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間諜X(2)

 ジェラルドがこちらを向いている。

 深緑の瞳が揺らめいていて、まるで私を誘うようだわ…

 と、ジェラルドの腕の中に誰か女性がいるわ!

 ハニーブロンドの流れるような艶かな髪…誰!?


 あ…!


 振り向いた女性…デューイ…は、そのヘーゼルの瞳で意地悪くカレンを睨んだ。


「あなたはふさわしくないわ」


 ???


 その声は、女性のものだ。


「ふさわしくない」


 今度は男性の声で。


「ふさわしくないぞ」


 え?ジェラルドまで!?


 二人は抱き合ったまはまカレンから遠ざかり、手の届かない闇へ消えようとする。


 ま、待って…!


「待って! ジェラルド!!」


 カレンは自分の声でハッとして目を覚ました。

 全身が汗でじっとりと濡れている。

 夢のせいで胸の鼓動が速い。


 隣にいるはずのジェラルドは…いない。


 カレンはホッとしつつも、言い様のないやるせなさを感じた。


 時計を見ると、まだ日は変わっていない。

 兵舎での会合が長引いているのかもしれない。


 再び眠る気にもなれず、ベッドから降りると室内履きへ足を入れ、主寝室を出て自室へと向かう。


 そのまま、月明かりだけに照らされた自室に入ると、書斎机の椅子へと腰掛けた。


 ジェラルドと結婚して数年経つ。

 アンジェリーナが生まれ、領主夫人の仕事にも年々慣れてきた。

 日々忙しく過ごす中で、自分がジェラルドの妻にふさわしいかどうかなど、改めて考えたことなどない。


 ただ、自分の居場所はジェラルドの隣だと信じて疑わなかった。


 しかし、先ほどの夢は…ジェラルドからの言葉は、予想以上にカレンにダメージを与えた。


 ジェラルドの愛は疑いようがない。

 いつも深く愛されている。

 でも、辺境伯夫人としての私はどうなんだろう?ちゃんとできているのかしら?皆、どう思っているのだろう?


 デューイ卿は、私がジェラルドの妻であることに不満があるのかしら…


 カレンは、机の上へ目を移す。

 机の上には、カレンの担当する未決裁の書類が並んでいる。

 かなりの数になるが、これでもまだ少ない方だ。

 ジェラルドはフリードや家令のアルバートと相談しながら、カレンに無理のないように仕事量を調整してくれていることを、カレンは知っている。


 - ふさわしくないぞ -


 カレンの脳裏に夢の中のジェラルドの発言、その冷たい瞳が甦る。


 カレンは、ふるふると頭を振った。


 …もっと、できるようにならないと……


 カレンは書斎机のランプを点けると、未決裁の書類の処理を始めた。



 ふと目覚めると、肩にブランケットが掛けられている。

 どうやら決裁の途中で机にうつ伏せて眠ってしまったらしい。


 部屋の中は、夜明けの薄明かりだ。


 カレンは部屋を見回した。


 ソファの肘掛けに手を付き、頭を支える格好でジェラルドが眠っている。


 ブランケット、ジェラルドが……


 カレンは音を立てないように立ち上がるとジェラルドに近づき、自らに掛けられていたブランケットを、そっとジェラルドに掛け…


 ジェラルドの目が、パチリと開かれた。


 !


