20 紅花石蒜
「それがその釵ですか?」
皇后の話は抜きに、華妃に言われた言葉を春麗と子美に伝えると、二人は私と一緒になって首を傾げた。
「見たことがない花ね。一体なんの花かしら?」
実家が化粧問屋の子美が言うのだ。やはりこの花の意匠は珍しいものらしい。
「少し、お借りしても?」
春麗の申し出に、私は余暉から渡された釵を差し出す。
彼女はいつもの無表情のまま、釵を光に透かしたり様々な角度から眺めたりしていた。私と子美は、その様子を固唾を呑んで見守る。
「なにか分かる? 春麗」
春麗は釵をそっと私の手に戻すと、その花芯をそっと指さして言った。
「珍しい花に思えるのは、華充儀のおっしゃるように雄しべがないからです。この花はおそらく、紅花石蒜ですね」
「紅花石蒜?」
日本では曼殊沙華、もしくは彼岸花と呼ばれるその花のイメージは、決していいものではない。
私は背筋がぞっとなった。
お盆に咲く赤い花。墓地などに生えて、どうしてもあの世を連想させる。
「雄しべがない紅花石蒜に、一体どんな意味があるの? まさか黒曜に危険が……」
思わず春麗に掴みかかりそうになる。
余暉はこの釵を、『あの方から』だと、そういう言い方をした。
私に釵を送ってくれる相手なんて、余暉以外では黒曜ぐらいだ。
(名前を出さなかったということは、口にできないほど大変な何かがあったってこと? たとえば怪我をしたとか、まさか命が危ないとか!)
私の必死の形相に、春麗がたじろいだのが分かった。
「ちょ、どうしたの落ち着きなさいって」
子美に宥められ、私は自分で思っている以上に動揺しているのだと気付く。
―――どうして私が慌てているのか分からない。
二人の顔は如実にそう語っていた。
「だって彼岸花って、縁起悪いっておばあちゃんが……なにか悪い知らせなの!? だとしたら私どうしたら……」
必死に冷静になろうとするのに、なかなかできずにいると、子美は更に怪訝な顔になった。
「何言ってんのよ。紅花石蒜って言ったら、赤いんだからめでたい花じゃない」
「え……?」
「そうですよ鈴音様。落ち着いてください」
二人に諭され、私はよろよろとその場に腰を下ろした。
「悪い意味じゃ、ないの?」
見上げた先の子美が、はっと目を瞬かせた。
「あー、そうかあんたって他国の生まれなんだっけ。あんたの故郷じゃどうか知らないけど、榮では紅花石蒜は縁起の良い花よ。東の異国では相思華と言って、むしろこれは切ない恋の花なんだから」
「恋の、花?」
お彼岸に咲く彼岸花と『恋』という甘酸っぱい単語が、どうしても結びつかない。
子美は合わせた両手を頬に当てて乙女ポーズになっているが、一人で先走らないで私にもその意味を説明してほしいと思った。
すると話の成り行きを見守っていた春麗が、こほんと咳をする。
彼女はしゃがみ込んで、私の手に握られていた釵をそっと示した。
「よろしいですか? この釵には、通常ある筈の六本の雄しべが一本もありません。あるのは雌しべだけ。これがどういう意味か分かりますか?」
尋ねられても、答えられるはずがない。未だに舌が震えていて、まともに喋れないぐらいなのだから。
「持ち歩いてる時に、折れちゃったとか?」
子美の発言に、春麗は呆れたように首を振った。
「いいえ。この釵に欠けたような跡はありません。それに御史大夫ともあろうお方が、そのような不良品を鈴音様にお渡しになるようなことはないでしょう」
「じゃあ、どういう意味だっていうの?」
もったいぶるなとでも言いたげに、子美が身を乗り出す。
私は固唾を呑んで、春麗の言葉を待った。
「他の宝飾品と違い、釵は女性にとって時に身を守る道具になります。有事の際に、この鋭い切っ先を用いて対抗する。おそらくはそれが転じて、身の回りに注意しろという意味なのではないかと」
