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愛しのガヴァネス(2)

 ステラ・パウエルがガヴァネスをしていたペンバートン伯爵の領地は、王都からは距離があった。もちろんウィンダム公爵領からも離れている。

 領地に隠っている限り、存在を気取られることは、まずない。

 “灯台もと暗し”と母が言ったことをカレンは思い出した。


 カレンは一度ステラ・パウエルと会ってみたかったが、母から、王都へ彼女を呼ぶのは危ないと釘を刺されたので、ステラ・パウエルにはペンバートンの領地から直接ダヴィネスへ移動してもらうこととなった。


 しかし、カレンのステラ・パウエルに対する心配は、まったくの杞憂だった。


 ダヴィネスに現れたステラは、母の言葉通りエキゾチックな容貌の大変美しい女性で、人柄や品格、マナーも完璧、しかもガヴァネスとしての実力も申し分ない。

 特に語学の才は桁違いで、有に5ヶ国語は話せるとのことで、学び好きのアンジェリーナは大喜びだった。


 ∴


「でも、カシャ・タキの古語まではさすがに不勉強で…申し訳ございません」


 ダヴィネスへ着任して数日後の領主夫妻とのディナーの席で、エメラルドグリーンの瞳を申し訳なさそうに伏せて詫びられた時は、さすがのカレンも恐縮してしまった。


「まさか!カシャ・タキの言語に関しては、専門家に指導をお願いしておりますので、どうかお気に病まれないでください」


「カシャ・タキの古語はとても特殊な言語です。しかも話せる者はごく限られている。カレンの言う通り、ダヴィネスにはカシャ・タキの研究者も存在しますので」

 ジェラルドもカレンと同意見だ。


 ステラ・パウエルは安堵の表情を浮かべた。

「…ありがとう存じます。アンジェリーナ様は学ぶことに大変前向きです。他の外国語は、たぶんあっという間に習得されるでしょう。私も教えがいがございます」


 濃い睫毛に縁取られたエメラルドグリーンの瞳は、知的な光を宿していた。



 ステラ・パウエルがダヴィネスへ来てから数週間経ったある日の午後、カレンは久しぶりのゆったりとした読書時間を過ごそうと、ダヴィネス城の広大な図書室を訪れた。


 …あ、ミス パウエル?


 南向きの閲覧机のひとつに、スッと背筋を伸ばした美しい姿勢で、ステラ・パウエルが座って読書をしている。

 傍らには何冊かの本を積み上げ、熱心に読書中だ。


 カレンは声を掛けようか迷ったが、せっかくの読書時間を邪魔しては…と思案する。


 彼女とは領地夫人とガヴァネスという雇用関係の都合上、それほど親しくは接していないし、母から聞いた通り、特殊な個人の事情を根掘り葉掘りと探ることはご法度だ。少しの遠慮もある。

 ただ、この辺境の地で心安らかに過ごしているかどうかは、とても気になる。


 カレンは本棚の影から、ステラ・パウエルの横顔を観察する。


 南向きの窓から差す光に、アップに結い上げた艶々とした豊かな黒髪が輝き、驚くほど長い睫毛を伏せて一心に読書する姿……罷り間違えば、異国の姫君であったかも知れないその出で立ちは、匂い立つような品性を醸し出す。


 ウィンダム公ならずとも、心惹かれるのは至極当然ね…


 ステラ・パウエルを雇うにあたり、ひとつの条件があった。

 それは「1年のうち、3ヶ月の連続した休暇を取る」ことだ。

 母からは「子息に会うために隣国へお帰りになるから」とだけ聞いていた。

 シーズンにはアンジェリーナを王都へ伴うこともあるので、その間に休暇を取ってもらえば問題ない。

 カレンは快諾した。


 それにしても、実の子どもに年に数ヶ月だけしか会わないなんて…


 カレンの心の中は、ずっとステラ・パウエルについての疑問や好奇心があるが、意識して蓋をしていた。


 しかし、彼女を雇い、匿うだけでいいのだろうか…?