 カレンは驚きのあまり一歩後ずさるが、ジェラルドの腕がカレンを捕らえ、勢いカレンはそのままソファに押し倒される形となってしまった。


 ジェラルドの深緑の瞳が真上からカレンを見下ろす。

 探るような強い目線に、カレンは思わず目を伏せた。


「…カレン? なぜ真夜中に仕事を?」


「急ぎの決裁があって…それで」


 ジェラルドはチラリと書斎机に視線を走らせた。

「そんなに急ぎの決裁はなかった」


 …チェック済みなのね…


 カレンはうーんと言い訳を考える。


「私と眠るのは嫌になった?」


「! まさか違います! そうではなくて…」


「ではなぜ?」


 もはやカレンの目は泳ぎまくっている。


「…少し、眠れなくて…仕事でもしようかと、それで…」


 ジェラルドの手が、優しくカレンの頭から頬を撫でた。


「何か、心配事がある?」

 ジェラルドの瞳は気遣わしげにカレンを見下ろす。


「…いえ、あの…大丈夫です」


「カレン」


 カレンは、ジェラルドのデューイへの厚い信頼を思う。

 二人の絆に水を差すようなことはしたくないし、決してしてはならない。


「私は、大丈夫…」


 カレンは両手でなだめるようにジェラルドの頬を包むと、ゆっくりと口づけた。


「……」

 ジェラルドは誤魔化されたことは承知のうえで、そのまま口づけを続けた。


 ・


「……外れ!」


「外れ!」


 カレンは、ダヴィネス城の弓技場で鍛練していた…が、まったく的に当たらない。


「レディ、どしたんです?今日は…」


 カレンの弓技の指導者のラックも首を傾げる。

 普段、カレンは滅多に的を外さない。

 しかし今日は集中できず、外してばかりだった。


「レディ、今日はもう止めた方がええ」


 見かねた第5部隊隊長の老エルメがカレンに声を掛けた。

 護衛のネイサンも不思議そうな顔をしている。


 それでもカレンは弦を引き掛け…しかし弦は引かれることなく、そのまま腕を下ろした。


「…そうですね…今日はダメみたいです」


 眉を下げ、控える者達へ力なく微笑む。


「たまにはそんな時もあるじゃろ。あまり無理はされんことじゃて」


 老エルメは愛嬌のある顔で微笑む。


「でもこれでは射手として失格ですね…。今有事になっても、私は単なるお荷物だわ…」


 カレンはグローブを外しながら、誰ともなしに言った。


 その様子を、老エルメは見つめる。


「調子のええ時もあればそうじゃない時もある。それを見極めるのが日々の鍛練じゃて。完璧など端から望むのは愚行。要はいざという時にキメられたらそれでええんじゃ」


 エルメの言葉にカレンは幾分救われるが、やはりデューイのことや夢に出てきたジェラルドのことがずっと引っ掛かっていた。



「…レディ、何か心配事でもおありですか?…」


 城へと帰る道すがら、ネイサンが遠慮がちにカレンに聞いてきた。


「ありがとうネイサン…私なら大丈夫よ。少し寝不足なだけで…今日はなんだかダメね」


 護衛のネイサンにまで気遣われるとは…カレンは苦笑した。


 二人は回廊を歩く。


「ねえ、ネイサン」

「はっ」

「…私、ダヴィネスの領主夫人として、ちゃんとやれてるのかしら…?」

「……は?」


 カレンは思わず心情を吐露してしまった。

 しまったと思ったが、口から出た言葉は引っ込みがつかない。

 真面目なネイサンを困らせてしまったかも知れない。


「ごめんなさい!なんでもないのよ、気にしないでね」


「…いえ、あの…自分のような立場の者は言うべきことではないですし、なぜレディがそのような疑問を持たれるのかはわかりませんが…」

