郷愁(1)
本日はボージョレ・ヌーボーの解禁日ですね。
かつてほど話題に上らなくなりましたが、せっかくですので記念日に合わせてワインネタを絡めたエピソード(番外編も含む)を三日連続で投稿いたします。
お楽しみいただけたら幸いです。
「わぁ…とても美味しいわ…!」
「それはよろしゅうございました」
ダヴィネス城地下の広大なワインセラー。
カレンは初めて足を踏み入れたワインセラーで、自ら名付けた『Whisper of Daviness』の試飲をしていた。
数年前、まだ婚約時代のテイスティングの会でカレンが名付けたそれは、今や王都や隣国でも大人気で、ダヴィネスの特産品となっていた。
時を経て熟成された『Whisper of Daviness』は、より香り豊かでまろやかな味わいとなり、カレンを感動させた。
妊娠から出産、アンジェリーナの乳離れを経て、カレンはアルコールを久々に口にする。
ワインセラーは執事であるモリスの管轄なので、たとえ領主夫人でも勝手には入らない。
しかし、カレンがアルコールを再開するにあたり良い機会だから、とワインセラーの見学を兼ねて、試飲をしていた。
ダヴィネス城地下のワインセラーは、カレンの実家であるストラトフォード侯爵家領地のワインセラーの優に倍はあるだろうか。大きなワイン樽とボトルに収められたワインの棚が整然と並ぶ様は圧巻で、ダヴィネスが素晴らしいワイン産地であることを実感させた。
食事の際のワインのセレクトはモリスの采配だが、今夜のディナーのワインは、特別にカレンの好みで選ばせてもらえるとのことで、カレンはワクワクしながらワインセラーに居た。
居城のワインリストを把握するのも領主夫人の役割らしいが、カレンにとっては心踊るばかりの役目だ。
「では、まずはこちらの『Whisper of Daviness 1XXX』と…」
モリスが何やらメモへ書き付けている。
と、そこへ若手の侍従のトーマスが現れた。
「失礼いたします。モリスさん、ジェラルド様が至急ご相談があるとのことで…」
申し訳なさそうに言う。
モリスは少し困った顔だ。
「モリス、構わないわ。私はここで待ってるから」
カレンはジェラルドの用事を優先させた。領主の用事は執事の最優先事項だ。
「…申し訳ございません、カレン様。私が戻るまでニコルをこちらへ呼びましょう」
カレンは微笑んで「お願い」と言った。
モリスは「失礼いたします」と言うとワインセラーを離れた。
カレンはセラーの奥深くそして頭上高くまで続くワインの棚を見回す。
…そう言えば、と、兄のショーンがストラトフォードのワインセラーへ忍び込み、朝までワインを飲み散らかしたことをふと思い出した。
あの時はお父様に禁酒を命じられていたっけ…
「ふふ」
カレンは思いがけず懐かしい領地のことを思い出した。
並ぶワインを見ながらコツコツ、と歩みを進める。
「あ」
ある棚の前で足を止めた。
[1XXX ジェラルド坊っちゃまの生まれ年]
ふと見ると、そう刻まれた木の札の掲げられた棚がある。
確か…ジェラルドの生まれ年は当たり年って聞いたわ…
ダヴィネス城では毎年、ジェラルドの誕生日のディナーには、必ずジェラルドの生まれ年のワインが食卓に並ぶ。
「赤、白、白…」
かなりの数のワイン…すべてジェラルドの生まれ年だ。どう見ても生きている内には飲みきれない程の数に驚く。
「さすがだわね…」
カレンは、執事モリスのダヴィネス領主への畏敬の念と仕事の堅さに感心しきりだ。
「あ、コレ、美味しいのよね…」
ジェラルドの生まれ年のフルボディの赤。ジェラルドのお気に入りだ。
「……」
ニコルはまだ来ない。
カレンは手持ち無沙汰と少しの好奇心が沸いた。
たくさんあるし、1本、いいかな…
元々はお酒を好むカレンだ。
死ぬほど欲した訳ではないが、出産してから離乳までの間、たまに食事と共にワインを嗜みたいと全く思わない訳ではなかった。
カレンは思いきってジェラルド生まれ年の、フルボディの赤のボトルを手に取った。
試飲用の机代わりに、縦に置いてある樽の上には、栓抜きとグラスがある。
実家では執事の仕事も側近くで見ていたし、手伝いもしていたので、栓抜きはお手の物だ。
器用にラベルを剥がしスポンと栓を抜くと、芳醇な薫りが漂う。
トクトク…とグラスに注ぎ、少し上にかざしてランプの灯りにあてて見る。
トロリとした深い赤…
ひとくち口に含む。
…んー!素晴らしいわ…!!