「…レディ?」


 ステラ・パウエルは本棚の影であれこれと思い悩む領主夫人を見つけた。


 カレンはハッと我に返る。


「あ、ごめんなさい、ミス パウエル。読書のお邪魔をするつもりはなくて…」


 カレンの言葉に、ステラ・パウエルは穏やかな笑みを浮かべた。


「お邪魔なんてまさか。どうぞこちらへ。この図書室は本当に素晴らしい蔵書で…夢中になってしまって」

 言いながら立ち上がった。


 カレンは本を手に、ステラの向かいに座った。


 ふとステラの目の前に積まれた本のタイトルが目に入る。


 ステラ・パウエルはカレンの目線の先を追う。

「あ…、これ、ダヴィネスの歴史についてですの。ここは他の領地とは全く異なる長くて厚い歴史がありますから。私も勉強しませんと…でもこの点では、私がアンジェリーナ様に教わる方ですわね」


 エメラルドグリーンの瞳を細めて、ふふ、と穏やかに微笑む顔は、いつもの“模範的なガヴァネス”からは少し離れた柔らかな印象だ。


 お誘いしてみようかしら…


「あの、ミス パウエル、もしよろしければ、この後お茶をご一緒に…いかがですか?」


 ステラ・パウエルは一瞬驚いたように目を瞬いたが、すぐに柔和な笑顔を浮かべた。

「はい、喜んで!」



 ダヴィネス城の庭は、秋の終わりを迎え、色とりどりの紅葉に彩られていた。


 庭の様子をゆったりと眺められるよう設えた一角に、カレンとステラ・パウエルは座る。


 屋外で全くの二人きりはさすがに許されないので、ニコルとハーパーにはできるだけ離れてもらった。


「美味しい…!」


 お茶を一口飲んだステラは、驚きとともに声を上げた。


「ふふ、茶葉は特別にブレンドしたオリジナルです。お気に召していただけたなら嬉しいですわ」


 その後、アンジェリーナ達の勉強の様子やここの生活に慣れたかどうか、などほぼ確認と言える会話を交わす。


「…本当に、よくしていただいています。お部屋も素敵ですし、お庭も生き生きと素晴らしくて」

 ステラは周りを見回す。


「私も他の領地から嫁いだ身です。来る前は、辺境ってどんな所なんだろうって、不安ばかりでしたの…やっていけるのかなと」


 ステラはカレンの話に、興味深そうに耳を傾ける。


「でも、何の心配もございませんでした。それどころか、ダヴィネス特有の自然や人々…ダヴィネスのすべてに魅せられましたの」


「…それはやはり、閣下のお力も大きいのでは?」

 ステラは楽しそうに瞳を揺らす。


「それは…はい…最も大きいことです」


 言った後に、カレンはハッとする。

 臆面もなく答えたことに、我ながら恥ずかしさが込み上げてきた。


 そんなカレンの表情を見て、ステラは口を覆ってふふふ、と声を立てて笑った。


「ごめんなさい、レディ。そんなレディだからこそ、閣下の愛も大きくなる一方なのですわ。お二人の仲睦まじさは、引きこもっていた私でもよく存じておりますもの」


 まさかステラにジェラルドとのことを取り沙汰されるとは予想だになく、カレンは目をぱちくりとさせた。


「本当に素敵なご領主夫妻です…そんなお二人の影響ですのね、アンジェリーナ様も伸び伸びとお健やかで。このダヴィネス城の方達も皆さんお優しくて…私のような者にも細やかなお気遣いをいただいております」