 ネイサンは慎重に前置きをした。


「レディはとてもご立派に努めておいでかと思います」


 ダヴィネスへ来てからこちら、数々の苦労を掛けているネイサンに言われると申し訳ないような気がするが、今のカレンにとっては、お世辞でもありがたい言葉だった。


「…ありがとう。ネイサン」


 ・


 カレンは、日々領主夫人の仕事に邁進していた。

 書類仕事もアルバートに言って増やしてもらい、城塞街のご婦人方の集まりにも益々積極的に顔を出した。

 もちろん、アンジェリーナの相手をしたり、馬達の様子を見ることも欠かさない。

 その代わり、ランチやお茶の時間を短縮し、読書や刺繍といったゆったりとした時間はなく、かなり分刻みの毎日を過ごしている。


 一方、デューイはダヴィネス城で気ままな日々を過ごしていた。

 騎士や兵士達と鍛練に励む日もあれば、各地の情勢をジェラルドやフリード達と議論する日もある。

 ジェラルド達より一世代古いので、懐かしい友を訪れたりもしていた。



 今日は城塞街のガヤガヤとした酒場の片隅で、フリードとアイザック相手に酒を酌み交わしているが…そのナリは商家のご婦人風情だった。


「なんで変装すんのさ、ここ(ダヴィネス)で」

 アイザックは、不思議でならないといった顔だ。


「なんていうかさ、習性?クセみたいなもの、紛れたいのよ」


 デューイは仕草も声も婦人そのものだ。

 しかし手元には婦人らしからぬ琥珀色の強い酒がある。


 アイザックもフリードも今さら驚きはしないが、昔から一風変わった先輩騎士には一目置いていた。


「しかし、驚きましたよ…引退なんて」

 フリードはエールをグッと飲んだ。


 デューイは、まだジェラルドやフリード、アイザックなどの限られた者にしか知らせていないが、工作員…引いては騎士を引退するために、ダヴィネス城へ一時帰還したのだ。


「まぁね。でも私、もう十分働いたでしょ?」

 婦人のデューイはクイッと酒を呷る。


「確かに」「まあな」

 これにはフリードとアイザックも文句無しに同意した。


 工作員は常に神経をすり減らして活動している。止め時は肝心だ。


「部下も育ったし、影の役割にしちゃ、ちょーっと有名になり過ぎちゃったし…潮時ってあるのよ、この仕事は…わかるでしょ?あんた達なら」


 フリードとアイザックは、黙って頷く。


 幾度となく危ない橋を渡り、無私が常でダヴィネスの益を優先させた先輩騎士の言葉は重い。


「でもさ、何するんだよこれから」


「そうねぇ…こういう店でもしようかしらねぇ」

 デューイは辺りを見回した。


「あっという間に諜報員の溜まり場になりそうですけどね」


「よね」「だな」

 三人は笑い合った。


 ∴


「それで?本当の理由は何ですか」



 夜も更け、デューイの「久しぶりなのに付き合い悪いわねぇ」という嫌味を背に、アイザックは先に帰った。


「あんたは帰らなくていいの?綺麗な奥様と可愛い娘が待ってるんじゃないの?」


「…私は今日は城詰めですので」


 あ、そう、と言うと、デューイはクイッと酒を呷った。



 人影まばらになった酒場で、デューイはフリードと差しだ。


「ごまかし利かないわね、フリード」

 デューイはやれやれとフリードを見やる。“本当の理由”を聞いてきたことに対してだ。


「間諜はあなたの天職ですよ…私は惜しいと思ってます」


「天職ねぇ…でもね、知っての通り、人を騙したり騙されたりって、まともな神経じゃできないのよ。少しずつ感覚が麻痺して、何かが壊れていくの。それでダメになった同業者もたくさん見てきたわ…」

