ダヴィネスの形を成すもの達(2)
黒のマントに身を包み、カレンは{フェランテ・ドレス}を後にした。
護衛のネイサンは、現れたカレンを一目見るなり、呆気にとられて固まった。
「レディ、まさか…」
「そのまさかよ、ネイサン。{Red Moon}へ行きましょう」
ネイサンは絶望の顔をしたが、カレンはこの顔は数年前に見たことがある。
飲み比べの時だ。
しかしあの頃とは何もかも違う。
領主夫人として、この責任は私が取らなければ。
カレンは決意も新たに{Red Moon}へと急いだ。
・
「あら、ほんとに来たんだ」
{Red Moon}の裏口から店内に入ると、ローザはカレンを見て驚いた。
「…しかもさぁ、あんた上手く化けたね…本気でウチで客とれるよ」
感心しながらなにやらご機嫌だ。
ローザは昼間とは異なり、夜目に映える濃い化粧を施し、より露出の高いドレスを着ている。
ま、ゆっくりしてって、と店内からは見えないテーブルにカレンとネイサンを案内した。
カレンは座り、ネイサンは後ろに立っている。
これでも飲んで、とグラスワインを持ってきた。
「そちらの騎士さん…顔は見覚えあるけど、お酒は飲まないの?」
騎士は城塞街の見廻りもするので、顔は覚えられやすい。
「いや、自分は遠慮する」
ネイサンはピシャリと断る。
黙っているが、かなり警戒しているのがわかる。
巻き込んでごめんなさい…カレンは心の中でネイサンに謝った。
カレンはワインを一口飲むと、店内を見回す。
不思議な作りだ。
店全体は薄暗い。騒がしさはなく落ち着いた雰囲気で、男女の談笑がさざ波のようだ。
中央に少し明るいスペースがあり、それを囲うように椅子やテーブルが並ぶ。更にそれを囲んだ壁に沿って、2~3人座れるであろう個室がいくつか並んでいる。個室には黒の薄いカーテンが取り付けてあり、中は見えない。
と、ひとつの個室から店員を呼ぶ男性の手が見えた。
男の手は見るからに高級な上着から伸びている。
カレンはははーん、と納得した。
個室は顔を知られたくないお忍びのお客...恐らく貴族のためのものだ。
エラの客もその部類だったのだろうか。
と、先程の男性の個室へ、ひとりの娼婦が入る。
「ご指名だよ」
ローザがいつの間にか隣に座り、ワインを飲んでいる。
どうやらカレンに説明してくれるらしい。
「指名が付けば、それもお忍びの貴族の指名は相場の2倍。個室に呼ばれるようになればかなり稼げるよ」
個室は裏の廊下に繋がっており、そこから二人で階上の部屋へ上がるとのこと。
ふと気づくと、中央の明るいスペースへひとりの娼婦が立ち、ゆっくりと自転する。
白い肌が艶かしく光る。
回りのテーブルに座る男が手を上げた。続いて隣のテーブルの男も手を上げる。
ご用聞きの店員が、二つのテーブルを行き来すると、娼婦は最初のテーブルの男性の元へと行き、そのまま体をぴったりとくっつけて2階へと上がって行った。
「ま、この場合、より高い値をはった方が買えるわけ。あの子はまだ駆け出しだけどね…男は白い肌が好きだからさ」
技はおいおいだね、言いながらローザはワインをあおった。
カレンは目の前で行われる生々しいやり取りに言葉もない。
やはり聞くのと見るのではまったく違う。
「…驚いた?」
ローザはニヤリと笑い、カレンに問う。
「あ、いえ…ええ。ごめんなさい、初めてなもので…」
カレンは少し戸惑う。
ローザはカレンの顔を見て盛大に笑う。
「あっはっは、そりゃそうだよ、でもここではこれが日常さ。毎晩のことだよ。女はひとときの夢を売る。男は欲望をぶつける…その代償として金を払う。そこにあるのは欲と体だけだ」
