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25 騙し合い


 例の妓女とは皇太后の娘。

 北梨にこの人ありと謳われた芙蓉その人である。

 龍宝は黒曜と名を偽って、彼女の元に通っていたことがある。男女の関係ではなかったが、物怖じしない気持ちのいい性格の美女だった。

 なにより鈴音へ宛てる手紙を受け取った時に、化粧師になにかしたらただでは置かないとしっかり脅された身の上だ。

 芙蓉は黒曜がただの官吏ではないと、薄々気づいていたはずだ。でなければ臘日の宴の折、龍宝の顔を見てもちらりとも驚かなかった説明がつかない。

 女でなければ軍で働かないかと勧誘したいほどの女傑である。

 細作には絶えず玄冥宮を見張らせていたが、彼女に関する報せは未だにない。

 死んだとも、反乱軍に捕らえられているとも、現段階で確かめるすべはなかった。


「王都では、そろそろ動きがあった頃でしょうか?」


「あのせっかちな狒々爺(ひひじじ)のこと、そう我慢はしておれんだろうな」


 不意の仁貴の問いかけに、龍宝はつとめて冷静に返す。

 その時だった。天幕の外で言い争う声が聞こえ、その方角から光が差す。


「陛下! いつまで検討を重ねるおつもりですか!」


 急戦派の将兵達だ。


「無礼だぞ! 控えよ!」


 仁貴が鬼神のごとき顔に豹変する。

 天幕に押し入ってきた彼らは、その顔にいささか尻込みをしたようだった。


「よい」


 肩を怒らせる仁貴を、龍宝が制する。

 彼は先ほどまでの心配事を全て頭から追い出し、ただ目の前の戦場に集中することにした。


「明朝、総攻撃をかける。諸兵に伝え準備させよ。決着をつけるぞ!」


「おっ……おおおぉ!」


 仁貴を上回る龍宝の叱咤に、やってきた数人の士官は腕を振り上げ雄たけびを上げた。


「陛下……」


「よいのだ。もうこれ以上待っているわけにもいなく」


 戦を前に待機を続け、宴会には飽き飽きしていた面々だ。

 こうなってしまえばもう、止めることはできない。

 まるで坂道を下る玉のように、勢いをつけて走り抜けるより他ないのである。



  ***



 後ろ手に縛られた芙蓉は、口に巻かれた布に感謝しなければならなかった。

 なぜなら、彼女が転がされているのは何年使っていないのかという埃っぽい倉庫だったからだ。


 (でも、やっぱり感謝するようなことじゃないわね)


 芙蓉は回想する。

 それは突然の出来事だった。

 虎柵県の中でも外れに位置する玄冥宮に、突然武装した男達が我が物顔でやってきたのだ。

 玄迷宮の見張りをしていた兵士達は、それに一切抵抗しなかった。

 芙蓉は咄嗟に、母の命を心配した。

 母こそは先代の皇帝の寵愛を受けた女性。

 そしてつい先年まで、この国を牛耳っていた悪女である。

 芙蓉自身、まさかその悪女が実の母だとは思ってもみなかった。

 知ったのは可愛がっていた化粧師の頼みで、後宮を訪れた時である。どこかで見た覚えがあると思った顔は、そっくり己が鏡を見た時のそれだった。

 そして紫微城を追われた母に、芙蓉は付き従うという選択をした。築き上げた地位や、気心の知れた仲間を捨てて。

 彼女自身、まさか自分がこんな選択をするとは思っていなかった。

 母には捨てられたものだと思っていたし、父に先立たれた彼女は文字通り身一つで厳しい乱世を生き抜いてきたからだ。

 しかし突如として目の前に現れた母親に、突如として情が湧いた。

 年齢的にも妓女など潮時だと感じていた芙蓉は、そうして母と一緒に王都を離れ、この地へと来たのだ。

 しかしその母には、致命的なまでに生活力というものがなかった。

 宮とは名ばかりの粗末な建物で、かしずかれていた女が二人生き抜くのは、なかなかに大変なことだ。

 しかし芙蓉は、虎柵県に来たことを後悔したことなど一度もない。

 朝起きて夜眠るという、至極当たり前の生活。

 母は存外大人しく、後宮で好き勝手振る舞っていたとは思えないほどだ。

 埃に塗れ泥にまみれ、耗子(ねずみ)を追う生活が楽しいとまで思い始めていた。

 それだけに今回の出来事は、芙蓉にとって寝耳に水の出来事だった。


 (ったく。アタシを誰だと思ってるんだろうね? 花酔楼の芙蓉とは私のことサ。これしきのことで諦めると思ったら大間違いだよ!)


 芙蓉は心の中でいくつもの悪態を吐きながら、虎視眈々と反撃の時を窺っていた。

 そもそも、現役を退いたとはいえ傾国と呼ばれた自分を、男達が放っておくはずがない。盗賊や軍隊にとって女は戦利品の一つ。

 時が経てば、自分はこの乱暴者達の首領の前に引きずり出されることになるだろう。

 そうすれば母がどうなっているのかも分かるはず―――そう、芙蓉は考えていた。

 閉じ込められた房でどれだけ時間が経ったのか。

 荒々しい怒鳴り声や乱暴な革の(くつ)音がしなくなり、音からでは外の様子が全くうかがえなくなった。

 すると、何やら声が近づいてくる。

 怒鳴り声のようだ。

 声は食糧庫のすぐ前まで来て、そしてやんだ。

 芙蓉が息を殺していると、しばらくして藁で編んだ粗末な戸が開かれる。

 そこに立っていたのは、眉の太い、勇ましい顔の男だった。

 鎧を身に着け剣を腰に付けた男が、埃っぽい倉庫の中に入ってくる。

 そして彼は予想外のことに、そっと腰を屈めて転がされていた芙蓉の口布を解いた。


「っ、あんた達一体何者だい!」


 威勢よく問いかけた芙蓉に、男は一瞬呆気にとられた顔をした。


「いやはや、これは随分と肝の据わったご婦人だ」


 男はそう言って苦笑いを零すと、芙蓉の縄を解いた。

 男の手を借り、彼女はよろよろと立ち上がる。

 膝が震えていたが、それを悟られるのは癪なのでなんでもないふりをした。


「母は? 母はどこにいるの?」


 できるだけ冷静に尋ねようとするが、言葉尻が鋭くなってしまうのは仕方ない。

 芙蓉が睨みつけると、男はそれを気にするでもなく、小さく頷く。


「お会いになられますか?」


 (妙だ)


 手首を縛って閉じ込めていた割に、男の口調は丁寧だ。

 一体どういうつもりなのかと思いながらも、芙蓉は頷く。


「母のいるところへ連れて行って」


 男に先導されるまま、芙蓉は食糧庫の外に出た。

 久しぶりに見た光が存外眩しい。戸のすぐ外には数人の兵士がいて、さっきの怒鳴り声はこの兵士達を男が叱責した声だと気が付いた。


「アンタ一体、何者?」


 芙蓉の問いに、男は曖昧にほほ笑むだけで何も語りはしなかった。



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