久しぶりに口にする重厚な赤ワインは、鼻から豊かな芳香が抜け、喉から体へ沁み渡るような感覚を覚える。
…これには…やはりお肉よね。
ラムチョップのクランベリーゼリー添え…ラーテッド・スイートブレッド(仔牛の胸腺)…牛フィレ肉のハーブバター添え…
「うーん…」
次から次へと浮かぶメニューに引っ張られ、カレンはグラスへとワインを注いだ。
ガチャガチャ…ガチャリ
ん?
扉の方から音がしたので、近づき取っ手を捻ってみる。
…開かない
どうやら、閉じ込められたらしい…
・
「ニコル、慌ててどうしたのさ」
青い顔のニコルが廊下を小走りするのを見て、ハーパーが声を掛けた。
ニコルは素早く辺りを見回すと、サッとハーパーの側に駆け寄った。
「奥様が…!」
「レディがどうかしたのか?」
「奥様がおられないのよ…!」
「…え?」
ハーパーも顔面蒼白になった。
・
「あ、これはアンジェリーナの…」
[1XXX アンジェリーナ様の生まれ年]
まだ真新しい、いくつかのワイン樽に掲げられた札を見て、カレンは笑みを浮かべた。
本当にありがたいことだわ…
カレンはワイングラスを片手に、ワインセラーの中を見物して歩く。
どうやら閉じ込められたようだが、いつかは誰かが気づくだろうと悠長に構え、ワインセラーをじっくりと見物していた。
…ワインを飲みながら。
アンジェリーナがこのワインを口にするのはまだまだ先よね。ダヴィネス城とともに、あの子の歴史も刻まれていくのね…。
カレンはふと、自分の生まれ年のワインのことを思う。
確か、アリーからプレゼントされたことがある。
親友のアリシアの実家である隣領地は、素晴らしいワイナリーを所有していたので、お酒を飲める年の誕生日にもらったのだ。
「ふふ、懐かしい」
時を刻むワインに囲まれて、カレンは郷愁を感じた。
ふう…なんだか熱い。
・
「…それで?カレンを最後に見たのは誰だ?」
ジェラルドの執務室で、ヒヤリとした空気の中、居並ぶ使用人達を前にジェラルドが幾分低めの声だ。
「…定かではなく…」
モリスが気の毒なほどダラダラと冷や汗を流す。
「順を追ってみましょう」
見かねたフリードが冷静に割って入った。
ジェラルドにとってカレン絡みは拗れるとやっかいなことは、フリードが一番わかっている。
「まず、モリスはワインセラーでカレン様と一緒だった」
「…はい」
「トーマスから、ジェラルドからの呼び出しを受けて、ニコルを寄越すことにした」
「その通りでございます」
「トーマスに、ニコルへワインセラーへ来るようにと伝言をしたと」
「はい」
フリードはトーマスへ視線を移した。
トーマスはビクリとする。
「さてトーマス、ニコルへの伝言は?」
「あの…レディのお部屋へ行く途中に、エマさんに呼び止められて、お茶の葉のブレンドについてモリスさんに相談したいと言われました」
「ふむ…で?」
「まずはレディのお部屋にいるであろうニコルを呼びに…」
「ニコルは居たのか?」
突然ジェラルドが割ってきた。
「い、いえそれが…ノックをしても返事がなく…」
と、全員がニコルへと視線を向けた。
ニコルは無言でビクリと肩で反応した。顔色はまだ青く、ハーパーが心配そうに横に居る。
「あ、あの…今日はクローゼットの模様替えをしておりまして…恐らくノックの音が聞こえなかったかと…」
後半は消え入りそうに小さな声だ。
ジェラルドとフリードは顔を見合わせた。
フリードはそのまま続ける。
「…で、どうしたんだ、トーマス」
「ニコルはお部屋にいないと思いましたので、先ずはアンジェリーナ様のお部屋へ…」
「…で?」
「いなかったので、既に地下へ降りたのかなと思いました…それで取りあえず僕も地下へ行こうとして…」