乾いたもんだけどね…、とローザは続けた。
「あたしもこの商売は長い。いろんなことがあるよ」
ローザは顔を店内へ向けたまま、誰ともなしに話した。
と、ひとりのご用聞きがローザの元へ来ると、何か耳打ちした。
「おや、来られたか」
と言うと、立ち上がった。
「ちょっと失礼するよ」
言い残すとテーブルを離れた。
どうやら新しいお客が来たらしい。
その間にも、気の早いお客は娼婦を伴って2階へと上がる。
「繁盛してるのね…」
カレンはポツリと呟く。
「ここは老舗ですし…商売としては真っ当な方ですから」
急にネイサンが発言して、カレンはネイサンの方へ首を向けた。
「…ネイサンは、娼館には賛成?反対?」
カレンは素朴な疑問を聞いてみた。
「俺は…どちらとも言えないですね。確かに騎士や兵士も世話になってるヤツも居ますし、元娼婦と所帯を持ったヤツも知ってます。だが、無かったら無かったで、それはそれでも問題は無いとも思えますし」
やはりネイサンは真面目だ。
「そうね…」
女性の貞操がお金でやり取りされるなど、普通の頭では考えられない。しかし娼館ははるか昔から存在する。街があれば娼館はある。
ローザはさっき「夢を売る」と言った。男性はお金を払ってまでその夢を買う…
「よくわからないけど、男女がこの世にいる限り、娼館はなくなることはないわね…」
カレンはポツリと呟いた。
「ねぇ、奥様」
ローザが再び現れた。
「悪いんだけど、ちょっと場繋ぎお願いできないかしら…?」
え…?
「オーナー、いい加減にしろよ。この方を誰だと思ってる」
後ろのネイサンが諌める。
「あらやだ怖い。大丈夫よ、危ない目には合わせないから。それにその見た目じゃ領主夫人だと絶対にバレないわ。…今夜は引きが早くてさ。この分じゃ早々に店仕舞いだよ」
カレンはふうん、と思う。確かに見ていると、次から次へとカップルが誕生して階上へと消える。
「…あの明かりの中を歩くのですか?」
「「!」」
ローザとネイサンの顔が、バッと同時にカレンに向けられた。
「レディ!いけません」
「やってくれる?」
二人は対照的な表情だ。
「…ないとは思うけど、もし買い手がついたら…それは困ります」
カレンは念のため確かめる。
「あり得るけど、べらぼうに高く設定するから…そこは大丈夫だよ」
ローザは任せとき、とオーナーの顔を見せた。
信じていいのだろうか…。カレンは迷う。
そんなカレンの顔を見て、ローザは最後の一手を打った。
「もしやってくれたら…まだ誰にも話してないこと…」
と、カレンの耳へ口を寄せてきた。
「エラのことをあんたに話すよ」
「!」
カレンはローザの顔を見た。
「約束してくださいますか?」
カレンの言葉に、ローザは首肯した。
カレンはすっくと立ち上がり、黒いマントを脱いだ。
目にも鮮やかな“娼婦風”のカレンが現れる。
「!! レディ、ダメです。どうかお立場をお考えください!」
ネイサンは大慌てだ。
「ネイサン、これは勝負よ…ミス ローザを信じましょう」
カレンはキリリと言い切る。
「レディ…」
ネイサンは今にも泣きそうな顔だ。
「ふふ、ほんといい女っぷりだ!まじで雇いたいね」
ローザは上機嫌だ。
「黙れ。もしレディに何かあればタダでは済まないぞ」
ネイサンはローザを睨む。結局はカレンに従わざるを得ないのだ。
「行ってきます、ネイサン」
ネイサンの心配そうな顔を尻目に、カレンはゆっくりとフロアへ進み出た。
・
「いらっしゃい、領主様」
「…どういうつもりだ、ローザ」
時は少し前。
