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郷愁(2)

「え?」


 翌朝、ひどい頭痛と共に目覚めたカレンは、ジェラルドから事の次第を聞いて耳を疑った。


 カレンは途中からの記憶がない。猛烈な恥ずかしさに襲われた。


「ご迷惑を…お掛けして申し訳ありません…!」


 ベッドでフルーツと頭痛薬の朝食後、そのままジェラルドと話している。


「いや、閉じ込められたのはあなただ。何も迷惑は掛けていないが…」

 珍しくジェラルドが言い淀む。


「…あの、私、何か変なことをしましたか?」

 カレンは焦った。


ジェラルドは少し間を置いた。


「…カレン、一度ストラトフォードの領地へ里帰りをした方がいい」


「……え?……」


 …やっぱり何かあったんだわ…


「私、何か…言ったのですね」

 カレンはしゅんとなった。


「そうではない。そうではなくて…」

 ジェラルドは片手でカレンの頬を包み、片手でその手を柔らかく握ると少し考えた。


「カレン、昨日あなたは『ストラトフォードへ帰りたい』と言ったんだ」


 そのままを伝えた。

「帰りたい」の深い意味合いはわかりかねるが、酔っていたとは言え泣きながらの言葉は身に詰まされた。


「…私、そんなことを…言ったのですか??」

 カレンは驚き、信じられないという顔で、空いた手で口を塞いだ。


 曖昧な記憶だが、ワインセラーで郷愁にかられたことは確かだ。

 でも…


 カレンは戸惑うが、ジェラルドは至って平和的に微笑む。


「いい機会だ。侯爵やお母上にもアンジェリーナの顔を見せたらいい」


「……」


 なぜそんなことを口にしたのだろう…

 ストラトフォードの領地は懐かしい。懐かしいが、まさか帰りたいとジェラルドに言うなんて…


「カレン?」


 考え込むカレンに、ジェラルドが話し掛ける。

「深く考えないで、カレン。故郷が懐かしいのはごく当たり前のことだ。特にあなたは領地を愛していたのだから」


「…はい」


 カレンは突然のジェラルドの提案に喜ぶ間もなく、勧められるまま、その日の午後から初の里帰りの準備を始めたのだった。


 ・


「今日のディナーはお嬢様のお好きなものをたくさんご用意しますよ!」



 ストラトフォード侯爵領のカントリーハウス。


 大きな邸の美しく整えられた前庭からはなだらかな緑地が広がり、遠くには羊が草を食む姿が見える。

 秋の盛りを迎えた木々は鮮やかに紅葉し、その豊かで穏やかな風景はカレンのよく知るものだった。


 カレンの突然の初の里帰りの一報に、ストラトフォード邸の使用人達は両手を上げ、大喜びで準備を整えた。

 カレンの好物をよく知る料理長も大張り切りだ。


 王都に居た両親も「アンジェリーナの顔が見たい」と、タウンハウスは兄家族に任せて急ぎ領地へと帰ってきたのだった。



 ニコルとアンジェリーナのナニー、ハーパーをはじめとする護衛の騎士数名と共にダヴィネスを出てから、半月ほどが経つ。


 馴染みのある使用人達は嬉々としてカレンやアンジェリーナの世話を焼き、カレンは日々楽しく過ごしていた。



「お顔立ちはあなたに似てるけど、この瞳は閣下と同じだわね…とても綺麗」


「賢そうな目をしておるが…似るのはお前の顔だけがいいぞ。破天荒な所が似るとやっかいだ」


「お父様ったら…」

 カレンは苦笑する。


 ストラトフォード侯爵夫妻は、娘と辺境伯閣下との間に生まれた孫への興味が尽きない。

 二人とも目を細めてナニーと遊ぶアンジェリーナを見ている。


 両親の様子を見るにつけ、カレンは里帰りを提案してくれたジェラルドに感謝の念が湧いていた。


「そうそう。今年もイングラムからワインが届いたのよ。ちょうどいいから今夜のディナーで楽しみましょう」


 “イングラム”は親友のアリシアの実家で隣領地だ。広大なワイナリーを有しており、ワイン産地として名高い。

 ストラトフォードとは昔から交流があり、毎年作りたてのフレッシュなワインがもたらされていた。


 カレンはふと、里帰りのきっかけになった、ダヴィネス城のワインセラーで閉じ込められた出来事を思い出した。


 あの時助けてくれたジェラルドに、ストラトフォードへ帰りたい、と、そんな言葉を私が口にしたのよね…たぶん。


 ジェラルドは快く里帰りを提案してくれたが、カレンはずっと少しの引っ掛かりを感じていた。


 …私、ジェラルドを傷つけてないかしら…


 ダヴィネスへ行ってからこちら、カレンは里帰りしたいと言ったことはおろか、本気でそう思ったこともなかった。

 日々慌ただしく、忙しくしていたせいもあるが、それだけ毎日が充実していた。


 ・


「お前、閣下と喧嘩でもしたのか」


「え?」



 ある日のディナーの後、父侯爵に「ちょっと付き合え」と誘われて、カレンは食後酒を共にしていた。


 父とこのように寛ぐのは初めてだったが、何か話したいことがあるのかと思い、カレンは素直に応じた。


 予想通り、父はいきなり核心にふれてきた。


「いいえ!喧嘩などしていません…というか、ジェラルドとは喧嘩にならなくて…」


 まぁ、それはそうだろうな、と父は厳めしい顔にふっと笑みを浮かべた。


 …そうか、お父様は私の急な里帰りを心配なさったのね


 カレンは多少の居心地の悪さを感じながら、グラスを口に運んだ。


「私たちは、遠く辺境に嫁いだ末子のお前が孫と一緒に帰ってきてくれたことを喜んでいるが…ダヴィネスは領地内の視察がはじまる頃だろう。領主夫人のお前が城を空けていいのか」


