だ。

 しかしそこで見た光景は、私の予想とは大きく異なるものだった。


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