《ミニシリーズ・領主の娘 3》家族の定義
「ウオォォォーーーーーン……」
深夜。
今日は満月だ。
漆黒の夜空に浮かぶ特大の月は赤く、妖しい光でダヴィネス城を照らす。
「…はじまったな」
「ええ」
領主夫妻の寝室でカレンとジェラルドは、互いにやれやれ、とため息をついた。
遠吠えの主は、二人の娘であるアンジェリーナを主人とする狼犬、ヴィトだった。
子犬の時にカレンを通じて、北部の小部族カシャ・タキからアンジェリーナへと贈られた狼犬。
成犬に育ったヴィトは銀色の艶やかな毛並みに金色の瞳を持ち、その体は巨大で有に大人の腰丈ほどもある。
小さな頃はいつもアンジェリーナに付いて回ったが、成犬になってからは気ままに城外へと出歩いていた。
ふらりといなくなったかと思うと、3日ほど帰ってこない時もあった。しかしアンジェリーナはさほど心配ではないらしく、ヴィトの行動を尊重している。
一人と一匹の絆は、互いに離れていても固く繋がっているのは、誰の目から見ても明らかだった。
神出鬼没なヴィトの存在に驚く者は、今やダヴィネス城にはいない。どこでも出入り自由。
一見狼かと見まごうヴィトを、ジェラルド以下、使用人に兵士や馬達に至るまで仲間として受け入れている。
ダヴィネス城でもっとも許された存在と言えた。
そんなヴィトが、数ヶ月前から決まって満月の夜に遠吠えをするようになったのだ。
まさに狼のハウリングのごとく、力強くそれでいてどこか物悲しげな声…しかし、声を返してくる仲間はいない。
「一度、北部へ連れて行ってみるか…」
カレンを腕枕したまま、ジェラルドは呟いた。
カレンは目を見開く。
その顔を見て、ジェラルドは微笑んだ。
「…通常、群で生活するのに、ここでは仲間はいない。遠吠えは本能だろうが…毎月あの声を聞くにつけ、少し気の毒になってきた」
カレンはジェラルドの言葉に内心ビックリしていた。
ジェラルドが狼犬に同情するなんて…
カレンは、ジェラルドとヴィトの関係は少し特殊だと思っている。
と言うのも、ジェラルドにとってヴィトは嫌でも北部の部族、引いては宿敵とも言えるその棟梁を思い出させる存在で、実際ジェラルドはヴィトの存在を受け入れてはいるが、必要以上には馴れ合わない。どこか互いに尊重しつつも一線を引いているような印象だからだ。
「あなたがそう感じるのなら、私は反対しません。でも…ヴィトが一旦仲間と会ったら、もうここへは戻らない可能性も…」
カレンは娘とヴィトの絆を思った。
ジェラルドはふむ、と考える。
「北部には、アンジェリーナも一緒に連れて行こう。それならば彼女も納得してくれるだろう…なによりアンジェリーナはヴィトのことを一番に思っているから、北部行きには賛成すると思うぞ」
ジェラルドがそこまで考えているのなら、カレンに反対の余地はない。
そしてジェラルドの言うとおり、アンジェリーナはヴィトと共に、北部視察へと同行することになった。
∴
ほぼ同時刻のアンジェリーナの部屋。
「…ヴィト?、眠れないの?」
アンジェリーナはヴィトの遠吠えに目を覚ました。
ベランダへ通じるガラス扉が開いている。アンジェリーナはベランダへ出た。
そこには、赤い月に目を細めた狼犬のヴィトが佇む。
「ウオォォォーーーーーン……」
アンジェリーナの存在には気づいているだろうに、ヴィトは遠吠えを止めない。
アンジェリーナは「はぁ」とため息をつくと、裸足のままスタスタとヴィトに近づく。
「…寂しいんだね、ヴィト…」
言いながら、そのフサフサとした銀色の毛に手を沈め、太い首もとに優しく抱きついた。
「クゥ……ン」
応えるように、ヴィトはアンジェリーナの顔に大きな顔を擦り寄せた。
すでにアンジェリーナの背丈は追い越し、まるで狼のような巨大な姿は、堂々たる風格だ。
ヴィトを初めて見た人は、十中八九その特異な姿に驚き、中には腰を抜かす者もいる。
北部の小部族カシャ・タキから贈られた、アンジェリーナの家族であり宝物。
決してカシャ・タキ以外には懐かないと言われるが、アンジェリーナとヴィトの信頼関係を見れば、それは違うとハッキリ言えるだろう。
しかしそれはアンジェリーナだから、とも言えた。
・
「ようこそ、ジェラルド、アンジェリーナ……と、それはカシャ・タキの狼犬ですな」
北部城塞の城門では、いつもの通り北部を預かる老騎士ローレンス以下の騎士や兵士達が、領主一行を出迎える。
ジェラルドとアンジェリーナを乗せた青毛のスヴァジルの横には、当たり前という顔でヴィトが座っている。
ダヴィネス城から馬と共に北部まで駆けて来たというのに、全く疲れはなさそうだ。
「どうりで夕べから辺り一帯で狼犬の遠吠えが姦しいはずですな…」
ローレンスは合点がいった、という風だ。
「コイツについては事前に知らせたとおりだ。手のかからない兵士とでも思ってくれたらいい」
「承知しました」
と、ヴィトが何かの気配を察知したと同時にタタッと森へと消えた。
「あっヴィト!」
アンジェリーナが慌てる。
「ヴィトなら心配ない。恐らく仲間の気配を感じたんだろう」
ジェラルドは前に座るアンジェリーナへと言った。
「……はい」
アンジェリーナは不安そうに瞳を曇らせたが、ジェラルドは黙ってその小さな頭をポンポンと撫でた。
・
ジェラルド一行が北部へと立つ前、カレンはアンジェリーナと改めて話をした。
「じゃあ、母様はお留守番なの?」
「ええそう。アンジェはお父様達と一緒に行ってらっしゃい。ティムも行くから大丈夫ね?」