 父は容赦なく切り込んでくる。


「それは…」


 カレンも考えなかったワケではない。


「お前もどことなく上の空だ。気になっとるんだろう…閣下の気遣いに甘えてばかりでは務まらんぞ。早めに帰りなさい」


 …久しぶりに会ったというのに、全く厳しい。


 しかし、父の言うことは最もだった。


「…はい」


 カレンはしばらく父と他愛ない会話をした後、自室に戻った。


 結婚前となんら変わらない部屋は、ダヴィネス城の自室と驚くほどよく似た雰囲気だが、やはり何かが違うとカレンは感じる。

 カレンはソファに腰掛けた。


 この胸の中の隙間はなんだろう……


 幼い頃から慣れ親しんだ侯爵邸

 過ごしやすい穏やかな気候

 カレンを幼い頃から知る、気の利いた使用人達

 護衛を伴わずとも許される外出…


 ここへ着いた時に、無事に着いたとダヴィネス城のジェラルドへ鳩を飛ばしたが、ジェラルドからは短く「好きなだけゆっくり過ごすように」とだけ返信が来た。


 どれひとつ取っても、カレンにはありがたく心安らぐことだ。


 けれど…


 ─ ジェラルドがいない ─


 快く送り出してくれたにも関わらず、カレンは日に日にこのことで頭がいっぱいになるのを感じていた。


 ∴


「今日はシャンパンもいいわね…あなたが選んでくれる?カレン」


 ディナーカードを見ながら、レディ ストラトフォードがカレンに話し掛けた。


 レディ ストラトフォードはワインへの造詣が深く、料理長からのディナーカードを見て、自身が適当なワインを選んでいた。

 いつもはディナーカードにワインの銘柄を記入し、あとは執事に任せるが、今日はカレンへとその仕事を任せた。



「…シャンパンね、」


 これと…あとは白…


 カレンはストラトフォード邸のワインセラーで物色する。

 母のようにすべてのワインの銘柄が頭に入ってはいないので、実際にワイン棚の前でアレコレと検討していた。


「うん、あとはコレにするわ」


「かしこまりました」

 ストラトフォード家の老長けた執事は心得たとばかりに、カレンの選んだワインをメモへ書き付けると、早速ワイン棚から今夜のワインを取り出す。


「…ねぇ、お父様の生まれ年のワイン、随分少ないのね」


 カレンは見るともなしに、ワイン棚を眺める。


 ははは、と、カレンを幼い頃から知る執事はおおらかに笑う。

「旦那様は昔から、ご自身のことにはあまりこだわりがなく…もちろん知識は豊富でいらっしゃいますがね。イングラム領と懇意にしていることも大きいでしょう。ストックせずとも、いつでも美味しいワインを手に入れられますから」