{Red Moon}の裏口に、ジェラルド、フリード、アイザックの三人が立っていた。
怒気を放つジェラルドを前にしても、ローザはどこ吹く風で、まったく動じない。
「やだやだ、まぁ怒らないで楽しんでいってくださいよ」
三人を迎え入れ、個室のひとつに案内した。
昼間カレンと別れたローザは、詰所の騎士を通じて直ぐにダヴィネス城のジェラルドへ連絡を取った。
それは、もしかするとカレンが{Red Moon}に来るかもしれない、という内容だ。
ローザは、実に如才ない商売人だった。
娼館は昔から犯罪の温床になりやすい。なのでそれを防ぐためにも、怪しいと感じた客はいち早く騎士の詰所へ申し出る。城塞街の商工会にも属し、騎士の見廻りも強化させ、互いの利益を持ちつ持たれつの状態にしているのだ。
街の顔役達とも懇意にし、当然ジェラルドとも顔見知りだった。
今回のことも、いち早くジェラルドに知らせた。
領主夫人に関わることを隠しだてするのは命取りだとよくわかってのことだった。
「まったく、最悪ですね…」
フリードが渋い顔だ。
「姫様らしいっちゃらしいぜ」
アイザックは出された酒のボトルから、三人分のグラスへ酒を注いだ。どこか楽しんでいる。
「恐らく交換条件でローザが煽ったんだろう。でなければ…」
カレンが危険な真似をするとは思えない。
しかしローザは実に抜け目のない商売人だ。腹の内はわからない。
と、フロアからおぉ!という男達の一段高い声が上がる。
フロアの明るい照明に映し出された一人の娼婦を見て、三人は絶句した。
そこには、深紅の妖しく輝くサテンのドレスに身を包んだ…領主夫人、カレンその人が立っていた。
見たこともない濃い化粧…誘うような赤く濡れた唇。高く結い上げられたダークブラウンの髪は小さく整った顔立ちを強調している。
長い睫毛に縁取られたライトブルーの瞳は幾分不安気だが、強い輝きを放つ。
細く長い首…そして強調された胸元は、嫌でもその裸身を想像させる。
と、カレンは黒いレースの手袋をはめた指先でドレスを摘まむと、ゆっくりと美しい礼を取った。
館に居る男性客全員の喉が「ゴクリ」と鳴ったのを、ローザは聞き逃さなかった。
ガタンッ!と音を立てて、ジェラルドが勢いよく立ち上がる。
フリードとアイザックは、咄嗟に両脇からジェラルドの腕を押さえた。
今騒ぎを起こす訳にはいかない。
「ッ!ジェラルド!難しいでしょうが抑えて!!」
フリードが声を低めて諭す。
「姫様の努力を無駄にすんなよ!」
アイザックも必死だ。
しかし、ジェラルドの放つ怒気は凄まじい。
押さえ込む二人も必死だ。
と、隣の個室から老人の皺だらけの手が出される。
カレンを買いたいという輩だ。
それを見たジェラルドは、ハッとして自らもカーテンの隙間から手を上げた。
「「ジェラルド?!」」
驚いたのは、フリードとアイザックだ。
まさか妻を買うというのか?しかしこの状況だとそれもやむを得ず…なのか?
他にも…ほぼ全員の客が手を上げているが、そのべらぼうに高い料金を聞くと早々に諦めた。
カレンは…薄暗い店内、自分だけにあたる光…何をすべきかもわからず、いたたまれず体に染み付いた貴族令嬢の礼を取った。
たった一人…この身ひとつで生きる、ということとはこういうことか…と、カレンは思いを巡らせる。
なんて心許ないんだろう…
ふと奥の個室に目をこらすと、隣り合わせた個室から手が上がっている。
ひとりは…皺だらけの老人の手、そしてもうひとつは…
カレンは暗闇に慣れてきた目を一層こらす。
あの手には見覚えがある。…と、ハッとする。
あの手、あの指輪は…まさか…まさかジェラルド??