カレンは妊娠中なので、今回の視察は見送ることになる。
「私、ナザラに乗って行ってもいいのかな?」
アンジェリーナは顔を輝かせた。
ナザラはジェラルドの愛馬のスヴァジルとカレンの愛馬のキュリオスとの子どもで、アンジェリーナの馬だ。
アンジェリーナは早くから乗馬をこなすが、北部への道のりは6歳児にはさすがにキツい。
今回はジェラルドとの相乗りだ。
「残念だけど、北部への騎乗での旅はあなたにはまだ早いの。お父様と一緒にスヴァジルに乗るのよ」
カレンの言葉にアンジェリーナは多少気落ちしたようだが、それでも初めての北部行きに心を踊らせているのは目に見えて明らかだった。
「…アンジェ、ひとつ言っておくことがあるの」
「なあに? 母様」
「ヴィトをね、北部に連れて行ってもらいたいの」
「え? …ヴィトを? なんで?」
不思議そうに母を見上げる。
カレンは、毎月のヴィトの遠吠えと狼犬の習性について、できるだけわかりやすく正直に話した。
「…わかりました」
アンジェリーナは静かに答えた。
幾分少し沈んだ面持ちだが、納得はしているようだ。
ヴィトが仲間を求めていたことはアンジェリーナも気づいていた。
カレンはもしもの可能性についても、隠さずにアンジェリーナに告げた。
仲間と会ったヴィトはそのまま北部へ留まり、ここへは戻って来ないかも知れない可能性だ。
「アンジェリーナ、ヴィトはそもそも特殊な犬種なのよ。彼の故郷は北部のカシャ・タキ達の生きる地なの。だから、」
「大丈夫です、母様」
母の話をうつむき加減で聞いていたアンジェリーナは顔を上げ、深緑の瞳に真摯な色を表した。
「アンジェ?」
「もし、ヴィトが仲間と一緒に居たいならば、それでいいの」
「アンジェ、本当に?」
アンジェリーナはコックリと強く首肯する。
「うん。だって、仲間がいないのはかわいそうだもん」
カレンは娘の言葉に、うっかり泣いてしまいそうになった。
人と犬を越えた、唯一無二の存在に対する深い思いやり…。こんなに小さくても、この子はすでに痛みを分け合うことを、ちゃんとわかっている。
カレンはアンジェリーナを抱き締め、その額にチュッとキスをした。
「ありがとう、アンジェ。本当に優しい子…ヴィトにもきっとあなたの思いは通じるわ」
「…母様」
アンジェリーナは母の胸に顔をうずめた。
・
「まあ、本当にレディ カレンに良く似てるわ!」
北部城塞では、領主の娘を囲んでわいわいと賑やかだ。
ローレンスの娘であるレディ アンは、初めて会うアンジェリーナの顔を見て、開口一番に感想を漏らした。
アンジェリーナは人見知りしない。子どもらしくえへへ、とはにかむ。
「でも瞳はジェラルド様と同じでいらっしゃいますね、とってもキレイなダークグリーン」
アンジェリーナの着替えを手伝うのは、侍女のキャロルだ。
以前、カレンが北部へ来た時に、カレンの侍女として世話をしたことがある。
今回はアンジェリーナの世話をすることになった。
「最近はカシャ・タキもすっかりナリを潜めてるけど…それってやっぱりレディ カレンとヴァン・ドレイクの事があってからなのよね…狼犬を託されたことも大きいのでしょう…アンジェリーナ、着替えたらこちらでお食事にしましょう」
「はい」
アンジェリーナの客室には夕食が運ばれている。
アンジェリーナはテーブルに着くと、貴族の子女らしい美しい所作で静かに食事を始めた。
向かいに座ったレディ アンは、アンジェリーナの様子を見守る。
「…とてもしっかりしてるのね、アンジェリーナ。北部の料理はお口に合う?」
「はい! とっても美味しいです!」
好き嫌いの無いアンジェリーナはカレンに“食いしん坊”と評されている。初めて口にする食材も、躊躇なくパクパクと美味しそうに平らげる。
「ふふ、食欲はレディに似なかったみたいだけど…それにしても気持ちのいい食べっぷりだわねぇ」
「本当に」
レディ アンとキャロルは微笑んで顔を見合わせた。
「ところでアンジェリーナ、明日からどう過ごす? ここは何もない所だけど…何かやりたいことはある?」
アンジェリーナは、ん?と食事の手を止めて、う~んと考える。
「胡桃拾い…?」
「そうねぇ、胡桃の時期には少し早いわね…あなたが喜びそうなこと…確か、レディ カレンからの手紙にはあなたは本が好きってあったけど」
「はいっ 好きです」
快活に答える。
「ダヴィネス城に比べたら、ここはあまり蔵書はないんだけど…小難しい本が多いしねぇ…カシャ・タキに関するものなら、たくさんあるけど…」
「カシャ・タキの言葉は学んでいますっ」
そうなのね…
レディ アンは感心した。
「だったら、カシャ・タキについて、ここへ赴任したばかりの兵士向けの本を何冊か…絵が多いものを用意するわね、キャロル?」
「はい。かしこまりました」
「あとは…お散歩くらいかしらねぇ?」
「お散歩、したいです!」
「いいわよ。だったら護衛を付けるわね…あぁ、本部からもお目付け役がいたわよね、確か…ティム?だっけ?」
「はい」
「あとは…あなたの狼犬、森に入ったみたいだけど、帰ってくるかしらね」
レディ アンは何気なく言ったつもりだったが、アンジェリーナはみるみる内にしょぼんとした。
「…ヴィトのことは…」
「ん?」
「母様からも言われています。ヴィトのやりたいようにって、わかってます」
俯いたまま答えた。
レディ アンとキャロルは顔を見合わせた。
