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26 皇太后の謀り


 男に先導されるままついていくと、その先にあったのは母の居室だった。

 居室といっても王都で暮らしていた房とは大違いだろう。それでも敷物が敷いてあり、寒さなどは他の房に比べて格段ましのはずである。


「失礼します」


 戸を開ける前、芙蓉を先導していた男はそう断りを入れた。

 思えばその瞬間から、芙蓉は嫌な予感を感じていたのだ。

 そして中に入ってみれば思った通り。そこには縛られているどころか、椅子に座り悠々と寛ぐ母の姿があった。


「これは一体どういうこと!?」


 芙蓉は壁になっていた男を突き飛ばし、先んじて母の房に入った。

 そして優雅に団扇を仰ぐ母に詰め寄り、彼女を睨みつける。

 しかし皇太后は意に介さず、芙蓉からふっと視線を逸らした。そして逸らした先で何かを見つけたのか、ほんの少しだけ目を見開く。


「まあなんてひどい……」


 白い指がそっと、縛られた痕の残る手首に触れた。


「部下が咄嗟に閉じ込めてしまったようだ。申し訳ない」


 芙蓉を連れてきた男が無骨に謝る。

 それだけで二人の力関係が知れたようで、芙蓉は叫びたくなった。


妈妈(マーマ)、これはどういうこと? この地で静かに余生を過ごすのではなかったのっ」


 芙蓉の目は怒りに燃えていた。

 当然だ。

 心を入れ替えたと思っていた母が、堂々と蟄居先に軍隊を引き入れて見せたのだから。

 恐らく彼らは皇帝に反撃するための母の駒であり、芙蓉は母が全く変わっていなかったのだと思い知らされた。

 皇太后はそのうっとりするような長い睫毛を伏せ、そして感情の読めない目で娘を見つめる。


「気に入らないのなら、あなたは出てゆきなさい」


 芙蓉はかっとなり、己の手首に触れていた母の手を振り払った。


「そうさせてもらうわ! あんたを信じようとしたアタシが馬鹿だった!」


 そう言うが早いか、芙蓉は房を後にした。

 淑女らしからぬ足音が、薄い壁の向こうに遠ざかっていく。



  ***



「―――よろしいのか?」


 成り行きを見守っていた男が、静かに言った。

 日が傾き出している。外から差し込む光は先ほどより朱色を帯びていた。


「……娘を見逃していただき、ありがとう存じます」


 かつて国ごと誑かした女が、静かに頭を下げる。

 この光景を見ていれば、芙蓉は己の思い込みがほんの少し間違っていたことに気付いただろう。

 しかし、これこそが皇太后の求めていた結果であった。

 雨露に協力を求められた彼女は、その申し出を断るわけにはいかなかった。

 断れば手段を選ばないあの宦官が、娘を人質にしてでも要求を飲ませようとすることは目に見えていたからだ。

 雨露の望みは、反乱軍に手を貸し禁軍を引き付けておくこと。

 さしもの老人も皇帝自ら親征を行うとは予想していなかったようだが、結果的にそれは彼にとって好都合だったに違いない。

 後は戦場で皇帝がお隠れになれば万々歳。そうでなくても、王都の軍勢が削がれている内に帝位を掠めとる腹だろう。

 相変わらず腹黒い男だと、皇太后は付き合いの古い老人を笑ってやりたくなった。


 (冥府に金は持って行けぬというに、いつまで生きるつもりじゃあの俗物が)


「まあ哀家も、そうかわらぬがな」


 そう言って、皇太后は一人静かに笑う。

 反乱軍の指導者である男は、ただ黙っているばかり。

 考えてみればこの男も、随分と変わり者だ。

 玄冥宮に追い詰められ、近く禁軍が攻めてくるというのに不気味なほどに落ち着き払っている。

 子供ほどに年の離れた男だ。共に死ぬ相手としては不足だが、仕方ない。

 自分は好き勝手に生きた。誰を不幸にしようとも構わなかった。好きに振る舞い好きに殺した。だからどんな死に方をしようとも自業自得だ。


 ―――しかし娘は違う。


 幼い頃に捨てた母を、哀れに思ってこんな田舎についてくるような奇特な娘だ。

 死なせてはならない。そして悲しんでほしくもない。

 だから切り捨てた。

 これで恨まれることになろうとも、あの娘が悲しまないでくれるのならそれでいいと思う。


「あなたは、俺が思っていた方と違うようだ」


 男がぽつりと言う。


「なにも違うことはない。ただの死にぞこないじゃ。肉なり焼くなり好きにすればよい」


「心残りはないと?」


「最期に“まっさーじ”というやつを、もう一度受けたかったということぐらいかしら?」


「なんだそれは」


 男は訝しげな顔をする。

 それはそうだろう。反乱軍の大将が、後宮での流行など知るはずもない。

 怪訝な顔をしていた男だが、彼は何の前触れもなくするりと刀を抜いた。


「あんたが本当に悪名高き皇太后などと、聞かされていなければ信じられぬところだ。いつかこの手で殺してやろうと思っていたが、目の前にいるとなるとその気にもなれん」


 そう言いながらも、男からはわずかに殺気がこぼれ出ている。

 彼は元々、鎮戌を任されていた校尉だった。

 校尉とは本来二百人の団を指揮する位に過ぎないが、彼は徴兵からの支持が厚く特に功があったとして校尉ながらに虎柵県の鎮戌の長に任命されていた。

 なぜそれに伴い位が上がらなかったのかといえば、それは彼が府兵からの叩き上げだったからだ。府兵とは武挙に受かっていない兵士を指す。

 武挙の科目がほぼ実技からなるとはいえ、高位の武官になるためには最低限読み書きができねばならなかった。

 そのため男は校尉のまま鎮戌の長となり、今では雨露に言われるがまま反乱軍の親分などに収まっているわけである。


「哀家を今殺してもなにもならぬぞ。猿山の大将が切り札を一枚無くすだけのこと。好きにおし」


 女が興味なさげに言うと、男はしばしの沈黙ののち刀を鞘に戻した。


「早晩には決着がつく。死ぬ前に暇があれば、その首掻き切ってやるから待っていろ」


 そう言って、男は静かに房を出て行った。

 皇太后は黙って、窓の外を見る。

 住民が逃げ出した虎柵県は静まり返り、明かりのない夜はもうすぐそこまで迫っていた。


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