「……」

 カレンは微笑みつつも、複雑な気持ちが込み上げてくる。


 目の前の美しいガヴァネスは、決して心から幸せ、という訳ではないことは、わかり過ぎるほどわかる。

 しかし幸せの定義など、他人がどうこうすることではない。


 でも、でも……


「あの…、ミス パウエル、何か私がお力になれることは、ありませんか?」


 瞬間、二人の薄碧とエメラルドグリーンの瞳がぶつかった。


 晩秋の庭に、季節の移り変わりを予感させる一風が吹き抜ける。

 はらはらと枯れ葉が舞い散り、ステラの結い上げた黒髪から、はらりと後れ毛が落ちた。


 先に目を反らしたのは、ステラだった。


「…ありがとうございます、レディ。私はダヴィネスへ来られただけで、十分です」


 美しくも少し寂しげな微笑みは、カレンの心をギュッと締め付けた。



 カレンはその夜、思い悩んだ末に、隣国の姉、王太子妃ヘレナへ長い手紙をしたためた。


 ・


「なんだと?」


 王都、オーブリィ・ウィンダム公爵邸、当主の執務室。


 報告を受けたウィンダム公は、青筋を立てる勢いで部下へ冷たい視線を放った。

 日頃は常に薄く笑みを浮かべたスマートな公爵の怒りに触れ、部下は縮み上がった。


 その様子を目にした公爵は

「もういい。…引き続き調べてくれ」

 と、吐き捨てた。


 公爵はスッキリと秀でた額に手をやり、ふーっと大きな息を吐くと、立ち上がって窓から外の風景を見るとは無しに眺める。


 王都にあって広大な敷地を持つ公爵邸、その一室からは、夕暮れの街並みが見渡せた。


「…どこにいるんだ、ザヴィリア…」



 ─ザヴィリア・ロシャス・ヴァルキーズ─


 ステラ・パウエルのもうひとつの名前。

 母であるポーラ姫から、生涯愛すると決めた大切な人にだけ告げるように、と託された第三国の王族のみに許された名字である“ヴァルキーズ”の名前と共に授けられたものだった。



 ウィンダム公とステラ・パウエルとの出会いは、10年近く前に遡る。


 ステラは、隣国から父のパウエル卿とともに我が国を訪れていた。

 既に父の片腕として仕事をこなし、常に控え目に、父の陰に隠れるようにはしているが、夜会などには父のパートナーとして顔を出していた。


 ある王家主催の舞踏会。

 いつもは花から花へ優雅に舞う蝶のごとく、淑女達との語らいを楽しむウィンダム公も、王家主催の舞踏会には、割り切った関係のかりそめのパートナーと出席していた。


 ワルツを一曲踊った後互いに承知の上で、かりそめのパートナーとは別行動をとった。


 弟に跡取りになりそうな男児が生まれてからは、引退した父母からの独身主義に対する恨みがましい小言も無くなり、まさに悠々自適の独身貴族、といった風情だが、それでもふと、華やかだけではない社交界の喧騒が煩わしくなる時がある。


 今夜のような王家主催の大きな夜会は、我が国の貴族のトップに立つ者としての裁量が計られ、嫌でも注目を浴びるだけに、なかなか気の休まることはなかった。


 隣室へワインでも飲みに行こうか…と行き掛けたとき、その声が耳に飛び込んできた。


「いえ…! 私は踊りませんので…」


「いいではないですか、せっかくの舞踏会ですよ?」


「いえ…! 申し訳ありませんが、」


「私とのワルツはお嫌だと?」


「…!…」


「ほら、曲が始まりますよ」


 顔は見たことがある…貴族の子息らしい男は、最近社交界でちょっとした話題のエキゾチックな淑女に、強引にホールドを取ろうとした。


 二人の様子を目にしたウィンダム公は、短く息を吐くと二人に近づいた。


「紳士たるもの、無理強いはよくないですよ」

 見るに見かねて、二人に割って入った。


「!」「!」


「あっ、いや、ウィンダム公…私は別にっ……失礼します」


 男は突然の筆頭公爵の登場に青くなり、そそくさとその場を後にした。

 貴族階級の力関係は実にわかりやすい。


「…大丈夫ですか?」

 ウィンダム公は女性を気遣った。


「…はい。あ、ありがとうございます…」

 身を固くしたまま、その女性…ステラ・パウエルは応えた。


 少し、震えている?


「よろしければ、隣室で何かお飲みになりませんか? ノンアルコールもありますよ?」

 ステラを見たウィンダム公は、紳士的にステラを気遣った。


「…でも…」


 ステラは、ツイっとウィンダム公を見上げた。


「!!」


 ウィンダム公は目を見張る。


 ─エメラルドグリーンの瞳─!