「えらいわね、アンジェリーナ。狼犬はものすごく独立心が強いけど…それ以上に主への忠誠心も強いのよ。だから…」
アンジェリーナは顔を上げ、レディ アンはにっこりと励ますように笑う。
「まぁ、様子を見ながら、ここでの滞在を楽しみなさいな」
「…はい。ありがとうございます」
・
翌日からアンジェリーナは、父ジェラルドとの朝食後は北部城塞内の探検や、カシャ・タキに関する本の読書をして過ごした。人見知りも物怖じもしない領主の娘は、北部の面々ともすぐに馴染んだ。
加えて日課として、城塞の周りの散策を欠かさなかった。
目的のひとつは、ヴィトの姿を探すためでもあった。
ヴィトは、初日に姿を消してから帰って来ない。
∴
北部へ来て、2週間ほど経つ。
明日には北部を立つ予定だ。
アンジェリーナはここ数日と同じく、ザクザクと山道を歩く。
この年にしてはしっかりとした足取りで、今日はいつもより急勾配の山道を登る。
護衛は、キャロルの夫の騎士のノイエと、数年前に従騎士から騎士となったティムだ。
最近、カシャ・タキ達北部の小部族からのイタズラや横やりもめっきり減ったせいもあり、さほどの緊張感はないが、領主の娘の警護に抜かりはない。
「……」
アンジェリーナは黙ってノイエの後を付いていく。
ティムはアンジェリーナの後ろだ。
ティムはアンジェリーナの小さな背中を見るにつけ、ヴィトを思う様子を気遣う。
「ノイエ卿…」
歩きながら、アンジェリーナがふと呼び掛けた。
「はっ、なんでしょう?」
ノイエは振り向き、足を止めた。
「あのね、カシャ・タキの狼犬って、怖い?」
ノイエもヴィトのことは聞いている。
「怖いと言うか…彼らはカシャ・タキそのものの様な存在です。我らは専ら唸られたり吠えられたり…お嬢様のようには、誰も馴染んでいませんね」
「ふうん」
「アンジェリーナ様、ヴィトは特別ですよ。子犬の頃からアンジェリーナ様と一緒に育ったんです。…今頃は仲間と会えて喜んでますよ、きっと」
ティムはアンジェリーナとヴィトの友情を最も近くで見守ってきた。今回のアンジェリーナの決断は、ヴィトを思いやったものだとわかっている。
それだけに、ヴィトが戻るかどうか…安易なことは言えない。
「…ちゃんと、家族に会えてたらいいな…ヴィト…」
「アンジェリーナ様…」
ノイエは、領主の娘とお付きの騎士とのやり取りを黙って聞いていたが、ハッと気配を感じた。
「…居るな、ヤツらが」
「…確かに。気配がします」
ティムも察した。
二人の騎士は素早くアンジェリーナを庇うように背中合わせになった。
ティムは後ろ手でアンジェリーナの肩を抱く。
「…ヴィトの匂いもするけど…他にも違うにおい…」
嗅覚の鋭いアンジェリーナは、小さな鼻で匂いを嗅ぎわける。
次の瞬間、三人はぐるりと何かに周りを囲まれた。
「! カシャ・タキかっ」
ノイエはロングソードの柄に手を掛けた。
「ちがう!」
アンジェリーナが叫ぶ。
周りを囲んだのは、10頭は下らない巨大な狼犬だった。
唸りは上げず、金の瞳でじっと三人を見つめている。
「!! ヴィト!」
その中から、アンジェリーナはすぐにヴィトを見つけると、ティムの手を振り切ってヴィトの元へと走り出した。
「アンジェリーナ様!」「お嬢様!」
ティムとノイエが同時だ。
「ワホンッ」
ヴィトの太い首もとに飛び付くアンジェリーナを、ヴィトは舌を出して嬉しそうに迎え入れる。
と同時に、他の狼犬達が音もなくアンジェリーナとヴィトを隙間なく囲んだ。
「!!」
ノイエはロングソードをスラリと鞘から抜いた。
ティムは動かずに犬達の様子を見つめる。
「おっと、そいつはしまった方がいいよ」
遥か上空の木の上から、不遜な声が落ちてきた。
ティムとノイエは同時にバッと木を見上げる。
そこには…
くしゃくしゃの髪に狼犬と同じ金の瞳を持ち、獣の毛皮に身を包んだ少年…10才程度だろうか…が立ちはだかり、二人を見下ろしていた。
「お前は…!」
ノイエは悔しそうに少年を睨むと、ロングソードを鞘にしまった。
「…誰です?」
「ヴァン・ドレイクの倅だ。しょっちゅうここいらをうろついていて…我らはヴァン・ドレイクの跡取りと見ている」
ノイエは、上方を睨んだままティムに答えた。
ティムも話には聞いたことがある。
カレンにヴィトを託したと言う少年だと察しがついた。
ふと見ると、すでにアンジェリーナと犬達の姿はない。
「どういうつもりだ! お嬢様をどうする!」
ノイエは必死の形相で叫ぶ。
「そんなにムキにならずとも、あんたらのお姫様を拐ったりしねーよ。…ちょっと借りる。でも追いかけたら命の保証はない」
「なんだと!?」
「待ってください、ノイエ卿」
「!?」
二人のやり取りにティムが冷静に割って入る。
「少し聞きたい」
ティムがカシャ・タキの少年に問う。
「なに?」
「“借りる”と言うからには、必ず返すんだろうな…無傷で」
「当たり前だろ。狼犬の主だぜ」
「いつだ」
「今日の日の入り前にここへ来な…あんた一人でだ、じゃなっ」
言ったが早いか、少年は風よりも早く森へと姿を消した。
「……ティム」
ノイエは呆然としている。
「…ノイエ卿、すみませんが、このことをジェラルド様へご報告お願いします」
「お前は?」
「私はここで待ちます」
「まさか信用してるのか? カシャ・タキを…?」
「…半々ですが、カシャ・タキの狼犬への愛情は本物だと思っています。その狼犬の主であるアンジェリーナ様への無体はないかと」
ティムは静かに答えた。