とたんにカレンは頭に血が上り、いたたまれずに奥へと引っ込んだ。
そこには、口許に微笑みをたたえたローザが立っていた。
「あんた、すんごい人気だね。やっぱ違うわー!ってか、奥の二人の客が諦めないよ。目ん玉飛び出る値段だってのに…」
すると、ご用聞きがローザの元へ来た。
「…あらそう…ふーん、どうしたもんかねぇ」
チラリとカレンを見る。
「何か問題が?」
「いや…まぁひとりはいいとして…あんた、アーヴィングの爺さんと知り合い?」
? アーヴィング…
「アーヴィング伯爵ですか?」
「そう」
「はい。懇意にさせていただいておりますが…」
「来てるの。常連よ…つっても膝に乗せるだけだけどね。何がなんでもあんたを買いたいってさ。全財産投げ打ってでも」
「……え?」
「あんまり面倒なことになってもあれだし…事情があったって言うしかないかな」
惜しいことしたけど…と、ブツブツ言っている。
「ローザ」
控えていたネイサンが怖い。
「わかってるってば。よくしてくれたよ、奥様…でも最後にちょっと付き合って」
ローザはカレンの手を掴むと、否応なしにアーヴィング伯爵の元へと連れて行った。
「おお、レディ…よもやこんな所であなたにお会いできるとは…」
アーヴィング伯爵は現れたカレンを見て満面の笑みだ。
「…このような格好で…失礼いたします。アーヴィング伯爵」
「いやいや、実に魅力的だ。これは…何かの余興ですかな?それにしては念がいっているような」
と、カレンを頭から爪先まで眺める。
「あの、これには訳がありまして…」
カレンは頬を赤らめる。
「そうですの、アーヴィング様、まさかご領主様の奥様を売り物には…」
ローザが仲に入る。
アーヴィング伯爵はフム、と考える。
「この年寄りに一夜の夢は望めぬと?」
眼光が鋭い。
「アーヴィング様、他の子では?とっておきもございましてよ?」
珍しくローザが少し焦る。
「お話にならんぞ?ローザ。わしはこのレディだから望むのであって…」
困った…
カレンは困惑した。事情を話したところで、伯爵は諦めてくれそうにない。
「伯爵、お戯れはそこまでで」
低く鋭い声に振り向くと…ジェラルド…が立っていた。
見るからに激怒しており、瞳の色が濃い。
後ろにはフリードとアイザックが気まずそうに控えている。
「ジェリーか…」
まったくいい所で現れよって、と伯爵は小さく舌打ちしたのをカレンは聞き逃さなかった。
「面白い趣向ではあるが…お前、いったいレディに何をさせておるんだ」
アーヴィング伯はジェラルドを睨む。
ジェラルドはカレンを見るが、その目は底冷えがする程に冷たく、無表情だ。
カレンは肝が冷える。
早くこの場を去りたい…!
「…申し訳ございません」
ジェラルドは殊勝に頭を下げた。
カレンも慌てて頭を下げる。
ジェラルドは続ける。
「…ある事件を調べております。この事態は…私に責が。私がカレンを許しました」
アーヴィング伯爵はフーッと息を吐いた。
「大方そんなところだろうと思ってはいたが…しかし、そんなことはどうでもいい。あなたを一晩私のものにできるチャンスではあったがな…」
さも惜しそうにカレンを見る。
「…お戯れを…伯爵」
カレンは穴があったら入りたいが、ジェラルドの怒気があまりに冷たい。冷たいのに冷や汗が出る。
「まあいい。あなたのその姿を拝めただけでも十分寿命は伸びたわ。最後にレディ、小さな頼みを聞いてはくれぬか?」
カレンはジェラルドの顔を見るが、ジェラルドは憮然とした顔で眉根を寄せている。
「…はい」
何を言われるかはわからないが、伯爵にも迷惑を掛けてしまった。
「この年寄りにキスを」
カレンは静かに歩みよると、アーヴィング伯爵の頬に口付けた。いつも挨拶で交わす親愛のキスだ。
これで許してもらえるとは思えないが、カレンの精一杯だった。
「…ありがとう、レディ」
伯爵の瞳は慈愛に満ちている。
と、ジェラルドがカレンの腕を取り、その胸へと抱き寄せる。
「ローザ、空いてる部屋はどこだっ」 そのまま有無を言わせず個室から出る。