 ・


 ダヴィネス城の執務室。


 フリードが横目でジェラルドの様子を伺う。


 いつもとなんら変わらない様子だが、カレンが里帰りしてから、いつもより口数が少ない。

 機嫌の悪さはないが、表に出さない分内へ溜めているのではないかと邪推したくなる。


 城のスタッフ達もどことなく手持ち無沙汰な様子で、ダヴィネス城全体が静まっているかのようだった。


「視察の準備は順調か?」


 ジェラルドはふいにフリードに尋ねた。


「いつも通り万全です」


「そうか」


 ジェラルドは手元の書類から目を離さない。


「ジェラルド」


「なんだ?」


「カレン様はいつまでご実家におられますか」


 ジェラルドが顔を上げ、フリードを見る。

「どうかしたか」


「いえ…なんとなく、あなたの元気がなさそうなので」


 フリードの言葉にジェラルドは表情は変えなかったが、フリードから目線を外すと無造作に髪をかきあげた。


「エマからも、今朝同じことを聞かれた」


 使用人達は、カレンの急な里帰りを秘かに心配していたのだ。


「…実際のところ、何かあったんですか」


 ジェラルドは、酔っぱらったカレンの発言は誰にも言っていないし言うつもりもなかった。


「心配するな、何もない」


「ジェラルド、それ鏡で自分の顔を見たら言えないと思いますよ」


 ジェラルドはフリードを一睨みすると、ペンを置いて「ふーっ」と息を吐き、腕組みをした。


「妻と娘が側にいないんだ。寂しくないワケがない…お前もわかるだろう」


「…ええ」


「しかし、カレンにはあえて里帰りの期間は言わなかった。これから先、彼女も忙しくなるだろう。いつ里帰りができるかはわからないんだ。好きなだけゆっくりして欲しい」


「…それ、本音ですか」


「…もちろんだ」

 ジェラルドは極めて当たり前だという風だ。


 フリードは、ふーんとジェラルドを眺めつつ、仕事を再開した。


 ∴


「ありゃ禁断症状だな」


 アイザックとフリードは、人もまばらな兵舎の食堂で遅めのランチを取っていた。


 フリードは食事の手を止めた。

「…ジェラルドですか」


 アイザックはミートパイを頬張りながら「そ」と答えた。


 フリードはカップに入った水をゴクリと飲んだ。


 カレンが里帰りをしてから1ヶ月近く経つ。

 フリードの問いには寛容な態度を見せたジェラルドだが、相変わらず口数は少なく、いつもの覇気は無いような気がする。

 これに気づくのは、恐らくフリードとアイザックだけだ。


 まったくジェラルドらしくない。


 来週から領地内の視察がはじまる。

 領主たるもの、さすがに態度は切り替えるだろうが、領主の威厳に部下達は敏感だ。

 連日の強行軍を押すのは今のままではまずいのでは、とフリードの勘が訴えかけていた。


「ザック」


「ん?」


「ストラトフォードの領地までの往復は、最短で何日ですか」


 フリードの言葉にアイザックは目を見開き、次いでニヤリと笑って、急いでミートパイを咀嚼すると飲み下した。