「ったく、よくそんなに冷静でいられるもんだ」
ノイエは呆れながらも、報告のために急いで北部城塞へと戻った。
∴
ノイエの報告を聞いたジェラルドとローレンスは、騎士数名を伴ってすぐにティムのもとへ駆け付けた。
「私が付いていながら、申し訳ありません!」
ティムはジェラルドに騎士の礼を取って詫びる。
「これは…既視感がありますな、ジェラルド」
「…………」
ジェラルドは、腕組みをしたまま無言だ。
重黒い怒気が漂う。
ローレンスが“既視感”と言ったのは、数年前にカレンが先程のカシャ・タキの少年に遭遇した時のことだ。
その後カレンは、カシャ・タキの棟梁であるヴァン・ドレイクとも遭遇し、北部は大騒ぎとなった。
「カシャ・タキにこうも気に入られては…なかなか悩ましいですな」
ローレンスは興味深く語るが、ジェラルドは憮然としている。
しかし、そもそもアンジェリーナとヴィトを連れてきたのはジェラルド本人だ。返す言葉がない。
「ティム、アンジェリーナは連れ去られたのではないのか?」
「…アンジェリーナ様自らヴィトのもとへ行き、多数の狼犬に囲まれた後、目を離した一瞬の隙に姿が見えなくなりました。カシャ・タキの少年は“借りる”と言いましたが…結果的には連れ去られたと判断しても…」
「狼犬にか…」
「はい」
「ジェラルド、討伐隊を組むなら…」
ローレンスが念のため聞く。北部をまとめる者としては当然の懸念だ。
「…準備だけ頼む」
「はっ、かしこまりました」
客観的な事実は、狼犬であろうが少年であろうが、“カシャ・タキが領主の娘を拐った”だ。アンジェリーナが取引材料にされてもおかしくはない。
この場合、先に手を出したのはカシャ・タキとなるので、ダヴィネス軍は攻め入ることも可能だ。
※カシャ・タキとの公約で、ジェラルドの身代ではダヴィネス軍から先に手出しできない。
だが、近年カシャ・タキとの抗争はない。
カシャ・タキから火種を投じる理由も見つからなかった。
何より、アンジェリーナがカシャ・タキの手の内にあれば、ジェラルドは手出しができない。
「ひとまずは……ティムの判断を信じて待つしかない」
ジェラルドは苦々しくも決断を下した。
・
モフモフ…モフモフモフモフ
「…ヴィト…?」
アンジェリーナは、ヴィト目掛けて駆けつけ、そのよく知るフサフサの太い首もとにすがり付いたとたんに、四方八方からの猛烈なモフモフ攻撃にまみれた。
そこから先は、ヴィトの背中に乗せられ(モフモフ攻撃のまま)、ものすごいスピードでどこかへ運ばれた。視界は終始ヴィトのモフモフ毛に遮られていた。
ヴィトが止まり、ふと、顔を上げると…
幾分開けた広場のような所だ。
周りは鬱蒼とした木々が生い茂っている。
「クゥ」
背中からアンジェリーナを下ろしたヴィトは、アンジェリーナの顔をペロペロと舐めまくる。
「ヴィト! 会いたかった…もうっ、くすぐったいよっ」
久しぶりのヴィトだ。嬉しさが込み上げる。
と、ふと見ると、ヴィトの他にも何頭もの狼犬がおり、アンジェリーナと目が合った途端、わらわらとアンジェリーナに近づき体を擦り寄せてくる。
「わあ、みんな大きいね…あれ、君はヴィトに似てるね、兄弟かな? ふふっ」
狼犬達を撫でながら、屈託なく喜ぶ。
「魔女の子は魔女なんだな」
「え?」
アンジェリーナはビックリして声の方へ振り向く。
そこには、岩に腰掛け足を組み、頬杖をついたままアンジェリーナと狼犬達との戯れを眺める、くしゃくしゃ髪のカシャ・タキの少年がいた。
「あなた…誰?」
カシャ・タキの少年は立ち上がると、犬に囲まれるアンジェリーナに近づき、しゃがんだ。
金の鋭い瞳が、アンジェリーナの深緑の瞳を捉える。
「щуьх」
「…アウ…ズル? あなた、アウズルっていうの?」
「ああ、そうだ」
アウズルと呼ばれた少年は、アンジェリーナの顔をじーっと見つめた。
「…お前、コズミにそっくりな顔してんな…でもその目はヴェガのだ……ふーん」
“コズミ”…正しくは“コズミ・マタ”は、カシャ・タキがカレンを指す呼び名だ。意味は「宝石」。同様に“ヴェガ”は「獣」…ジェラルドを指している。
アウズルは、そのままその場へ胡座をかいて座る。
すると、アンジェリーナにじゃれていた狼犬の一頭がアウズルの隣へ来て座った。
アンジェリーナがヴィトの兄弟と言った狼犬だ。
アウズルはその狼犬の大きな頭を撫でた。
狼犬は目を細める。
「…コイツ、お前の犬をすぐに兄弟だって気づいた」
「そうなんだ! なんていう名前?」
「εйь…ファド」
「ファド…」
アンジェリーナが名を呟くと、目の前のファドは「クゥ?」と頭を傾げ、スッとアンジェリーナの側へ来て座った。
アンジェリーナは片手ずつにヴィトとファドを抱く。
「ヴィトと…ファド!」
二頭は両側からペロペロとアンジェリーナの小さな頬を舐める。
「ふふっ! あははっ」
その様を、アウズルは不思議そうに眺める。
他の狼犬達も、寛いで二頭と一人の様子を見ている。
「お前、ほんとに魔女みたいだな、犬達がこんなに懐く人間は初めてだ」
「…そうなの? でも私は魔女じゃないわ…ヴィトに会いたかっただけだよ」
「狼犬は家族の匂いを絶対忘れない。ヴィトとファドもそうだ」
「…うん、そうみたいだね…良かったね、ヴィト?」
「あ」アウズルは何かを察した。
瞬間、アンジェリーナはゾクリと背筋に冷たさを感じ、犬達が一斉にピクリと耳を立てた。
辺りの雰囲気がガラリと変わる。
な…に…?