「えーっと、確か203!」
ローザの声を聞いたが早いか、ジェラルドはカレンの腕を取ったまま、大急ぎで2階へと掛け上がった。
【♥203♥】
ハートマークの札が付いた部屋の扉を勢いよく開け、カレンを天蓋付きのベッドへ押し倒す。
「ジ、ジェラルド?」
すぐ近くから見下ろされたジェラルドの瞳は、さっきまでとは打って代わり、熱情を帯びて野性味を放ち、ユラユラと大きく波打っている。
「…カレン、話はあとだ。あなたのこんな姿を見せられて、まともでいられる訳がない…!」
息つく間もなく口を塞がれ、性急にドレスに手を掛けられた。
・
「で? 合格ですか、わが領主夫人は?」
フリードが聞く。
{Red Moon}の広くない事務所に、フリード、アイザック、ネイサンと、ローザがいた。
「…んまぁ、ここまでやってくれるとはね…」
ローザは酒のグラスを傾ける。
「それで?何か話してもらえんのかよ? 例の事件について」
アイザックの問いにローザは眉をしかめた。
「あんたらには話さないよ。これは女同士の約束だからさ」
そっけなく断る。
フリードとアイザックは「やれやれ」と顔を見合わせた。
と、ジェラルドが部屋へ入ってきた。
「あら領主様、楽しんでいただけたかしら? 何かお持ちします?」
ローザは愛想よく尋ねる。
ジェラルドはシャツの前がはだけている。
何があったかは…その顔を見れば一目瞭然だった。
「いや…フリード」
フリードに何か耳打ちする。
「わかりました。ザック、ネイサン引き上げよう」
「あらお帰り?」
「ああ、部屋の請求書は城へ回してくれ」
フリードが告げる。
「…さすがにそこまではしませんよ、今回はあたしも悪ノリが過ぎたんだ」
ローザの言葉にフリードは眉を上げたが、「好きにしろ」と言うと三人は去った。
「おいで、カレン」
三人が去ったのを確認すると、ジェラルドに手を引かれてカレンがおずおずと現れた。
その姿を見て、ローザは笑う。
「おやおや、いつまで経ってもお熱いってのは、噂だけじゃなかったんだねぇ」
カレンの髪は乱れ、マントでは隠しきれない露な胸元には、ジェラルドが付けた赤い印が至るところに散らばっている。
ただ、顔もとは艶々と輝き、頬は紅潮し、恥ずかしそうだ。
「まぁ座って。お茶でも淹れるよ」
ローザに促されるまま、雑然とした事務所のソファにカレンとジェラルドは並んで腰掛けた。
カレンは温かなお茶をひとくち飲んだ。
隣のジェラルドの温もりがありがたい。先程までの激しさの余韻がまだ体に残るが、カレンは努めて平静さを保とうとした。
ローザに聞くべきことがある。
「お話…してくれますよね…?」
ローザはカレンの顔を見ると、ふうっと息を吐き、次いでローテーブルの上に、コトリ、と何かを置いた。
「拝見しても?」
「ああ」
カレンはそれを手に取る。
カフリンクス…?
「ソレ、あの子…エラが、もし自分に何かあったら、その持ち主に殺されたと思ってくれて間違いないって、ここへ来た時に渡されたんだよ」
ジェラルドも隣から見る。
「紋章が入っている」
カレンは頷き、その紋章を目を寄せてじっと見る。
カフリンクスなので、省略された紋章だ。
恐らく鷲と…星…
「シリウス…」
「「え?」」
ジェラルドとローザが同時だ。
「…ブライス子爵、アーサー・ブライス…」
カレンは、その名前を口にすると同時に、ゾッとして血の気が引いた。
「…カレン、大丈夫か?」
顔色を見たジェラルドが、カレンの尋常ならざる様子に慌てる。
「…え、ええ…」
「とっても大丈夫って感じじゃないよ、奥様。さ、これを飲んで」
ローザは気付けのウイスキーをグラスに注ぐとジェラルドに手渡した。
「カレン、これを少し飲んで」
ジェラルドはカレンの肩を抱くと、口許へグラスを寄せる。
カレンはジェラルドの手の上からグラスを持つと、コクリとひとくち飲み下した。
そして、隣のジェラルドの温かく固い胸に手を回して、ピタリと体を寄せる。
顔色はよくない。
「…カレン?」
カレンはジェラルドの問い掛けには答えず、額をジェラルドの胸に付け、目を閉じていた。