「徹夜で飛ばして、そうだな…1週間…いやジェラルドなら5日か」


「視察のスケジュールは最低限の変更にするとして…」


「余計な世話焼くか?年上ヅラで」


「ええ。焼きますよ…ザック、視察前に無理を言いますが、ジェラルドに同行してください」


「そう来るよな、当然…任せろよ」


フリードとアイザック、ジェラルドの二人の盟友は、ニヤリと顔を見合わせた。


 ・


「ニコル、ちょっと散歩に出てくるわ」


「あ、はい」


 カレンはアンジェリーナの昼寝の時間を見計らって、散歩に行くことにした。


「では僕が護衛に」


「いいのよハーパー、ここはダヴィネスじゃないから」


「しかし…」


 ニコルはハーパーの腕を取り、いいからいいから、と制した。


「あ、でも奥様、まだ日差しが強いのでボンネットだけはお被りください」

 と、ニコルがカレンにボンネットを手渡す。


「ありがと、ニコル」


 カレンはボンネットを受けとると、足取りも軽く散歩へ出掛けた。


 美しく整えられた前庭を通り抜け、低い生垣の続く散歩道をのんびりと歩く。


 見慣れた故郷の秋の景色は、どこまでも穏やかだ。


 …なんだろう。

 カレンは、ふとダヴィネスの秋を思い出した。


 涼やかな風が山から吹いてきたと感じたら、木々はあっという間に紅葉し、急速に秋が深まる。


 数年過ごしたダヴィネスを懐かしく思うことに、自分でも驚いていた。


 散歩道の途中にはオークの大木があり、カレンは昔、よく木登りをしていた。

 目の前のオークは紅葉が始まり、緑の中に黄色の葉が混じっている。


 …久しぶりに、登ってみようかしら


 カレンは辺りを見回し、誰もいないことを確認するとボンネットを取り、シルク製の華奢な靴と靴下を脱ぎ捨てた。


 一際大きな幹に手を掛け、片足もゴツゴツとした幹に掛けると、グッと全身に力を込めて登りはじめた。

 デイドレスの裾が邪魔だが、カレンは構わず上へと登る。素足が露になり淑女にあるまじき格好だが、乾いたオークの樹皮の感触は懐かしく、無心で数年ぶりの木登りをした。


「ふう!」


 かなりの高さまで登り、座るのに丁度いい幹までたどり着いたカレンはぶらりと足を垂らして座った。


 そこからは、どこまでも平野の続く広大なストラトフォードの領地が見渡せた。


 秋色に染まる牧歌的な大地。

 これまでも、そしてこれからも変わらないだろう。


 時が止まったかのような風景を見ていたカレンは、ふと遠くから数頭の蹄音の響きを感じた。


 集中して耳を澄ませる。


 と、散歩道のずっと先に、乗馬の一団を認めた。


 馬車ではなく乗馬とは…王都からお父様への急ぎの便かしら?


 不信に思い目を凝らす。


 一団はすごいスピードで、まっすぐに邸を目指して近付いてくる。


 ん?


 先頭の青毛…スヴァジルによく似てるわ。


 夫の愛馬の青毛…


 そう思ううちにも、一団はみるみるうちに近づいてきた。


 似ているのは馬だけではない。その馬上の人物…

 一見してわかる逞しい体躯と棚引く黒のマント、ダークブロンド…


 まさか…!!