「…Йхшы ле фскжм」
低く鋭い声…カシャ・タキの言葉…と同時に、ゴツンッ!と鈍い音がした。
『ってぇ!!』
『犬達が騒がしいと思えば…お前は何をしている…!』
そこには、頭を抱えたアウズルと、銀の長髪をなびかせた長身の男…カシャ・タキの現棟梁…ヴァン・ドレイクが居た。
ヴァン・ドレイクとアウズルの顔はよく似ており、一目で親子とわかる。
ヴァン・ドレイクの隣には一際巨大な狼犬が佇み、アンジェリーナと他の犬達を見ている。
アンジェリーナは二人の様子を呆然と眺める。
と、ヴァン・ドレイクの鋭い金の視線がアンジェリーナに注がれた。
アンジェリーナはビクリと肩を震わせる。
周りの全てを凍らせるような、冷たい気が漂う。
『ほほう…これは…』
言いながら、ヴァン・ドレイクはアンジェリーナにゆっくりと歩み寄った。
『まさにヴェガとコズミの娘だな』
ヴァン・ドレイクは、クイッとアンジェリーナの顎を掴むと上に向かせた。
『とーちゃん!』
父の行動にアウズルが慌てる。
『…金の瞳!』
アンジェリーナは思わず発した。しっかりとしたカシャ・タキの言語だ。
『…お前、我らが言葉を解するか』
『うん、勉強してるから…』
顎を掴まれたまま答えた。
『あなた…ヴァン・ドレイク…?』
アンジェリーナは今まで見聞きした情報から、目の前の片手の無い男がカシャ・タキの棟梁だと察した。
『……』
問いには答えず、ヴァン・ドレイクは尚もアンジェリーナの顎を掴んだまま、その深緑の瞳を見つめる。
『アウズル』
『なに?とーちゃん』
『あれほど敵に貸しを作るなと言ったのを…お前は忘れたか』
『…忘れちゃいない、けどっ』
アンジェリーナの顎が解放された瞬間、ガシッという音で、アウズルはヴァン・ドレイクに蹴り飛ばされた。
『この娘を拐ったことが、我らを危うくするとは考えなんだかっ この馬鹿者が!』
『……』
アウズルはうずくまる。
ヴァン・ドレイクは、尚もアウズルに拳を放とうと右手を振り上げた。
『やめて!』
アンジェリーナはとっさにアウズルの元へと走るとアウズルの前に立ちはだかった。
『…なぜ庇う』
『ダメだよ、喧嘩は! 母様もいつも言ってる、暴力は最後の手段だって…! 自分より弱い者には絶対にダメだって!!』
『いかにもそちら側の考えだ…まぁ、コズミの娘ならばさもありなん、だろう』
ヴァン・ドレイクはフッと鼻白む。
『アウズルよ、敵に…しかも女に守られるとは情けないにも程があるぞ』
『男とか女とか、関係ないよ! それに私はアウズルの敵じゃないっ』
『やめろっ、アンジェリーナ』
父の非情な容赦の無さを知るアウズルは気が気ではない。しかしアウズルの声には耳を貸さず、アンジェリーナはヴァン・ドレイクを睨み上げる。
『…ほう、儂をそのように睨むとは、さすがヴェガの娘と言うべきか。見上げた勇気だが…』
ヴァン・ドレイクはその金の瞳に一層の鋭さを増し、口元にゾッとするような冷たい笑みを浮かべた。
『お前は今の言葉を証明できるか』
『え?』
『今のお前の目は、間違いなくヴェガと同じだ。獣以上に獣らしい…お前はヤツの後を継ぐのか』
父様の後を…?
『それは…わかんない…でも、無理だと思う』
『それでは話にならん。倅とお前はゆくゆく嫌でも刃を向け合う仲となるだろうが…』
『!! それは絶対に嫌!』
アンジェリーナは自分でも気づかないが、全身から気を放っていた。
周りの狼犬達に一斉に緊張が走る。
『ならば証明しろ』
『……』
父の後を継ぐのか、継げるのかどうかなど、今のアンジェリーナにわかるわけがない。
アンジェリーナは悔しそうに下唇を噛む。
『どうだ、できるのか』
『………ёкннзу?』
その時、女性の声がしたと思ったとたんに、犬達の緊張がふっと緩んだ。
『かーちゃん!』
叫んだアウズルの視線の先にアンジェリーナは首を巡らせた。
そこには、レディ アンから借りたカシャ・タキの本─[カシャ・タキの女]の項目─にあった、毛皮のワンピースを着た女性が立っていた。
女性は夕日のような真っ赤な長い髪を三つ編みに束ね、その瞳は北部城塞の畔のアラハス湖のような青緑だ。
『щяуу……』
ヴァン・ドレイクが女性を認めた。
あか…つき…?
ヴァン・ドレイクは、フーッと息を吐くと、チッと舌打ちをした。
赤髪の女性は、目の前に広がる光景を…アンジェリーナを見ると、その美しい瞳を見開き眉を曇らせ、さっとヴァン・ドレイクの元に駆け寄った。
『жЭм…………』
『ξψω фтсс……』
何やら顔を寄せてヒソヒソと話しており、アンジェリーナには聞き取れない。
「…なんで庇ったんだよ」
ふいにアウズルがアンジェリーナに話し掛けた。
「私のせいでアウズルが殴られるのは…違うと思う」
「俺は慣れてるけど…お前ヘタすりゃ殺されてたぞ、とーちゃんに」
「……」
確かに怖かったが、同じ事があれば、また同じように行動する。
アンジェリーナに迷いはない。
と、アウズルが“かーちゃん”と呼んだ赤髪の女性が、アンジェリーナ達に近づいてきた。
「…二人ともこちらへいらっしゃい」
「!」
アンジェリーナの使う言語だ。
アンジェリーナはアウズルを見ると、アウズルは頷いた。
いつの間にか、ヴァン・ドレイクの姿はない。
アンジェリーナは女性に連れられて、洞窟の様な場所へ入った。
犬達は相変わらずアンジェリーナの側を離れない。アウズルも後から付いてくる。
洞窟を少し進むと、小さな竈があり、毛皮の敷物が敷き詰められた場所があった。
「お座りなさい」
アンジェリーナは勧められるまま、毛皮の上に座った。
向かいにアウズルも座る。
犬達は少し離れて各々座っている。
洞窟のはずなのに、上からは明かりが差している。
不思議な作りだが、とても温かな雰囲気だ。
アンジェリーナはアウズルに聞く。
「ここは…あなたのお家なの…?」
「いや、塒のひとつだ」