カレンが人前でこの様に体を寄せてくることは珍しい。余程の不安と見て、ジェラルドは少し様子を見ることにした。
「…ローザ、済まないが二人にしてもらえないか」
「わかった」
ローザは頷くと立ち上がり、ブランケットをカレンの膝にそっと掛けた。
「何か用があれば遠慮なく呼んどくれ。うちのご用聞きは気が利くし腕も立つから、安心して」
と言うと部屋を去った。
パチパチと暖炉の火のはぜる音がする。
カレンとジェラルドは、互いの体に腕を回したまま、しばらく黙っていた。
ジェラルドの手が、優しくカレンの頭を撫でる。
カレンはその感触に、ゆっくりと癒され、心が落ち着くのを感じた。
「…ジェラルド」
「…ん?」
「お話します」
「…カレン、無理はしないで」
カレンはジェラルドを見上げた。
どちらともなく、ふわりと口づけを交わす。
「…お話したいの」
顔色は幾分良くなった。
ジェラルドは両手でしっかりとカレンを抱き直した。
「もう何年も前のことです…」
カレンがポツリポツリと話した内容は驚くべきものだった。
姉ヘレナの友人のリズ・マクミラン伯爵令嬢は、控えめで優しいお姉さまだった。
侯爵家へ遊びに来る時は、必ずカレンへのお土産も持参し、とても可愛いがってもらった。
そんな彼女が病床に着いたと聞いた。
どうやら心を病んでしまったと。
彼女には幼い頃から家同士の決められた婚約者がいた。
「…アーサー・ブライス?」
ジェラルドの言葉に、カレンはコクリと頷く。
「アーサーはブライス伯爵家の一人息子で、自らは子爵格を有していました。甘やかされ、何不自由のない人も羨む高位貴族…でも、とんでもない放蕩者だったのです」
未亡人との浮き名を流すのはまだいいとして(良くはないが)賭場にも出入りし娼館に通い、貴族の責任のすべては放棄した状態だった。
大人しいマクミラン伯爵令嬢は、名ばかりの婚約者として扱われた挙げ句、心を病んでしまったのだ。
伯爵令嬢は社交からも距離を置いた。
お見舞いに行った姉のヘレナは、変わり果てた友人の姿に嘆き、すべてはブライス子爵のせいだと悪し様に言っていたのを、カレンはよく覚えている。
そしてついに、マクミラン伯爵令嬢は自ら命を絶ってしまったのだ。
「……なんということだ」
ジェラルドは驚きとともに、静かに呟いた。
カレンは深いため息を吐いた。
「…本当に…悲しい出来事でした…ご両親の悲しみはいかほどかと…姉も当時は塞ぎこんでいました」
原因は婚約者の身勝手さにあるのは明白にも関わらず、ブライス伯爵家の反応は冷たかったと聞いている。そればかりか、アーサー・ブライスの放蕩振りは更に勢いを増した。
悪い噂のついて回る放蕩者に、カレンの父や兄も注視しており、ブライス伯爵家の家紋の入った馬車が近寄ることすら嫌い、姉やカレンにも決して近づくなと注意した。
ブライス伯爵家の家紋は鷲に二つ星、そして子爵の家紋は鷲にひとつ星…シリウス。
-シリウスには決して近づくな-
年頃の娘を持つ貴族の親達の間では、そんな二つ名でまかり通っていた。
やがて、ブライス伯爵家の力は急激に弱まり、アーサー・ブライスは社交界から閉め出され、カレンがデビューした頃には話の端にさえ上ることはなくなっていた。
しかし、ダヴィネスにシリウスは現れた。
コンコンとノックの音と共に、ローザがトレイを持って現れた。
「奥様、少しは落ち着いた?なんかお腹に入れた方がいいかと思ってさ」
ローザはローテーブルにサンドイッチとスープ、水差しやグラスを手早く次々と並べる。
どれも美味しそうだ。
「すまないな、ローザ」
「いや、行き掛かり上とは言え、奥様には無理させちまったしさ、」
言いながら、暖炉の火の様子を見ている。
「ミス ローザ、このカフリンクスの持ち主とミス エラのこと、もう少しお伺いしてもいいですか?」
カレンの問い掛けに、ローザは振り向くと、「ああ」と真面目な顔で答え、カレンとジェラルドの向かいに座った。
「エラには、子どもがいたんだよ」
「え?!」