「私はランドリールームへ行きました」
ニコルが発した。
「トーマスがアンジェリーナ様の部屋へ行っている間か…」
フリードが顎に手をあてる。
トーマスが続ける。
「ワインセラーへは厨房を通るので、オズワルドさんに、ニコルはここを通ったかと尋ねたんです。そしたらオズワルドさんは『通ったよ』と答えました」
「ランドリールームは厨房の横ですからね…」
フリードはすっかり謎解きの顔だ。
「それでニコルはすでにワインセラーのカレンのもとへ行ったと思ったのか」
ジェラルドの声の低さは変わらない。
「は、はい」
トーマスは気丈にジェラルドに答えた。
「…ワインセラーに鍵をかけたのは…?」
ジェラルドが問う。
モリスが答える。
「執務室を辞してから、廊下でトーマスに茶葉のことを聞きました。エマに会う前に地下へと降りると、オズワルドが『鍵は掛けといた』と言うので、待ちくたびれたカレン様はいったんお部屋へお戻りになられたと察しまして…」
ジェラルドは嫌な予感がよぎる。
「今に至るという訳か…」
ため息を吐いた。
「明らかに伝言ゲームの失敗ですね…ジェラルド、急いだ方が」
「ああ、行ってくる」
ジェラルドとフリードは、とっくにひとつの答えに辿り着いていた。
ジェラルドは、急ぎ地下のワインセラーに向かった。
・
トクトクと鼓動が速い。
熱くて顔が火照るし、フワフワして気持ちいい。
カレンは試飲用のワイン樽に寄りかかって座り込んでいた。
開けたボトルは…有に3本は転がっている。
ガチャガチャ…ガチャリ
「…カレン?」
ジェラルドが鍵を開けた。
「……?」
「!!」
ジェラルドは目の前の光景に、一瞬呆気にとられ、次いで信じられないという顔になり、額を手で覆った。
「…ジェラルド…?」
焦点の合わない目で、カレンが座り込んでいる。
「…ふふ」
ジェラルドに微笑み掛ける顔は、なんとも抗しがたく艶めいている。
ジェラルドは大きなため息を吐くと、カレンに近づきしゃがんだ。
「カレン、カレン?」
「………ん?……なあに?」
かなり反応が遅い。
これは完全に酔っぱらいのそれだ。
ジェラルドは手近にある空のワインボトルを手に取ると、またもやため息を吐いた。
「カレン、立てるか?…立てないな」
と言いながら、横抱きにしようとする。
「ダメ、」と、カレンが抵抗した。
「カレン、あなたはかなり酔ってる」
「ん…酔ってませんっ」
「いや、酔ってるぞ」
「わたしは酔わないっ」
「……」
ジェラルドはこのような酔い方をしたカレンは見たことがない。
初めて接するカレンに、思わずクスリと笑ってしまった。
「…わらった?」
「いや、酔っぱらいは必ず『酔ってない』と言うんだ」
だって、酔ったことないんだもん…、と口を尖らせる。
「しかし、ここに閉じ込められたら…飲むしかないな」と言いながら、ジェラルドはカレンの隣に座った。
「ジェラルドも、飲んで」
グイとグラスを手渡した。
「ん」
続いてボトルからワインを注ごうとするが、手元がおぼつかない。
ジェラルドはカレンの手からボトルを取り上げて自ら注いだ。
「私にも、ジェラルド」
ぐいと手元のグラスを差し出す。
…まだ飲む気なのか…と、呆れながらも、カレンの差し出すグラスへワインを注ぐ。
「はい、乾杯」
「…乾杯」
カチン、とグラスを合わせはしたが、カレンはグラスを睨んだまま口を付ける気配はない。
その様子を見たジェラルドは、やれやれ…、とカレンからグラスを取り上げ、自らのグラスも一緒に酒樽のテーブルへと置くと、有無を言わせずカレンを横抱きにした。
「いや!離してっ」
カレンの抵抗虚しく、ジェラルドはさっさとワインセラーを後にした。
