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29 瑞英の後悔


 (天罰かしら?)


 手足を戒められ、侍女達と身を寄せ合いながら瑞英は思った。

 呼ばなければ来ないはずの宦官が、瑞英の房に押し入ってきたのは夜明け前のことだ。

 不寝晩(ふしんばん)をしていた侍女の悲鳴で目が覚めた。

 宦官といっても顔見知りでもない彼らは、突然やってきて瑞英とその侍女達を縛り上げ、乱暴に狭い房に押し込めた。

 説明は何もないが、異常事態なのは確かである。

 昨日、化粧師が渡されていた釵の意味はこれだったのかと、瑞英は溜息をつきたくなった。

 勿論、そんなことをすればただでさえ怯えている侍女達が更に委縮してしまう。

 瑞英は静かに息を吸って、それを静かに長く吐くに留めた。

 房の外では宦官達が見張っている。逃げ出すことは難しいだろう。

 皇帝の許可がなければ男性の入ることが許されないこの後宮において、すぐに助けが来るかどうかは怪しいところだと瑞英は思った。

 許可を出すべき皇帝は城を空けており、外廷の対応は後手後手に回るはずだ。それ以前に、外の人間がこの事態に気付くのはいつになるのだろうか。

 内部の人間が本気で隠そうと思えば、いくらでも隠し通せてしまうのが後宮の怖いところである。

 外の人間と接触できるのは宮門を司る宮闈局の許可あってのこと。

 もしその宦官達がこの暴動に加わっているとしたら、自分達が殺されても外の人間はしばらく気付けないだろう。

 あまりに突然で、あまりに理不尽だ。

 恐がって泣く侍女達を宥めながら、瑞英はやはりと思う。


 (天罰、かもしれない)


 昨日彼女は、大切な大切な主を裏切った。

 裏切ったのは後宮の主である皇帝ではない。彼女の主というのは華家の若君。翠月の方である。

 裏切った。とはいっても、別に乱暴な言葉を投げかけたり、絶縁宣言をしたわけではない。

 久しぶりの対面は、極めて和やかに行われた。

 一緒にお茶をんで、互いの体を気遣い。近況を報告するだけの退屈な接見。

 それでも瑞英にとっては、かけがえのない時間だった。

 二度と会ってはもらえないかもしれないと思った相手である。瑞英が彼を裏切って皇帝に全てを暴露してから、まだそれほどの時間が経ったわけではない。

 翠月は、ただただ優しかった。

 だからその翠月を更に裏切ってしまったことが、瑞英は悲しいのだ。

 何がそんなに彼女に罪悪感を抱かせるのか。

 それは翠月との面談の後、彼が妹と可愛がる化粧師と二人きりになってからのことだ。

 彼女が渡されたのは、一見なんてことはない玳瑁細工だった。

 皇帝からの贈り物というのには、あまりにも簡素なそれである。

 けれどそこにあしらわれていたのは、雄しべのない紅花石蒜。

 瑞英は一目で、その意味を察した。


 ―――宦官に気をつけろ。


 その意味が分からない様子の鈴音に啓示(ヒント)を与えたが、果たして彼女はその意味に気が付いたのか……。

 しかし瑞英が気を咎めているのは、その意味を教えたことでも、またはきちんと言葉にして伝えなかったことでもない。

 翠月が大切に思っているその娘に対して、彼に無断で皇后になるよう勧めたこと。

 その罪悪感が喉に小骨のように引っかかり、息苦しいようなすっきりとしない気持ちがじわじわと彼女を苦しめているのだ。


 (彼女の作る後宮が見たいと、思ったことは本当よ)


 瑞英は回想する。

 自分の申し出に、化粧師はひどく驚いた顔をしていた。

 そんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう。

 当然だ。鈴音の位は妃ですらない女官の一人にすぎない。後ろ盾となるべき実家もない。それをいきなり皇后などと、自分で言い出しておきながら随分と突飛な思い付きである。

 しかし瑞英にとって、あの申し出は決して酔狂ではなかった。

 化粧師の優しさは、彼女に関わったことのある者なら、その手に触れたことのある妃なら誰もが知るところだろう。

 彼女は不器用だが、ひたむきだ。

 そして身分に縛られたこの国の人々とは、全く違う論理を持って生活しているように見える。

 化粧の腕だけでなくその性格や考え方から、彼女は多くの人に愛されている。

 その最たる例がくだんの皇帝であり、そして翠月なのだ。

 だから彼女の作る後宮なら、女達はもっと幸せになれるのではないかと夢を見た。


 (けれど―――……)


 その考えの中に、自分の醜い願望が混じりこんではいないかと、瑞英は自問する。

 化粧師に後ろ盾になると申し出た時は、本当にそうなればいいと思って口にした。

 けれど彼女と別れた後になって、恐くなった。

 自分は翠月の愛しい人を、ただ彼から引き離したいだけなのではないか―――と。

 彼を裏切る時に、全てを諦めたはずだ。

 優しい言葉を掛けてもらうことも、その柔らかな眼差しに見つめられることも。

 けれど、久々の対面で失ったと思っていたそれらを与えられ、欲が出たのかもしれない。

 自分を疑うということは、きりがない。

 そのつもりは無かったといくら弁明したところで、それを証明することのできる者など誰一人いないからだ。


 (私はまた、貴方を裏切ったのだろうか?)


 複雑に入り組んだ飾り窓を見上げ、瑞英は声に出さず問いかける。

 思い描くのは年若い主。幼い頃からずっと憧れていた人。重い荷物を、いくつも背負って生きる人。

 その荷物を一緒に支えたいけれど、自分にその資格がないことは分かっている。

 そしてその可能性があった唯一の人すらも、自分は彼から引き離そうとしているのではないかと、恐ろしい考えがまとわりついて離れないのだ。

 しかしその問いに応える者はなく、ただ叩きつける雨音とか細い悲鳴が、窓の外には木霊していた。


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