「あ…の…?」


「いえ、失礼しました。隣室ではゆっくり座れます。さ、ご案内しますよ」


 いつものスマートさを一瞬失いかけたが、すぐに元の調子を取り戻し、ステラをエスコートした。

 そのまま椅子のひとつへとエスコートする。


「コーディアルでよろしいですか?」


「あ…はい」


 ごく近い距離で女性と接するのが常のウィンダム公だが、ステラとひとつ席を空けて座った。

 自身はワインのグラスを傾ける。


「あの…先程はありがとうございました」


 コーディアルを飲んで落ち着きを取り戻したステラは、改めてウィンダム公に礼を述べた。


「ん? …あぁ、いや。王家主催の夜会で野暮な振る舞いは許されないよ。私は当然のことをしたまでで…と、君は確か、隣国のパウエル卿の?」


 ステラはハッとする。

 自己紹介がまだだ。バッと立ち上がった。


「失礼いたしました。私はパウエルの娘のステラと申します」

 完璧な淑女の礼を取る。


 と、ウィンダム公も合わせて立ち上がった。

「ステラ嬢、お噂はかねがね。私はオーブリィ・ウィンダムだ。どうぞお見知りおきを」

 こちらも整った紳士の礼を取った。


 名前を聞いたステラは、「やっぱり」と頭の中で呟きながら再び腰かけた。


 さっきの無礼な男が“ウィンダム公”と、目の前の洗練された紳士を呼んだ時から、ステラには見当がついていた。


 この国の筆頭公爵。そのスマートなプレイボーイ振りは、常に社交界の注目の的だ。

 一糸乱れぬ整えられたプラチナブロンドにインディゴ・ブルーの瞳。一見冷たい印象を与えそうな程に整った面差しは、目配せひとつでいかようにも印象を変える。


 二人は再び席に着くと、互いに黙ってそれぞれのグラスを傾けた。


 …別の世界の人だわ…


 ステラはひとつ席を空けて座る紳士に、なるべく意識を向けないようにした。


「君は…」

 ウィンダム公がおもむろに話し掛けた。


「?」


「とても優秀だそうだね。父君のサポートはどう? この国での滞在を楽しまれているかな?」


 なぜ、筆頭公爵が私などに質問してくるのだろうか?

 暇潰し? まさか名うてのプレイボーイが? パートナーはどこへ?


 ステラはウィンダム公の質問の意図が掴みかねたが、助けてもらったのは事実だ。ここは素直に答えることにした。


「いえ、優秀なんて、買いかぶりですわ。私の知識はほぼ机上のもので、経験は伴いません。語学は父から習いましたが…」


「そうかい? 皆口を揃えて君を誉めているよ」


「それは…ありがとうございます」

 ステラは殊勝に礼を述べた。


 ウィンダム公はステラの様子を見て、ふっと笑みをこぼす。


「?」


「いや失礼。君は…なんて言うか、社交界に興味は無いの?」


「正直…興味はあまりございません」


 その率直な言葉に、ウィンダム公は一瞬真顔になった後、大笑いをはじめた。


「あの…? 私、何かおかしいことを言いましたか…?」


「あっはっは、おかしいって、君! はは!」


 いつもは至って落ち着いた様を崩さないウィンダム公の砕けた様子に、部屋の前を横切るご婦人がチラリと視線を向ける。


「あの…閣下…?」


 当分笑っていたウィンダム公はようやく笑いを収めると、今度は腕組みをしてステラを眺めはじめた。


 インディゴ・ブルーの瞳が、意味深にステラのエメラルドグリーンの瞳を覗く。


 ステラは父以外の男性に、この様に見つめられたことなど無く、しかも社交界きっての名うてのプレイボーイの強い目線に、思わず俯いた。


 ウィンダム公は、スルリとステラの手を取ると、そのグローブ越しにキスを落とした。


 ステラは息を飲む。


「…ではステラ嬢、私がご案内しよう我が国の王都を。楽しみ方はいろいろあるからね」


 ウィンダム公は“微笑み殺し”の異名よろしく、圧倒的な極上の笑みでステラを包んだ。

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