・
「まじか? ショット20杯の姫様がか?」
「ああ…ベロベロだった」
へぇーと、アイザックは面白そうだ。
ようやくカレンを落ち着かせたジェラルドは、執務室に居た。
「出産すると体質が変わると聞いたことがありますよ」
パメラは相変わらずですがね…と、フリードが続ける。
「そうかも知れないが…数年振りに酒を口にしたんだ、それも赤のフルボディを3本カラにしていた。いくらなんでも私でも酔うぞ」
「おっとー、そりゃさすがだなー!」
アイザックは笑いが止まらない。
「使用人の伝言のすれ違いはあるあるですが、厳重注意はするとして…今回のカレン様の酔っぱらいは大事のうちには入らないってことでいいですか?」
フリードは幾分慎重にジェラルドに問う。
「…いいだろう」
怒りはないが、多少納得のいかない顔でジェラルドは答えた。
「ジェラルド?」
「…いや、それでいい」
使用人達を咎める気はさらさらない。
それよりもジェラルドは、カレンの言葉を思い返していた。
・
少し前の寝室。
「ジェラルドの生まれ年は当たり年で…」
「そうだな」
「赤のね?とっても美味しくて…」
「珍しいな、あなたは白が好きなのに」
「……赤も、すき」
横抱きにしたカレンを寝室まで運んだジェラルドは、“酔っぱらい”カレンの相手をしていた。
「ジェラルド様、後は私が…」
ニコルが申し訳なさそうに言うが、ジェラルドはカレンの側を離れようとはしない。
カレンに水を飲ませ、なんとかベッドへ寝かしつけようとしていた。
「カレン、水を飲んで」
「いらない」
「カレン」
「ディナーメニューを考えなきゃ、ニコル、メニューカードを…うっ、ぎぼぢわるい…」
「! カレン?もどす?」
カレンはブンブンと首を振る。
「もったいないから…」
目をつむってフーフーと息を整えている。
「……」
「あつい…」
カレンは目を閉じたまま、服を脱ぎ始めた。
「ジェラルド様…」
ニコルが心配そうにする。己の責任もあると感じていたし、ここまで乱れた主の酔った姿を見るのは初めてだ。
ジェラルドは「いいから任せて」と、目で合図し、ニコルを退出させた。
ジェラルドは黙って、服を脱ぐカレンを手伝う。
カレンは下着姿になると、パタンと横になった。
目を閉じたままのカレンは、顔色こそ変わらないが、息が速い。
と、いきなりつーっと閉じた目から涙が溢れた。
「カレン…?」
泣き上戸、というのはあるがジェラルドは突然の涙に驚いた。
「…ベアトリスさまの生まれ年のワインもあったの…何本も。お誕生日、楽しみね…」
ジェラルドはカレンに沿って横たわった。
「…そうだな」
カレンの涙を手で拭う。
「アンジェリーナのも、あった…まだ飲めないけど…楽しみね…」
「あっという間に飲めるようになる」
「ん…」
「あなたの生まれ年の棚もあった?」
「…あったけど、」
「ん?」
「私の生まれ年は天候がよくなくて…」
「ああ…そうか…」
ジェラルドは、以前話題にしたことのある、互いの生まれ年のワインのことを思い出した。
確かにカレンの生まれ年は葡萄の実る時期の気候が安定せず、ダヴィネスでもワインの産出量が極端に少なかったのだ。
しかしだからと言って、領主のワインセラーに夫人の生まれ年のワインが少ない、というワケではない。
恐らく比較として、ジェラルドやベアトリスの棚のワインよりは少ないのだろう。
カレンの閉じた目からは、とめどなく涙が溢れる。
と、カレンの目がパチリと開かれた。
「…ストラトフォードに、帰りたい…」
ジェラルドの涙を拭う手が止まった。
涙に濡れた薄碧の瞳は、何も映していない。
聞き間違いではない。
確かにカレンは言った。