「ジェラルド…?」


 声に出していた。


 よく見るまでもなく、一団の先頭を走るのはスヴァジルとジェラルドだ。

 ジェラルドのすぐ後ろには、青鹿毛のスモークに騎乗したアイザックが走っている。


 カレンは木の上から、呆然とジェラルドの一団が向かって来る様子を見守った。



「やっぱ走りやすいな、平地って!」


「そうだな」


 脚に負担がかからない分、馬達は疲れ知らずでよく走り、予定より早くストラトフォード邸へ着きそうだ。


 視線の先に、紅葉した大きなオークの木が見える。


「「ん?」」


 ジェラルドとアイザックが同時だった。


 オークの木のかなり上の方に釘付けとなる。


 目の良いアイザックは既に笑いが止まらない。


 これはまた…


 2人の視線の先には、素足を幹から垂らした領主夫人が、じーっとこちらを見ていた。


「ははっ おいジェラルド、お前姫様を回収してから邸に来いよ。俺達は先に行っとく!」


 言ったと同時に「ハッ」とスモークへ声を掛け、騎士達と共にストラトフォード邸へ馬足を速めた。


 途中、カレンの登ったオークの木を通りすぎる時に、ニヤリとカレンを見上げ、後ろのジェラルドへと目線を流すことは忘れない。


 木の下を通りすぎるアイザック達を見送ったカレンは、速度を緩めたジェラルドが近づく様をじっと見つめる。


 ジェラルドの深緑の瞳は、カレンから離れることはなく、ついにオークの大木の根本まで来て止まった。

 馬上からカレンを見上げた姿勢だ。


「ずいぶん高い所まで登ったものだな」


 約一月ぶりのジェラルドの声。


「降りられる?」


「…ジェラルド…どうして…?」


 驚き過ぎてあまり言葉の出ないカレンに、ジェラルドが微笑む。


「…会いたくて。あなたに」


 爽やかな秋風がオークの葉を揺らし、ジェラルドのダークブロンドの髪を乱す。

 乱れた前髪の間から見える深緑の瞳は熱を湛え、頭上のカレンを見上げていた。


「……ジェラルド……」


 ジェラルドは微笑むと、馬上から両手を伸ばした。


 ここへおいで

 私の胸に……


 カレンは背筋を伸ばすと、そろり、と素足を太い幹へとはわせた。

 まさか馬上のジェラルド目掛けて飛び降りるわけにもいかず、ある程度の高さまでは自力で降りる。


「あ!」

「! カレン危ないっ」


 ズルリ、と足が滑り、そのまズルズルと幹に沿って落ちそうになった所を、騎乗したままのジェラルドが慌てて両足ごと捕まえた。


「カレン、大丈夫だから手を放して」


 カレンの手はまだ幹を掴んでいる。

 かなり危ない体勢だ。


「っ!ん…」


 ジェラルドに言われるまま、カレンは手を放すと、ジェラルドは降りてくるカレンの足から腰へと器用に捕まえて、馬上の自分の胸元へと収めた。


 ジェラルドの逞しい腕にすっぽり抱えられたカレンは、ほうっと息をついた。


「…危なかった」


 頭上から、ジェラルドの低く滑らかな声が落ちてきた。


 カレンは咄嗟に顔を上げると、視線がぶつかる。


「…………」


 その揺らめきに、色合いに、深さに、吸い込まれそうになる。

 いつでもカレンを魅了し、絡めとる瞳とムスクウッディの男性らしい香り…

 久方ぶりのジェラルドとの再会に、カレンは言葉がすぐに出てこない。


 呆けたようにジェラルドを凝視するカレンの乱れた髪をジェラルドはゆっくりと愛おしげに撫でると、クスリと笑った。


「…私の顔を忘れた?」


「あ、いえ…!」

 カレンは何故か、急に恥ずかしくなり俯いた。


 ジェラルドはカレンの顎をすくうと、少しの力で上向きにさせた。

「ん?」瞳だけで、有無を言わせずカレンに問う。


「…こちらに来て、いつも思い描いていたのジェラルド、あなたを。…でも、」


「でも?」


「本物は想像など及ばないほどに…素敵で……」