女性は木製の器に入った飲み物と、木皿に乗った茶色いビスケットの様な物をアンジェリーナとアウズルの間に置き、そのままアンジェリーナの隣に座った。
「お腹が空いたでしょう」
女性の物言いは、そっけなくはあるが、冷たさは感じない。
「お食べなさい」
見れば、アウズルは既にゴクゴクと飲み物を飲んでいる。
「…いただきます」
アンジェリーナは器に入った白いミルクの様な飲み物を、ゴクリと一口飲んだ。
…美味しい
アンジェリーナはそのままコクコクと飲む。
「口に合う? 山羊のお乳よ」
女性は、初めて微かな笑みを浮かべた。
青緑の瞳は深い色だ。
『ウマイ』
『あんたは黙ってお食べ』
アウズルと女性はカシャ・タキの言葉で話す。
先ほどまでの緊張感はなく、アンジェリーナはホッと安心する。
「とっても美味しいです」
「そう」
「これは…?」
茶色のビスケットからは、よく知る匂いがする。
アンジェリーナはビスケットを一口食べた。
ホロホロとした食感だ。
「栗の粉を練って焼いたものよ」
やはり栗だ。
「美味しいです」
アウズルは、既にいくつもの栗ビスケットを頬張っている。
「あの…ヴァン・ドレイクは…どこへ行ったのですか?」
おずおずと聞いてみる。
「心配ないわ。このことは大事にはならない…けど、アウズル」
女性はキッとアウズルを睨む。
『まったく…お前はなぜこうも勝手をするの?ヘタすりゃヴァンはこの娘を傷つけてたかもしれないのよ?』
女性はアウズルにお代わりのヤギ乳を注ぎながら、カシャ・タキの言葉でアウズルを窘める。
『……』
アウズルはそれには答えず、黙って乳を飲んだ。
『アウズルは、悪くないです』
アンジェリーナの言葉に、女性はハッとして目を見開いた。
「あなた、カシャ・タキの言葉がわかるの?」
「はい。勉強しています」
「そうなの…」
アンジェリーナは、ヤギ乳の入った木の器をコトリと置いた。
「ヴィトが何ヵ月か前から夜に遠吠えをして、とても寂しそうでした。だから、父様達の視察にヴィトも連れてきたの…家族に、仲間に会いたいのかなって」
アウズルと女性はアンジェリーナの話を黙って聞く。
「私は今日ヴィトが家族や仲間に会えて、楽しそうなのがわかって…良かったって、思ってます…もう城にヴィトは戻らなくても、それは仕方ないって……母様にも約束したし」
最後は俯き、小さな声だ。
「ありがとう」
「え?」
アンジェリーナは女性の優しい声にハッ顔を上げた。
「ヴィトを立派に育ててくれて。ティドも喜んでたわ」
赤髪の女性は、最初の素っ気なさが嘘のように、穏やかに微笑む。
「ティド? ヴィトのママ?」
「そう。ヴァンの隣に居たでしょう?」
アンジェリーナは思いを巡らせる。
ヴァン・ドレイクの隣に居た、一際巨大な狼犬だ。
かつて、母のカレンを舐め回したと聞いている。
「ティドも他の犬達のようにあなたと居たかったでしょうけど……ヴァンの手前、気を遣ったみたいね」
「…ヴァン・ドレイクって、よく怒るの…?」
アンジェリーナは遠慮がちに聞く。
父親が自分の子どもに手をあげるなど、アンジェリーナには信じられない。
アウズルはくしゃくしゃの髪をより一層くしゃくしゃと掻いた。
「怒るっつうか…怖いけど、仲間を守るためだからな…」
「今回はちょっと軽率だったね、アウズル。犬達に言うことをきかせるのもあんたの仕事だよ」
「わかってるよ」
アウズルはプイと顔を背けた。
「…ヴィトはティドの子どもで、ファド達と兄弟だよね」
アンジェリーナは考えながら呟く。
「うん」
「狼犬達はカシャ・タキの家族…」
「だな」
「じゃあ…ヴィトと家族の私は、アウズル達の家族になるのかな?」
「!」
アウズルは目を瞬く。
「…そうね、理屈だとそうなるわね」
女性が応える。
「じゃあ、私の父様とヴァン・ドレイクも親戚ってことになるんじゃない?」
これには、アウズルもヴァン・ドレイクの妻である女性も絶句した。
宿敵の二人が親戚など、とんでもないことだ。
今までの両者の事情を知る者では想像もできない。
アンジェリーナは、尚もうーん、と考える。
「親戚なら、攻撃はしないんじゃないかな。だから…」
アンジェリーナは深緑の瞳を煌めかせた。
「アウズルは悪くないよ! 怒られる理由なんかないもん」
「…えー…?」
戸惑うアウズルとは対照的に、アウズルの母はクスクスと笑いだした。
「…おかしいですか?」
「いえね…ヴェガとコズミ・マタの娘、あなたなら、本当に変えられるかもしれないわね…もしかしたらヴァンもそれを期待してるのかしらねぇ」
「?」
アンジェリーナはよくわからないが、女性の笑顔につられて、ニコニコと笑った。
∴
「お前、変わってる」
アンジェリーナは、帰るまでの時間を犬達と過ごしている。
もしかすると、ヴィトとはこれでお別れになるかもしれないのだ。
側で見守るアウズルは、心底不思議な顔をする。
「そう?」
「うん。でも、とーちゃんがコズミを通してお前にヴィトを渡した理由が、ちょっとわかったかも」
「?」
「いいんだ、こっちの話! 犬達に餌やってみるか?」
「うん!」
ダヴィネス領主の娘とカシャ・タキの棟梁の息子は、狼犬達に囲まれ穏やかな時を過ごした。
・
「ここから一人で行くよ」
日暮れが迫り、アンジェリーナは帰る時だ。
途中までは、アウズルと犬達が付き添ってくれたが、約束の場所まであとわずか、という所でアンジェリーナはアウズルに告げた。
「もしかすると、北部の兵士がいるかもだし」
「……わかった」
アンジェリーナはヴィトに近寄るとしゃがんだ。
「ヴィト、元気でね。また北部に来たら会えるかな…」
大好きなその大きな体を抱き締める。
「クゥン…」
ヴィトは巨体に似合わない、悲しげな声だ。
数時間を犬達と過ごしたアンジェリーナは、仲間たちと戯れるヴィトの楽しそうな様子を見るにつけ、やはり仲間と…家族と居るのが一番だと納得したのだった。
