12 心配の種
尚紅に戻り、一息。
手についた油はその頃にはすっかり肌に馴染んでいて、もう洗い流す必要はなくなっていた。
とにかく三人で卓子に向かい合うと、奇妙な沈黙が落ちる。
冷静な春麗を除いて、子美の―――おそらく私の顔にも、引きつった表情が浮かんでいるはずだ。
「ねえ、さっきのあれって……」
口火を切ったのは子美だった。
しかし、すぐさま春麗はそれを制する。
「子美。あなたは房室の外へ」
きつい言い方だったが、私はそれを止めることができなかった。
できることなら、子美には危ないことに関わってほしくない。そんな思いがあったからだ。
はらはらとしながら、二人の様子を見守る。
私は何があっても皇帝―――黒曜の味方でいるつもりだし、それを春麗も知っていて色々と助けてくれている。
でも子美は、そんなことは知らないのだ。
今でも黒曜のことは、私を見張るよう命じてきた怪しい貴族だとしか思っていない。だから彼女には、皇帝の味方をする義理もなければ、私達に気を使う必要もない。
賈妃は恐らく、何かを知っている。そして私は、それを知りたいと思っている。春麗にはこれからそれを話すつもりだし、頼めば協力してくれるはずだ。
でも子美が、故意にではなくともそれを外に漏らそうものなら、どうなるか分からない。
黒曜が王都にいない今、後宮のことに黒深潭や余暉がどこまで口出しできるかもわからない現状では、いつも以上の警戒が必要だ。
城下で親切にしてくれた彼女を疑いたくはないけれど、この後宮ではどれだけ用心を重ねても、用心のしすぎということはないのだ。
「子美。聞かない方が、あなたのためかもしれない。」
その瞬間、子美はとても傷ついた顔をした。
私はすぐに自分の失言を悟ったけれど、それを訂正することはできなかった。
「……なによっ、今更何言ってるのよ!」
子美が叫ぶ。
「しっかり巻き込んでおいて、今更仲間外れってわけ? 随分なことしてくれるじゃない!」
「子美、ごめんなさいそんなつもりじゃ」
「じゃあどんなつもりだったっていうの!? どうせ一度後宮を追い出された女なんて信用がならないって、あんたも思ってたってことよね」
「違う! あなたを疑っているとかじゃなくて―――」
必死にフォローしようとしたけれど、彼女は聞く耳を持たなかった。
「お望みのとおり出てってやるわよ! なによなによっ……馬鹿にするのもいい加減にして。別にあんたじゃなくたって、私を必要としてくれてる人は他にいるんだから!」
そう叫んで、子美は尚紅を出て行ってしまった。
慌てて追いかけようとしたが、春麗にそれを押し留められる。
「あの者のことは私がよいようにしますから、鈴音様は何もなさいませんよう」
「でも、私が子美にあんなこと言ったから……」
「いえ、いい機会かもしれません。私たちのためにも、あの者のためにも」
春麗の言葉に、返す言葉が見つからなかった。
今尚紅を出た方が子美のためと言われたら、何も言えなくなってしまう。
少なくとも他の部署なら、命を狙われたり変に敵視されるようなことだってない。
子美と仲がいいとは言い難い春麗に任せるのは不安だったけれど、私は彼女の言葉に従うことにした。
無理に連れ戻したとしても、私一人では結局彼女を守れないからだ。
「ただし、彼女に危害を加えるようなことは絶対しないでください。春麗、約束するくれますか?」
私より少し背の高い春麗を見上げると、彼女は無表情のままで、しっかりと頷いたのだった。
その後、私達は二人だけで賈妃の『賤露』という言葉の意味について話し合った。
春麗の考えも私と同じで、賈妃が雨露の新しい動きについて、何か知っているんじゃないかということだった。
しかし侍女の警戒ぶりから見ても、直接尋ねて教えてもらえるわけがない。
どうしようかということになったけれど、とりあえずしばらくはマッサージに通いながら、様子を見ようということで話は落ち着いた。
内侍監という宦官最高の位を追われ、出仕もせず城下の私邸に引きこもっているのだ。一年以上動きがないので忘れかけていたが、あの欲深い老人がそう簡単に引き下がる筈がなかった。
私は何とも言いようのない不気味さを感じながら、子美のことと雨露のことで頭がパンクしそうになっていた。