 なんだか私、恥ずかしくて…


 ジェラルドはカレンの頬を大きな手で覆うと、ゆっくりと口を塞いだ。


 ジェラルドの温もり、香り、大きな手の感触、繋がった唇から伝わる熱…すべてカレンの欲して止まないものだった。


 なんだか夢みたい…


 唇を離すと、額同士を付ける。


「好き…ジェラルド…大好き」

 思わず口をついて言葉が漏れる。


 ジェラルドのカレンを抱き締める腕に力がこもる。


「…あなたのいない毎日が、どれ程空虚だったか、あなたにはわからないだろう…会いたかった、カレン」


 カレンの耳元で、ジェラルドが呟く。


 まるですがるようなその言葉にカレンは驚きつつも、また自分も同じ思いだったと応えるように、強くジェラルドを抱き締めた。


 馬上の二人は、互いの存在を確かめるように固く抱き合った。



 かなりの間そうしていたが、さすがに邸へ戻らねばならない。


 二人は微笑み合う。


 ジェラルドはカレンをスヴァジルに乗せたままひらりと下馬し、オークの根本に脱ぎ捨てられたカレンの靴下と靴、ボンネットを拾った。


「…まさか木登りのあなたに迎えられるとはな…驚いたぞ」


「ふふ、木登りは昔から得意なのです」

 カレンはニコニコと答える。


 ジェラルドは眉を上げる。


 素足をさらすのはいただけないが…

「お転婆娘はわかっていたが、まったくあなたは…」

 半ば呆れながら、馬上のカレンの足へ靴下を履かせようとする。


「あ、そんなジェラルド様、私も下ります」


 夫とはいえ、辺境伯閣下に靴下を履かせてもらうのはさすがに憚られる。

 カレンはジェラルドが手を貸す間もなく、するするとスヴァジルから下馬した。


「カレン、裸足だぞ?」


「だって、足の裏が気持ち良くて」

 瞳を煌めかせ、まるで少女のように草の上で足踏みをする。


「カレン…」

 久しぶりに会ったカレンの、無防備な姿が眩しくて仕方ない。


 さすがにここまでの無防備さはダヴィネスでは無理だろう。

 懐かしいストラトフォードで過ごすうちに、令嬢時代に戻ったようなカレンを新鮮な心持ちで眺める。


 カレンはジェラルドから靴や靴下を受け取ると、空いた手をジェラルドと繋いだ。

 ジェラルドは空いた手でスヴァジルの手綱を引く。


 心地よい秋の日の午後、ダヴィネス領主夫妻はストラトフォード邸へと続く散歩道を、肩を並べてゆっくりと歩く。


 カレンは、ふと二人でストラトフォードに居るのは初めてだと気づいた。

 まさか、辺境伯閣下と手を繋いでこの道を歩くとは、ジェラルドと出会う前の自分は想像もしていなかった。


 横に並ぶジェラルドの精悍な横顔を見る。

 秋の日差しに、ダークブロンドが透けている。


「…ジェラルド、ありがとうございます。お忙しい中来てくださって…」


 ジェラルドはカレンを見ると、形の整った唇ににっこりと笑みを乗せた。


「もう少し我慢できるかと思ったが…無理だった。どうやら顔に出ていたらしい…フリードに尻を叩かれたんだ。早く迎えに行けと」


「まあ!」

 そうだったのですね!さすがの側近のフリード卿だわ。


 カレンは思わずクスクスと笑った。


 ジェラルドは微笑むと、スヴァジルの手綱を持ったまま髪をかきあげ、カレンと繋いだ手を持ち上げるとその手にキスをした。



「とうしゃま~~」


 二人の目線の先には、アイザックと肩車をされたアンジェリーナがいた。


「おおーい、早く来いよー」

「オオーイ」


 アイザックの口真似をする可愛い我が子に苦笑しつつ、二人は顔を見合わせると足を速めた。 


 ・


 その日の夜、侯爵邸では侯爵夫妻と娘、娘婿の4人で和やかな晩餐が催された。


 ジェラルドがカレンを迎えに来ることは事前に鳩便で知らされていたが、侯爵夫妻は末娘には伝えておらず、サプライズとしたことをディナーの席で明かされたのだった。