「父親はカフリンクスの持ち主だ…なんとか子爵だっけ? 一度だけここに来た」
エラを指名して…娼婦は指名されたら断ることはできない。
その夜、何があったかはわからないが、翌朝エラの顔には殴られた痕があったという。
「それからだよ、エラが勝手に外で客を取り出したのは」
ローザは飲みかけのグラスの酒を一口飲む。
ローザは何度かは見逃したが、目をつむる訳にはいかず、問いただした。
「このカフリンクスは、その時に渡されたんだ。自分に何かあったらってね」
アーサー・ブライスにはごまかしたが、子どもの存在がバレるのは時間の問題と察したらしく、地方に預けてある子どものために、金を貯めてこの商売から足を洗って少しでも早く迎えに行きたかったとのことで、以降、ローザは見て見ぬふりをしていたとのことだった。
「ミス エラは妊娠がバレないように王都から去ったのですか?」
「たぶんね。でもアーサー・ブライスって、かなりヤバイ奴らしくって…ほら、まぁ奥様は知らないだろうけど…縛ったり、首絞めたり、ナイフとか」
「ローザ」
ジェラルドが鋭く制する。
はいはい、わかってますよ、とローザは肩を竦める。
「とにかく、身の危険を感じて田舎で出産してここへ流れて来たのさ…でも結局は…あんなことになって」
「見張られていたってことか…」
ジェラルドが思案する。
「たぶんね、本人は手を汚さないだろ、お貴族様だし。でもまぁ、よっぽど気に入られてたんだろね…男の執着って手に負えないとこあるからさ」
と、ローザはまた一口酒を飲んだ。
「さ、これがあたしの知ってることすべてだよ」
ローザはカレンを見る。
「…ありがとうございます。ミス ローザ」
カレンはまだ沈痛な面持ちだ。
「ローザ、悪いが明日、今話したことを捜査官に話してくれ」
ジェラルドが申し出る。
ローザはやっぱそうだよねーと言いながらも
「わかったよ」
と半ば諦めの顔で了承した。
「ミス ローザ」
カレンが呼び掛ける。
「なに?」
「ミス エラのお子さんは…」
「心配ないよ、エラから頼まれてたし。田舎でのんびり育てられてるみたいだから」
カレンは幾分ホッとする。
そんなカレンの様子を見て、ローザは不思議そうな顔をする。
「奥様ってさぁ、ほんと変わってるよねぇ。貴族なのに…ねぇ、領主様?」
「カレンは特別だ。よくわかっただろう」
「…そうだね、あたしはラッキーだったかもね」
と、赤い唇の端をニッと上げた。
「それにしても見てて飽きないわ。領主夫人が嫌になったらウチにおいでよ」
「…ローザ!」
ジェラルドが本気だ。
「おおこわ! …スープ、お手製だよ。冷めないうちにね。じゃおやすみ」
と、逃げるように部屋を去った。
夜明けまでの数時間、カレンとジェラルドは{Red Moon}の狭い事務所で身を寄せ合って仮眠を取った。
・
早朝、まだ眠るカレンを腕に、ジェラルドは馬を駆ってダヴィネス城へ帰った。
カレンは、見事に風邪を引いた。
「ックシュンッ!」
くしゃみと鼻水、発熱で、赤い顔でベッドに横たわる。
「…自業自得だぞ、カレン」
「…はい、わかってます」
ジェラルドはベッドの側で腕組みをして座る。
カレンを見て、苦々しい表情だ。
反対側にはニコルが、カレンに手拭きを渡したり額の布を換えたりと忙しい。
「まぁ、あの露出のドレスですから…仕方がないかと存じます」
帰城したカレンの姿を見て、ニコルは開いた口が塞がらなかった。
見たこともないような派手派手しい娼婦のドレスを着た主…おまけになんとドロワーズを履いていなかったのだ。
「…娼婦って、寒さに強くないと勤まりませんね…」
カレンは幾分ボーッとした頭で呟く。
「カレン!」「奥様!」
ジェラルドとニコルは同時だ。
「…ごめんなさい。反省しています」
カレンは目を閉じると、ふぅ、と苦し気に息を吐いた。
ジェラルドは立ち上がり、カレンの顔の真上に顔を近づけた。
「とにかく、今は風邪を治すことが最優先だ」
と、そのままカレンの熱い額にキスを落とした。
・
アーサー・ブライスに指名手配がかかったと聞いたのは、カレンが起き上がれるようになった頃だった。