「は? それと紅花石蒜と、なんの関係があるの?」
納得がいかないのか、子美はまるで喧嘩を売っているような口ぶりだ。
言い合いになったらどうしようとハラハラしたが、春麗は意に介さなかった。
「この花が紅花石蒜である意味は、きっと別のところにあるのでしょう。重要なのは、雄しべがないということ」
「雄しべが、ないこと……?」
「ええ。後宮の中にあって、雄しべのように大切なものが欠けている。つまり―――」
「……宦官」
春麗の意図するところが、ぼんやりと私にも分かり始めていた。
「宦官に気をつけろって……『賤露』に気をつけろって意味かしら」
「ええ。失脚したはずの雨露が、後宮の宦官にも手を回している可能性があると言いたいのでしょう。だから―――雄しべのない者には気をつけろと。面会には宦官の見張りがいたはずです。それで御史大夫様は用心して、わざわざ釵を使ってお伝えになったのだと思います」
私は手の中にある、琥珀色の釵に視線を落とした。
確かに春麗の言う通り、内廷と外廷を隔てる門には全て宮闈局の目が光っている。
雨露だけでなく、宦官すべてを警戒しろ―――余暉はそう私に伝えたかったのかもしれない。
いや、この釵を余暉に託したのは黒曜だというのなら、彼は雨露が怪しいと知っていて、自ら虎柵県に赴いたのだろうか?
考えても、分からないことだらけだ。
ただ余暉や黒曜にも雨露の危険が伝わっているのだと分かって、私は少しほっとした。
知っていて警戒してくれれば、足元を掬われることはきっとない。
「大家の不在に、一体何を企んでいるのかしら? もう皇太后もいないのに」
子美の言葉に、春麗はその表情を引き締めた。
「とにかく、用心するに越したことはありません。今後鈴音様は、できるだけ私か子美と一緒に行動していただきます。お一人での行動は、できるだけお控えになってください」
迫力のある春麗に詰め寄られ、こくこくと頷く。
こんな時だ。私も一人では心細いので、二人のどちらかと一緒にいてもらえると安心できる。
反乱の起きている北と比べて、王都は今のところ大きな諍いもなく穏やかだ。
けれどそれは嵐の前触れのようで、静かならば静かなだけ不穏なように思えた。
「私は、反乱にあの方が関わっているとは、どうしても思えないのですけれど。なにせ―――他人の思い通りになるのが、何よりもお嫌いな方でしたから」
遠い目をした春麗が、誰のことを考えているかなんて一目瞭然で。
私は最後に会った時の、その人のことを思い出した。
臘日の宴以降、彼女は口を噤むばかりで抵抗らしい抵抗は何一つしなかった。
それを不気味がる者もいたし、ついに年貢の納め時だと嘲る者もいた。
でも高い矜持を持つ彼女は、そんな者達にすら何も言い返さなかった。
ただ黙って、移送先が決まるのを待っていた。
移送前、所望されて一度だけ彼女に会った。
髪を洗ってほしいと頼まれたのだ。
私は何を言われるだろうかとどきどきしていたけれど、彼女は何事もなかったように涼しい顔で、いつものように無防備に体を横たえていた。
私が間諜として皇太后を探っていたこと。黒曜が送り込んだ敵だったということ。
あの時彼女は全てを察していたはずだ。
しかし恨み言一つ言わないで、憤る様子もなかった。
ただ淡々として、なのに私が房を去る刹那、一言ありがとうと言った。
その顔は穏やかで、私は皇太后が初めて出会った頃とは別人なんじゃないかと思ったぐらいだ。
だから、あんなに苦手な人だったはずなのに、私は今でも彼女を完全に嫌いになれずにいる。
大好きな芙蓉と親子だからだろうか?
考えてみても、答えは出ない。