 ジェラルド一行は、明日は1日ストラトフォード領で過ごし、明後日にはカレンと共にダヴィネスへ立つ。

 侯爵と辺境伯は“義理の父と娘婿”として、ディナーの後、秋のテラスで酒を酌み交わす。


「閣下、ダヴィネスからここまで夜を徹して馬を駆って来られたのだろう。今日はゆっくり疲れを癒されるといい」


「恐れ入ります」


 侯爵は口許に笑みを浮かべてグラスを傾けかけ…「お!」という顔をした。


「私としたことが…すまない閣下、もちろん娘と…カレンと一緒に休んでくだされ。客間よりもあの子の部屋の方がいいか…?」

 強面の侯爵も、お気に入りの末娘のことになると、とたんに親の顔になる。


 ジェラルドはそんな義父侯爵の様子が微笑ましく「ありがとうございます」と折り目正しく礼を述べた。


「ところで閣下…あの子は領主夫人の役目をきちんと果たしておりますかな? まだまだ娘気分が抜けておらぬようで…」

 カレンと同じ薄碧の瞳の奥の厳しさはそのままに、侯爵はジェラルドに聞いた。


「はい。ご心配には及びません。領主夫人として、アンジェリーナの母として、立派に…“カレンらしく”励んでくれています」


「閣下をお支えできておりますかな」


「存分に」


 ジェラルドの力強い答えに、侯爵は幾分ホッとしたように「そうか」と返すと、グラスの琥珀色の酒を一口飲んだ。


「邪推ならば良いが、この度の里帰りも急だったのでな、あの子の母も心配しておったのです。負担が大きいのではないかと」


「…負担、ですか」


 侯爵は、ふむ、と考える。


「辺境の地は我が国の要であることはもちろん、貴殿の働きで急成長していることは周知だ。他の領地とは何もかも違う。あの子に辺境の全てを理解し、清濁併せ呑む覚悟があるのか…今更ながら、わしは未だに疑問に思う時もあるのです。頭ではわかっておっても、いざ現実を目の当たりにすると、あの子は…カレンは正しい判断ができるのかと」


 侯爵の言葉に、ジェラルドは少なからず驚いていた。


 ジェラルドの知る侯爵は、常に実に強かに腹黒く立回り中央政治の重責を担っている。

 誰に対しても、決して厳しさを弛めない筆頭侯爵の“父”である姿を、その葛藤を目の当たりにした。


「先ほど私は“カレンらしく”と言いましたが…つまりは、いつも正しくなくても構わないと、そう思っています」


 ジェラルドの言葉に、侯爵は「ほう?」と目を見開いた。


 ジェラルドは続ける。

「これからも日々変わり続ける辺境において、時にそれまでの慣習や拘りは足枷になることもあるでしょう。実際にそんな場面もありましたが…カレンはいつも彼女の心に偽りなく、決断し実に大胆に行動に移します。その度、皆カレンを好きになる」


 いつの間にか、侯爵は顎に手をやり興味深い様子でジェラルドの話を聞いていた。


「私も、もう何度カレンに救われたかわかりません。彼女がダヴィネスに居てくれることが奇跡のようにさえ思います」


 ジェラルドはグラスに口を付けた。


 侯爵はジェラルドを見つめる。


「…つまり、娘は閣下にとってかけがえのない存在だと?」


「ええ。間違いなく」


「今回は純粋な里帰りだと?」


「はい」


 二人の男は、黙って見つめ合う。

 互いに読めない顔色ではある。


「…しかし私の辛抱が足りず、今に至ります」


 ジェラルドがニッコリと極上の笑みを湛えると、「ふっ」と漏らした侯爵は、次いで今だかつて誰も目にしたことが無いような大笑いをはじめたのだった。


 ・


 ストラスフォード邸、カレンの自室。


「…なんだか悪いことをしている気分になる」


 久しぶりに同じベッドに横たわるカレンとジェラルド。


 淡いベージュとライトセージで統一された部屋の、白い天蓋に透けるレースカーテンで囲われたカレンのベッドで愛し合った後、カレンを腕に収めたままのジェラルドはふいに呟いた。