「ずいぶん早い対応ですね…もっと時間がかかると思ってました」
カレンはベッドに座りリンゴを食べている。ジェラルドはアンジェリーナを膝に抱いて側の椅子に座る。
「やはりカフリンクスが決め手になった。余罪もあるだろうし…王都の捜査官も動かざるを得ないだろう」
「そうですね…」
カレンは俯いて手元の、皿に並んだリンゴを見る。
「カレン?」
ジェラルドはカレンの表情に敏感だ。
「あの…ブライス伯爵家がミス エラのお子さんを探さないかと…」
アーサー・ブライスは後取りのひとり息子だ。犯罪者となれば、伯爵位は王家への預けとなる。
「ああ、それは心配ない。念のためダヴィネスから後見人を着けたんだ。いずれは出生の秘密を知ることになるが…選択の自由はある」
「そうですか…わかりました。ありがとうございます、ジェラルド」
カレンは微笑む。
「やっとあなたの笑顔が見れた」
ジェラルドも微笑む。
「リンゴ!」
「え?」「ん?」
両親の和んだ雰囲気を察したのか、今まで大人しく黙っていたアンジェリーナが喋った。
「アンジェリーナ、おリンゴ食べる?」
カレンはジェラルドの膝に乗るアンジェリーナに聞く。
「ハイ!」
「…さっきランチを食べたばかりだぞ?」
ジェラルドは眉を上げる。
「フルーツは別なのよね?はい、どうぞ」
リンゴを一切れアンジェリーナに手渡すと、小さな手で受け取り、シャリシャリと美味しそうに食べる。
その様子をカレンとジェラルドは微笑ましく眺める。
「あなたと好みが似ているな」
「ふふ、リンゴを嫌いな子どもはいないです」
「確かに…しかし、それにしては旨そうに食べている」
カレンはまた、ふふふ、と笑う。
「…私、今回のことは本当にいろいろ考えさせられました」
「そうだな…それは私も同感だ。ダヴィネスはこの数年でかなり変化した。いつも良い方へ変化するとは限らないが…それも時代の流れだ。恐らく王都もそれは同じだろう」
「いい経験になりました…ミス ローザともお知り合いになれたし」
とたんにジェラルドが恐い顔をする。
「カレン、二度は無いぞ。あなたの娼婦姿には…気が狂いそうだった」
「はい…わかっています…」
カレンはしゅんとする。
「でも、ジェラルド様…あの時は、いつもとちょっと違って…」
と、チラリと上目遣いでジェラルドを見る。
「ッ!カレン!」
ジェラルドは気まずそうに視線を反らした。
「あの赤いドレス、またお召しになられますか?」
ニコルがさらりと言いながら、笑いをこらえている。
「「ニコル!」」
「いえ!申し訳ありません!」
ニコルは大慌てで口をつむぐ。
「…しょうふ…?」
大人達の話を聞いていたアンジェリーナがふいに口にした。
「「!」」
カレンとジェラルドは目を合わせる。
「アンジェリーナ、忘れなさい」
ジェラルドが膝上の娘に言い含める。
カレンとニコルはたまらず笑い出した。
「母しゃま、おはなみじゅ…」
アンジェリーナがカレンの顔を指差した。
「あ、えっ?やだ」
カレンの風邪はまだ完全には治っていない。
ニコルがはい、と手拭きを渡してくれるが…
「あ、あの、ジェラルド様、ちょっと向こうを向いて、耳を塞いでいただけませんか?」
「? なぜ?」
「だって、ジェラルド様の前で鼻は…かめません」
カレンは頬を染めている。
居並ぶ男達の前で、娼婦の姿で堂々と淑女の礼を取ったカレンとはまるで別人の様子に、ジェラルドは笑う。
ジェラルドは膝のアンジェリーナをいったん下ろし、カレンの手から手拭きを取ると、カレンの鼻にあてた。
「さ、かんで」
「え?!」
ジェラルドは悠然と微笑んだ。
「母しゃま、しゅんって」
アンジェリーナはカレンのベッドに両手で頬杖をつき、いつも自分がそうしてもらうように、と母を促す。
夫と娘の同じ深緑の瞳に見守られ…もとい急かせれ、カレンは観念した。
・
一夜限りのカレンの娼婦姿…どことなく領主夫人に似た…は、{Red Moon}では伝説になったと言う。
その後その姿を見たものは、誰もいない。




