21 遠く離れて君を想う
「それにしても、不気味ね。大家が王都を空けている今が、雨露にとっては好機に違いないのに、どうして何もしてこないのかしら? 国のどこかで反乱が起きているなんて嘘みたい。こんなに王都は平和なのに」
怯えるような子美の声音に、回想に浸っていた私ははっとした。
(子美の言う通りだ。黒曜は今禁軍を連れて、虎柵県にいる。このチャンスに雨露が黙っているとは思えない……っ)
ぶるりと身震いがした。
臘日の宴で殺されかけた恐怖は、今でも心の片隅に引っかかって消えることがない。
「大家がお戻りになるまでは、いつなんどきも気を引き締めておかなければ……」
春麗の少し硬い声音が、より一層恐怖を煽った。
釵から導き出された答えは、悪い未来を予感させる。
子美はこの花を恋の花だと言ったけれど、やっぱり縁起の悪い花じゃないかという気持ちになった。
私に忠告するためとはいえ、こんな恐い意味のある釵がプレゼントというのは少し切ない。
不安で震えそうになる手で、ぎゅっと釵を握り締める。
(こんな時、私が皇后だったら―――)
華妃に言われた言葉が、不意に脳裏に蘇った。
皇后の位は正一品より上で、純粋な身分だけで言えば深潭や余暉よりも上になる。それで政治に関わろうとは思わないが、もし皇后がいれば少なくとも後宮に不穏な噂が出回ることはなかっただろう。
「鈴音様?」
俯いて考えに耽っていた私の肩に、柔らかく春麗の手が添えられた。
「あまり深くお考えにならないでください」
心配そうな春麗の声音に、なぜか申し訳なくなった。
いつもこうして気を使わせてしまう。
私だって尚紅の女官として、二人のことを守りたいと思っているのに。
そんな私に向かって、春麗は労りのこもった笑みを見せた。
「それに、この釵にはもう一つ、意味があるのですよ」
「意味?」
「ええ。先ほど子美も言っていた通り、紅花石蒜は相思華の花」
「相思華……」
耳慣れない言葉だ。
詩作の授業に出てきたかもしれないが、ちょっとピンとこなかった。
私が分かっていないと悟ったのか、春麗は殊更丁寧に説明の言葉を紡ぐ。
「葉は花を想う。花は葉を想う。紅花石蒜には、離れていてもずっと想っているという意味があるのです」
聞かされたのは、思っていた以上に艶っぽい話だった。
じわじわと私の体温が上がる。口の中が乾いて上手く言葉が出ない。
「紅花石蒜というのは不思議な花で、葉が出ている間は花が、花が出ている間は葉が出てきません。それがいつしか、互いに想い合いながらも会うことのできない男女に譬えるようになりました。一部の地域では、遠く離れた場所にいる恋人に気持ちの証として、この花を贈る風習が残っているのです」
「そうよ! だから縁起が悪いなんてとんでもない。赤はめでたい華燭の色だし、こんなのただの熱烈な告白よ」
華燭とは結婚のことだ。榮では結婚の時、花嫁も花婿も赤い装束を身に纏う。
子美の追い打ちに、私はそのまま床に突っ伏した。
おそらく真っ赤に染まっているだろう顔を、二人に見られるのは恥ずかしすぎる。
「馬鹿馬鹿しい。これだけ寵愛されてるのに、どうして女官なんかやってるんだか」
子美が呆れたようにそう言った。
反論しようとしたけれど、まだ口は再起不能のままだ。
それ以前に恥ずかしすぎて、二人の顔を見返す勇気なんてない。
「ふふ、あなたにしてはいいことを言いますね。その通りです。鈴音様はもっと大家の寵愛を、理解する努力をすべきです!」
珍しく春麗が熱くなっている。
どうやら彼女は、私が黒曜の寵愛を受ければいいと思っているらしい。
妃ですらない一介の女官に、随分と無茶なことを言ってくれる。
「だっ、だってそんな、寵愛なんて!」
そんな明け透けな言葉で言われると、恥ずかしくて堪らなかった。
華妃の許に黒曜が通ってると聞いた時は辛くて堪らなかったのに、自分がその立場になれと言われれば腰が引けてしまう。
身勝手だというのは重々承知で、私はうんうんと唸った。
「まあまあ。ちょっと私達外に出てくるから、しばらく頭冷やしてなさいよね」
私に気を使ったのか、子美が房室の外に出ていく気配がする。
「ちょ、ちょっと! どうしてわたくしまで連れて行くのですか」
「いいから来なさいって。私が誘ってあげてるんだから!」
そう言って、子美が強引に春麗を連れ出したのが分かった。
恥ずかしさに頭がどうにかなりそうだったので、子美の気遣いは正直ありがたい。
自分以外誰もいなくなった尚紅で、私は改めて手の中の釵を見つめた。
先ほどの話を聞いた後では、初めて見た時と印象が違って見える。
金属とは違う柔らかな質感を手の中で確かめながら、私は虎柵県にいる黒曜の無事を祈った。
―――葉は花を想う。花は葉を想う。
遠く離れていても、黒曜を想う気持ちは冷めるどころか強くなる一方だ。
(いつの間に、こんなに好きになってたんだろう?)
しんと静まり返った尚紅で、不思議に思う。
初めて会った時は恐いと思ったし、花酔楼から連れ出された時はなんて強引なんだろうと恨みもした。
でもいつでも黒曜は、不器用な優しさを私に向けてくれていた。
花酔楼で下働きをしていた、その時から、ずっと。
考えれば考えるほど目が冴えてしまって、その夜はとても寝付けそうになかった。
私は二人が戻ってくるまでまんじりともせず、ただ黙って小さな釵を見つめていた。




