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10 突然の涙



「突然何をっ」


「突然ではありませぬぞ。僭越ながら臣に真っ先にお知らせいただけるとのことでしたのに、とんと音沙汰がございませんので」


 仁貴が言っているのは、以前遠乗りに出かけた際の約束だ。

 その“会いたい女”を皇后として擁立すればいいと勧める仁貴に、龍宝は用心してことを進めたいからと明言を避けたのだった。

 しかし約束を交わしてから、もう半年以上の時間が過ぎている。

 話の雲行きが怪しいと感じたのか、雪原公主が不愉快そうにしっぽを振った。

 普段は気性の大人しい扱いやすい馬だが、賢すぎるのと主人のことが好きすぎるのは欠点と言えば欠点かもしれない。

 そして今の龍宝に、それを気遣える余裕はなかった。

 たっぷりの逡巡を置いて、龍宝が口を開く。


「……笑わないか?」


「臣が陛下をお笑いになると? まさか」


 自信満々に言い切る仁貴に、龍宝は思い切って真実を打ち明けることにした。


「妃にはならないと、言われてしまったのだ……」


 馬上でがっくりと肩を落とす龍宝。笑わないと自信満々に請け負った仁貴も、これには呆気にとられた。


「なんと、お断りされたので? まさか!」


 仁貴は小さな目をまん丸と見開いている。

 皇帝が振られるなど、それほどまでにありえない事態だからだ。

 美女三千人(現在は皇帝の女嫌いのせいで随分とその数を減らしているが)と謳われる後宮を持つ皇帝が、一人の女に袖にされて落ち込んでいるなどと、誰が想像できるだろう。

 仁貴はあまりのことに驚きを隠せない。


「榮の道理など通じぬ娘だ。そういうこともある」


「なんと、異国の娘さんで?」


 仁貴の驚きぶりに、逆に龍宝は冷静さを取り戻すことができた。

 そもそも、妃にはならないと言われているだけで嫌いだと言われたわけじゃない。振られたわけではないのだ。厳密には。


「超えるべき堰は多かろうが、俺は絶対諦めぬぞ」


 力強く断言する皇帝に、仁貴は満面の笑みを浮かべた。


「その粋ですぞ陛下! 臣も精一杯助力いたしますので、まずは反乱を鎮めそのお方に男を見せましょうぞ!」


 そう言って仁貴が腕を振り上げると、いつの間にか聞き耳を立てていた周囲の兵士達が、呼応するように雄たけびを上げて腕を振り上げた。

 三万の兵に、どんどんその雄叫びが広がっていく。

 どうやら決起を促す雄叫びだと勘違いされたらしい。

 龍宝はその様子に呆気にとられながら、とりあえず士気が上がったようで何よりと一人肩を落としたのだった。



  ***



 確かに、最近後宮が騒がしいなとは思っていた。

 あとは黒曜がちっともやってこなくなったとも。

 でも彼が忙しいのはいつものことだし、尚紅の仕事にかかりきりであまり気にしていなかった。

 だからまさか、外でそんな大ごとが起こっているなんて、思いもしなかったのだ。


「虎柵県の反乱の鎮撫に、陛下御自ら親征なさるなんて素敵! なかなかできることではないわ!」


 胸を押さえ子美が放った言葉を、私は初め上手く理解できなかった。


「親征……ってなに?」


 尋ねると、信じられないという顔で返される。


「あんた親征も知らないの? 陛下自ら軍を率いて遠征に行かれることよ!」


 怒鳴り返され、思わず言葉を失う。

 春麗が、子美を押しのけるように私に近づいてきた。


「落ち着いてください鈴音様。親征とはいっても地方で起きた小さな反乱を鎮めるだけです。陛下の威光を国中に見せつけるのが目的で、大きな武力衝突にはならないでしょう」


 冷静な彼女の説明も、どこか遠くに聞こえた。


 (武力衝突? 黒曜が? だって黒曜が一番偉いんでしょう? なのにどうして、自分で危ない場所に飛び出して行ったりするの? それに、虎柵県ってまさか)


「虎柵県って確か……」


「皇太后が蟄居なさっておられる地です」


 私にだけ囁くように、春麗が説明を加えた。

 どおりで、聞いたことのある地名なわけだ。

 虎柵県は皇太后の送られた場所。それは同時に、芙蓉姐さんがその地にいることを示していた。

 私は彼女が心配でたまらなくなった。けれど同時に、黒曜のことを考えようとすると頭が真っ白になってしまう。

 ふと自分の指先を見ると、小さく震えていた。

 そしてその指が、静かに滲んでいく。


「鈴音……」


「え?」


 自分が泣いていることに気が付いたのは、子美の声に戸惑いが混じっていたからだ。

 どうして泣いているのか分からない。

 辛いのか悲しいのか。心はただただ混乱していて、涙の源となったもやもやとした感情に、名前を付けることはできそうになかった。

 春麗が差し出してくれた手布を借りて、大人しく涙を拭う。

 ふんわりと、優しい花の香りがした。


 (化粧とかしてなくて、よかった)


 まだ朝も早い時間なので、幸運にも化粧はしていなかった。

 もし化粧をしていたら、白粉は流れるわコンシーラーは滲むわでひどい有様になっていたことだろう。

 そのタイミングだけは、子美に感謝してもいいかもしれない。

 もしどなたかお妃様の房室で今の話を聞いたら、私は仕事ができなくなっていたことだろう。

 手布に顔をうずめてすすり泣く私の肩に、そっと温かい手が置かれた。


「大丈夫です鈴音様。陛下はきっと無事お戻りになられます。勿論芙蓉様も。だからあまり、お嘆きになりませぬよう」


 春麗の平坦な言葉から、けれどその奥に隠された優しさや、彼女が私の涙に実は少し焦っているのが伝わってきた。

 母のようでも友達のようでもないが、私はその添えられた手のお陰で少し落ち着くことができた。


「まさか鈴音、あんた軍に恋人でもいるの?」


 尚紅に戻って間もない子美は、私と黒曜の関係を知らない。

 それでも彼女は、突然泣き出した私を心配してくれていた。


 (関係と言っても、少し気安く話ができるくらいのことだけどね。だって遠征に行くことも、まさか他人から聞かされるなんて……)


 妃になるのを断っておいて、その考えが身勝手なことは分かっていた。

 二人で話している時には忘れそうになるけれど、黒曜はこの国の皇帝なのだ。

 一方私は、後宮で働いているだけの一介の化粧師。

 こんな大変な時に、反乱が起きたことも、それを鎮圧するために黒曜自ら遠征にでたことも、教えてはもらえるはずがない。

 もし黒曜に何かあったら、先日のつまらないやり取りが最後の思い出になってしまう。

 そんなのは辛すぎる。

 突然、家族や親しい人達から引き離された私だから余計に。

 胸が痛くてたまらない。

 私はなかなか止まらない涙を拭いながら、自分の無力さを噛みしめるより他なかった。



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