28 私の勇気
「雨露はどうしてこんなことを?」
子美が不安そうに言った。
その問いに答えたのは老人だ。
「そりゃあお嬢さん方。後宮を包囲した首謀者は、きっと将軍のどなたかと密約を交わしておるのじゃろう。皇帝の居ない間に玉座を手に入った暁には、後宮の女を丸ごと与えようとか何とか言ってな」
そう言って、老人は軽快に笑った。
こちらとしては、ちっとも笑えるようなことではないが。
「それじゃあ、宝物やお金みたいに、後宮のお妃様達を贈るから協力しろっていうアル? 私達、モノ違うのに!」
動揺して、言葉がおかしくなった。
(ひどい、ひどいひどいひどい! どうして自分さえ自分のものじゃないように言われなくちゃならないの? お妃様達が、ううん女官の誰だって、そんな風に扱われていいはずがない!)
悔しかった。
自分ではなすすべもなく、雨露に利用されようとしていることが。
賈妃は相変わらず青ざめたまま、何も言わない。
ふと、彼女がこの騒ぎを知っていたのだろうかという疑問が生まれた。
そもそも、『賤露』と言い出したのは彼女だ。でも今の様子では、とてもこの騒ぎをあらかじめ知っていたとは思えない。
背に腹は代えられないと、彼女にその言葉の意味を尋ねることにした。
叱られるのは覚悟の上だ。
「賈昭儀。以前、マッサージの最中に『賤露』と仰いましたね? それは今回のことをあの時既に、知っていたからなんじゃないですか?」
問いかけると、賈妃は驚いたように目を見開いた。
「そんなわけないでしょう! 知っていたのなら、どうして私が真っ先に命を狙われねばならないのです!?」
捲し立てた賈妃の言葉に、冷静に答えたのは春麗だ。
「知っていたから、ということはありませんか? 犯人だと知られていたからこそ、雨露は真っ先にあなたを消そうとした」
ただでさえ髪のように白かった賈妃の顔色が、水色の絵の具でもたらしたように一層青みを増す。
「あ、あくまで可能性の話ですから、気を落とさないでください」
「賈昭儀。それよりもなぜ、あの時皇太后が雨露に縛られているなんていう話を? 何か知っていることがあるのなら、話していただけませんか? ここを逃げ出すのに、何かの役に立つかもしれません」
必死にお願いすると、やがて彼女は語り始めた。
「わらわの実家に、再三誘いがきていたのよ。皇太后を旗印に、大家を亡き者にしようという誘いが。当主である兄は退けたけれど、加担している貴族もいるという話だった。でもまさかこんなことになるなんて……」
衝撃を受けた。
雨露はただ黒曜を見返すために様々なことを企んだんじゃない。
蟄居した皇太后をもう一度引っ張り出して、国を乗っ取ろうとしていたのだ。
その大それた野望も信じられなかったし、黒曜や深潭が雨露と関わりのあった官吏を容赦なくリストラしたというのに、まだそんな話に乗る貴族がいるというのも衝撃だった。
「このままでは、本当に王位があの宦官のものになってしまう。陛下も親征に出られたまま戻らないし……」
子美の言葉に、思わず手のひらを握る。
(黒曜が留守の間に、竜原を雨露の好き勝手にさせちゃいけない。妃達を物みたいに扱わせない。そんなこと絶対させるもんか!)
雨の冷たさで震えていた体が、かっと熱くなった。
「老翁……」
「なんじゃね?」
私が呼ぶと、老人は訝しげに片眉をあげた。
「宦官の服はありますか?」
「古いものでよけりゃ……しかし、いくら寒いからといって、綺麗なお嬢さんが着たいようなもんじゃないと思うがね」
「いいんです。できれば一番汚いやつでおねがいします」
「ははっ、ちょっと待っておれよ」
そう言って、老人が小屋の奥へ消えていく。
ずっと黙り込んでいた春麗が、驚いた顔でこちらを見ていた。
「鈴音様、まさか……」
「―――このことを、外に知らせに行く」
はっきりと言い切ると、彼女はまるで非難するように眉を吊り上げる。
しかし私を怒鳴りつけたのは彼女ではなく、むしろ先ほどまで不安そうな顔をしていた子美の方だった。
「はあ? あんた自分が何言ってるか分かってんの!? 宮闈局が見張ってんだから、外になんて出られるはずがないじゃない!」
私の襟首を掴んだ、彼女の手が震えていた。
「子美の言う通りです。ここはしばらく様子を見て……」
一緒になってなだめようとしてくる二人に、私は首を横に振った。
「時間が経てば経つほど、状況は悪くなると思う。今は宮闈局だけでも、他の局だっていつ寝返るか分からない。もしかしたらもう寝返ってるのかもしれない。そうなったら今以上に外に出るのが難しくなるよ。やるなら、混乱している時の方がいい」
自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと呟いた。
初めは様子を見守っている人達も、雨露の方が分がよさそうだと感じれば、そちらに靡いてしまうだろう。
そうなる前に、なにか自分にできることをしたかった。
ここで怯えて待っているだけでは、いつか捕まえられてしまうのは目に見えている。
「……なにか、なにか方法があるっていうの?」
怖がっているというより、心配してくれているのだろう。
泣きそうになっている子美を安心させるように、無理矢理笑みを作った。
「大丈夫。これでも一度、後宮を脱走したことがあるんだから」
そう言った時、奥から老人が戻ってきた。
その手には、叩けばたっぷり埃の出そうな古ぼけた深衣が握られている。
「ほれ、これでどうかな?」
差し出された服を握り締め、しっかりと頷いた。
心臓は痛いほど高鳴っていたが、今更やめたいとは思わなかった。