その様子を、アウズルはじっと見つめる。
「…ありがと、ヴィト…」
アンジェリーナはゆっくり立ち上がると、アウズルに向き合った。
深緑の瞳は潤んではいるが、西日に反射した瞳の中の金の光彩が煌めいている。
「アウズル、今日は本当にありがとう」
「いや…」
「頭、大丈夫?」
ヴァン・ドレイクに拳骨をはめられたことだ。
「こんなのしょっちゅうさ、平気だよ」
「そっか。じゃ、行くね」
「うん」
「おばさまにありがとうって伝えね…ヴァン・ドレイクにも…」
「うん…わかった」
「じゃ!」
最後は笑顔でアンジェリーナはタタッと山道を走り出した。
その小さな後ろ姿を、アウズルと狼犬達はいつまでも見送った。
『リス・シエ……』
アウズルが呟いた“リス・シエ”は、部族の言葉で「光」。
以降、カシャ・タキらはアンジェリーナを“リス・シエ”と呼ぶことになる。
・
「アンジェリーナ様!」
アンジェリーナが狼犬達と消えた場所には、約束通りティムだけが居た。
「ただいま、ティム! っ!ティム!?」
アンジェリーナを認めたティムは駆け寄ると、膝を折ってアンジェリーナを抱き締めた。
「…心配しました、アンジェリーナ様…」
「ごめんね…心配かけて…」
ティムは力を緩め、アンジェリーナの全身を見る。
「どこもお怪我はありませんよね?」
「うん。大丈夫!」
ティムは、ほーっと息を吐いた。
「…ヴィトは…」
「…うん、元気で家族と一緒だった…」
「そうですか…」
ティムはそれ以上は聞かない。
「歩けますか?」
「うん!」
二人は手を繋いで山を下りた。
山を下りきったそこには、ジェラルドを先頭に、弓を背負った数人の騎士が居た。
「アンジェリーナ!!」
「父様!」
アンジェリーナは父に駆け寄り、ジェラルドは娘を抱き上げる。
「無事だな? 怪我は無いな?」
「はい!」
ジェラルドはほーっと安堵の息を吐くと、額をアンジェリーナの小さな額にくっ付けた。
「良かった…生きた心地がしなかったぞ…アンジェリーナ」
一同は一斉に安堵の息を吐いたのだった。
ジェラルドに抱き上げられたアンジェリーナの目線の先には、北部の山の端に傾きかけた夕日が見えた。
それは、アウズルの母親の髪の毛のような、真っ赤な夕日だった。
・
「…つまり、中継地点らしき場所に居たと」
「そうらしい」
「追わなくて正解だったってことよね」
「カシャ・タキ相手に深追いは禁物だが…肝が冷えた」
ジェラルド、ローレンス、レディ アンはディナーの続きで、今回の出来事を話し合っていた。
ジェラルドはアンジェリーナに一通りの話を聞いた。
アンジェリーナはさすがに疲れたらしく、すでに夢の中だ。
「どうやら手厚くもてなされたらしい。ヴァン・ドレイクの倅…アウズルだったか、と一緒だったと」
「アウズルね…ここ数年ですっかり跡取りっていう認識が広まったけど…実のところ彼はかなりこちら寄りなのよね…カシャ・タキの中では反発もあるでしょうね」
「部族内は一枚岩ではないということか…ヤツ(ヴァン・ドレイク)も苦労するな」
「おや、珍しく同情的ですな、ジェラルド」
「そうではない、あくまで客観的意見だ。小部族をまとめるのが安易ではないことぐらい、私でもわかる」
「まあまあ、いずれにせよ苦労は尽きないわよ…ねぇ、アンジェリーナはアウズルの母親にも会ったそうね」
「ああ」
「名前、聞いてる?」
「定かではないが……確か『щлоу』いや『щяψу』だったか…」
「『цыуу』?」
ローレンスが聞く。
「いや違う」
「もしかして『щяуу』じゃない?」
アンも聞く。
「『あかつき』?」
ローレンスが訳す。
「そうだ『щяуу』、『暁』だ」
3人ともカシャ・タキの言語には精通している。
「私、щяуу…暁なら会ったことあるわ」
レディ アンがはたと応える。
「そうなのか?」
ジェラルドは意外そうに聞く。
「ええ」
「村との交渉役か…」
ローレンスはなるほどな、という顔だ。
「そう。こちらの言葉がペラペラ。真っ赤な長い髪で、アラハス湖みたいなキレイな瞳なのよ。対応は塩だけど、取引は誠実だった…確か彼女の母親はこちらの人よ」
「その息子が次期棟梁か…」
ジェラルドは顎に手をやる。
「まだわからぬが、そのアウズルとアンジェリーナが狼犬の縁で知り合ったならば…これは明らかに新たな潮流と言えような…」
ローレンスもふむ、と考える。
「確かに…アンジェリーナ…本当に不思議な子ね。レディ カレンの子どもっていう点では納得だけど。なんだかこのままカシャ・タキにお嫁にいっちゃいそうな勢いだわねぇ?」
「アン…冗談も休み休み言えっ」
ジェラルドは毒づくと、ワインを一気に飲んだ。
ローレンスとレディ アンは、「おやおや」と顔を見合せる。
ジェラルド一行は、明日、北部を立つ。
∴
「ウオォォォーーーーーン……」
「ワオォォォーーーーーン……」
アンジェリーナは真夜中に目覚めた。
狼犬達の遠吠えが四方から聞こえる。
北部では珍しくはないが、アンジェリーナの脳裏にはカシャ・タキの塒で遊んだ彼らの姿が浮かんだ。
「…ヴィト…」
アンジェリーナは起き上がると、窓辺に近寄った。
子どもの背丈では、ようやく外が見えるか見えないかの高さに窓がある。
アンジェリーナは椅子を引きずって運ぶとその上に乗り、開き窓の鍵を開け外へ開け放した。
秋口ではあるが、北部の冷涼な気候だと夜はかなり冷え込む。
アンジェリーナの頬が冷気にさらされる。
見渡しても、見えるのは夜の闇ばかりだ。
遠くから、狼犬達の絶え間ない遠吠えが聞こえる。
ちゃんとさよならをしたつもりだったが、割り切れるものではない。
アンジェリーナの脳裏には、ヴィトとの思い出が次々と駆け巡る。
「……ぅ、ひっく、…」
アンジェリーナは夜闇の中、ひとり泣いた。
∴
「寒い…!」
翌朝、アンジェリーナは冷気で目が覚めた。
?