 カレンはジェラルドの言葉にクスクスと笑う。


「…私は、とても不思議な気分です。この部屋に…私のベッドにあなたが居ることが」


 カレンは言いながら、向かい合ったジェラルドの髪を撫でると、その秀でた額…髪の生え際から頬へ、確かめるようにゆっくりと手をなぞらせる。


「この部屋は以前と何も変わらないけれど、私は確かに変わりました…あなたの妻で、アンジェリーナの母で居られることが、とても誇らしくて嬉しい…」


「カレン…」

 ジェラルドは頬に添えられたカレンの掌にキスすると、そのままスルスルと手首、腕へとキスを重ね、いつの間にか再びカレンを組み敷いた。


「…ジェラルド?」


 ジェラルドは滴るような色香を持って、その深緑の瞳を揺らす。


「このあなたのベッドは私にとって背徳的だ。侯爵令嬢のあなたと妻のあなた…同時に抱いているような気分になる」


「二度美味しい…?」


 いたずらっぽく瞳を輝かせたカレンの言葉に、ジェラルドは一瞬目を見開いた。


「…まったく、この口は私を煽る術に長けている」

 太い親指でカレンのふっくらと艶めく唇をなぞると、性急にキスを深めた。


 ・


「閣下、カレン、道中気をつけるよう」


「はっ」「はい」


「アンジェリーナ、元気でな。よく食べ…いや食べてはいるな、よく遊び、よく学びなさい」

 侯爵はアンジェリーナの頭を撫でる。


 厳しい父も、孫娘には温和な祖父の顔だ。


「カレン、鳩も乗せたから、いつでもお使いなさいな」

「ありがとうございます。お母様」



 ストラトフォード邸の馬車寄せで、侯爵夫妻や使用人達の見送りを受ける。


「旦那様」

「おお、そうだった…カレン、これらをダヴィネスへ持って帰りなさい」


 執事に声を掛けられた侯爵は、使用人が運んできたいくつもの大きな木箱へと目を向ける。


「お前、自分の生まれ年のワインが少ないとヘソを曲げたそうだな」


「へ…ヘソ!?」

 カレンは隣のジェラルドを仰ぎ見ると、ジェラルドはさも愉快そうな、意味深な微笑みを浮かべている。


 カレンは一瞬で頬を染めた。

 まさかワインのことを父にバラされるとは思ってもなかった。


「昨日イングラムヘ頼んで、至急にお前の生まれ年のワインをかき集めてもらった。もううちにもイングラムにも1本も残っとらんぞ。丸ごと持って帰れ」


 見れば、父の隣の母も手で口を覆ってクスクスと笑っている。


「ワインの数でも揃えなければ、あなたを引き留められないかなと思って」

 ジェラルドが冗談めかしてカレンの耳元で囁いた。


「…まったくお前は本当に大切にされとるぞ。たかがワインのことと言いたいが…閣下の気持ちに報いなさい、カレン。ダヴィネスで益々励むように」


 こんな時、自分は本当に甘やかされていると痛感する。


「…はい、お父様」

 カレンは、しっかりと答えた。


 今度はいつ来られるかはわからない。

 しかし、寂しいとは思わない。


 ─はっきり言えるわ

 私の家はダヴィネス…ジェラルドの隣だと─


 カレンは故郷の風景とストラトフォードの人々の顔をしっかりと胸に刻み付け、大量のワインと共に、秋の深まるダヴィネスへの帰途についたのだった。

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