頭を巡らせると、夕べ鍵をかけ忘れた窓が開けっぱなしだ。
外気の寒さが部屋に広がっている。どうりで寒いはずだった。
掛け布がずっしりと重い。空気は外気の様な冷たさなのに、掛け布の重い部分のみが暖かい。
上体を起こし、その重さを確かめ…
「ヴィト……!?」
そこには、昨日お別れをした狼犬が当たり前の様に座っている。
「…ヴィト…なんで…?」
「ワフッ」
ヴィトは大きな体を起こすと、涙の跡の残るアンジェリーナの小さな顔を舐めた。
「ヴィト! ……戻ってきたの? あ!窓から入ってきたの?」
狼犬の跳躍力は目を見張るものがある。犬とは大きく異なる点だ。
2階のアンジェリーナの客室の窓から忍び込んだらしい。
まるで「そうだよ」とでもいう風に、ヴィトはその金の瞳でアンジェリーナをじっと見つめる。
「ヴィト…!!」
アンジェリーナはヴィトを抱き締めた。
ヴィトも大きな頭をアンジェリーナにすり寄せる。
「あれ?…」
手を回したヴィトの首元に、革袋が括りつけてある。
かなり固く結び付けられているそれを、アンジェリーナは外した。
中から現れたのは……
∴
「狼犬の雌の子犬…?」
朝、アンジェリーナの客室に入ったキャロルは、ベッドで戯れるアンジェリーナと巨大な狼犬のヴィトを目にした途端、盛大な悲鳴を上げた。
ヴィトを見慣れたダヴィネス城本部の者達とは違い、北部の者にとって狼犬は敵方の兵士に近い位置付けだ。
アンジェリーナが狼犬に襲われていると勘違いしたキャロルの反応は、さもありなんだった。
何事かとキャロルの悲鳴を聞き付けた騎士や兵士達も駆け付け、上を下への騒ぎとなる中いち早くティムがその場を収め、アンジェリーナとヴィトの関係を説明して皆を納得させるのに一苦労したらしい。
今は、ローレンスの執務室にジェラルドら本部メンバーをはじめ北部の幹部らも集まっていた。
アンジェリーナは、肘掛け付きのひとり掛けソファへ座ったジェラルドの膝の上におり、その肘掛けにはヴィトが顎を乗せている。
ジェラルドはアンジェリーナの頭とヴィトの頭を同時に撫でる。
ヴィトはジェラルドに撫でられ、目を細める。
「ヴィト、よく帰ってきたな」
「お前、やっぱりアンジェリーナ様の側がいいんだろ?」
「しかしちゃっかりしてるよなぁ」
ダヴィネス城の面子は、口々にヴィトへと話し掛ける。
まるで同僚に話すような口振りに、北部の面々は驚くとともに、領主の側で寛ぐ巨大な狼犬の様子を感心して眺めた。
「犬…だわねぇ」
「まったくな…」
ローテーブルを挟んでジェラルドの向かいに座るレディ アンとローレンスも、目の前の風景に釘付けだ。
しかし最大の驚きは、アンジェリーナの腕の中でスヤスヤと眠る、狼犬の雌の子犬だろう。
ヴィトの首の革袋から現れた子犬…革袋の中には、走り書きのような手紙があった。
─ リス・シエに更なる仲間を託す
ヴィトの家族になるだろう ─
「…よかったね、ヴィト」
「ワフッ」
ジェラルドの膝の上から、アンジェリーナはヴィトの鼻の頭にキスをした。
「『リス・シエ』ねぇ…」
「更なる狼犬を託すとは…カシャ・タキからしてみれば、アンジェリーナは正に新たな『光』なんでしょうな…」
レディ アンとローレンスがしみじみと漏らす。
「ヴィトが帰ってきたのは彼の意思かも知れないけど…ヴィトに子犬を託すことで、カシャ・タキはアンジェリーナと繋がりを持ちたかったってことよね? 今にこの北部城塞なんて、失くなるんじゃない?」
レディ アンの言葉に、ジェラルドとローレンスは顔を見合わせた。
「…それならそれでいい。全く、血判状などより、余程意味があるということか…」
「それはそれ、これはこれ、ですな、ジェラルド」
二人とも穏やかな顔だ。
「ねぇアンジェリーナ、その子犬、名前はどうするの?」
レディ アンの問いに、アンジェリーナは顔を上げて「んー…」と考える。
ジェラルドはその様子を微笑んで見つめる。
「…『нфчё』」
「ハディ?」
「うん!」アンジェリーナは満面の笑みで父に答える。
「『贈り物』…とな」
ローレンスはふむ、と自らの顎髭に手をやる。
「確かに、ヴィトにとってはこの上ない贈り物だな。我らにとっては…」
「吉と出るか凶と出るか…」
ジェラルドとローレンスはさすがに懐疑的だ。
「やだわ、いいに決まってるわよ! ね?アンジェリーナ?」
アンジェリーナはコクリと頷き、腕の中で眠るハディと名付けられた子犬を、そっと撫でた。
・
「と言うことは、ヴィトのお嫁さん? ですか?」
「恐らく、将来的には」
ダヴィネス城に帰還したジェラルドは、今回の北部での事の顛末をカレンに話した。
二人は午後のお茶を共にする。
アンジェリーナが狼犬達に連れていかれた、という下りにはギョッとしたカレンだったが、話すジェラルドが終始穏やかな表情であることに安心した。
「まったく、我が娘ながらアンジェリーナには驚かされる」
カレンは、あらあら、と意味深に微笑む。
「カシャ・タキがあの子を『光』と名付けたならば、それがすべての答えとは思えませんか?」
カレンは思う。
アンジェリーナは未知の可能性を秘めている。
それはダヴィネスにとっても、カシャ・タキにとっても…。
ジェラルドはカレンの表情を見て、はぁと息をつくと、隣に座るカレンを慎重に抱きかかえ、膝の上にふわりと乗せた。
「…まったく、あなたとアンジェリーナにはやられっぱなしだぞ。アンにも今にアンジェリーナを嫁に取られると軽口を叩かれる始末だ」
カレンは笑いながらジェラルドの肩に手を回した。
「ふふ、たぶんアンジェリーナならどこででも彼女らしくやっていきます」
ジェラルドは一瞬恐い顔をした。
ジェラルドにとっては、娘がカシャ・タキへ嫁入りするなど、悪夢でしかないだろう。
カレンは、ジェラルドの引き締まった頬を両手でやんわりと挟むと、ふわりと口付けた。
「私やローレンスを飛び越えて、あなたやアンジェリーナに目を付けらた時点で、こうなることは明白だったのかも知れないが…まぁ、慣れない」
「未来は誰にもわかりません」
そうだな…。ジェラルドは微笑みを取り戻す。
「とにもかくにも…犬達を通じて否応なしにカシャ・タキと遠戚にされたということか…」
半ば諦めのように呟くと、ジェラルドはカレンを抱き締めた。
時は流れ、人を変える。
それはここ、ダヴィネスでも…
お読みいただきましてありがとうございます。
《ミニシリーズ・領主の娘 》の連続投稿はひとまずこれにて。
以降、【読み切り編】を続けつつ、辺境の瞳の最終シリーズを予定しております。
まったり投稿ではございますが、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。