 まぁ、私は楽しんでた所もあるからここまで続けられたんだけどね。

 デューイはふふふ、と笑う。


「…まぁね、ジェラルドも身を固めたことだし…あんただってそうでしょ?…私もそろそろ自分のことを考えてみたくなったのよ」

 デューイは遠い目をして語る。


 嘘と真実の間を潜り抜けてきただけにもっともらしい言い様だが、人を煙にまくプロを相手に、フリードは「どうだか」と懐疑的だ。


「各地を飛び回るのは止めて、指導者として軍に籍を残すのもアリですよ」

 フリードは提案する。


「買いかぶり過ぎよ。私はあくまで一兵卒に過ぎないわ…今となっては、ちょっと時代遅れかもね」


「…」

 フリードは黙った。


 確かに、ジェラルドがダヴィネスを危なげなく治めている限りは、以前のような慌ただしい戦況にはならないだろう。

 しかし目の前の男は、鮮やかな手口で華々しく闇を渡ってきた、ダヴィネスの誇るべき間諜なのだ。

 代わりなどいない。

 だが、本人が闇の世界を去るというのを、誰も止めることはできない。


「それよりもさ、ねぇ、私この目で見るまでは信じられなかったんだけど…噂以上だわね」


 フリードの思考を破るように、デューイは話題を変えた。


「なにがですか」


 フリードは数杯目のエールをグイと飲む。


「ジェラルドとレディ」

 デューイはヘーゼルの瞳を煌めかせる。


 フリードは、ああ、と反応するが、態度は変わらない。


 領主夫妻の仲睦まじさ…そんなことはダヴィネス城、いやダヴィネス全領土でも今や当たり前になっている。


 何を今さら…と思うフリードの頭を覗くようにデューイは続けた。

「…ちょっと、あんた達はもう慣れてるんでしょうけどねぇ、私は未だに半信半疑なのよ!」

 ねぇ、お代わりちょうだい、と酒場の店主へ声を掛けた。


「あのクソ真面目なジェラルドがよ?一切女を近寄らせなかった、あのジェラルドよ?…なのに、あの目はなんなの? 年端もいかないガキじゃあるまいし、どんなにレディに入れ込んでるのって話よ」


 酒が回ってきている。かなり乱れた口調だ。


「…不満ですか、お二人の仲が」

「不満っていうかさ…」


 デューイは運ばれてきた新しい酒に口を付けた。


「…レディ カレンはいったいどんな女なのか、興味がある」


 デューイは、本人が知ってか知らずか、男の声に戻った。


 フリードはハッとする。

「…まさか、そのために戻ったんですか、ここへ」


 デューイは形の良い唇を弓形にして、ニマリと笑みを浮かべた。

「…さあね?」


 美しい笑みを浮かべたまま、一気に酒を呷った。


 ・


「…そう言ったのか、デューイが」

「ええ」


 翌日のジェラルドの執務室。


 フリードは夕べのデューイのことをジェラルドに話した。


「恐らく、私のことを心配する“姉”のような心境からだろうが…」

 ジェラルドは思案する。


「恐らく。しかしあのデューイです。まったく何を考えているかわかりませんね」

 ジェラルドは、そうだな…と言いながら、自らの幼少時代のことを思い起こしていた。


 デューイはダヴィネスへ来た時、まるで女だった。というか、貴族の子女そのものだったのだ。


 姉達の着せ替え人形よろしく育ち、自身もそのことを疑っていなかったが、思春期を迎え、どうやら自分は男であるらしいと気づくと嵐のような反抗期が訪れた。

 そのあまりの荒れようを苦慮した父親から相談を受けたジェラルドの父、前辺境伯がダヴィネスへと連れて来た経緯があった。


 デューイと初めて会ったジェラルドはまだ幼児で、姉のような兄のようなデューイは、なにくれとなくジェラルドの面倒を見た。

 時にドレス姿、また時に軍服姿のデューイにもさほど違和感は覚えず、ジェラルドもよく懐いていた。


 貴族の子息としてのジェラルドのダンスレッスンにはパートナーとして踊り、騎士として護衛にも付いた。

 ジェラルドも騎士となり、またデューイも工作員として本格的に活動し始めてからは会う機会は減ったが、ジェラルドの中ではデューイは他の古参の騎士達とは異なる位置付けだった。


「…いわゆる小姑のような気持ちからカレン様を警戒するのかも知れませんね」


 フリードの言葉に、ジェラルドは髪をかきあげながらため息を吐いた。


「最近、カレンは必要以上に仕事をしていることはアルバートから聞いているが…まさか」


「ええ、デューイが関係している可能性はありますね」


「二人とも負けず嫌いだからな…」


「まぁ、まさか本気で領主夫人を蹴落とそうとはしないでしょうが…当分は探るでしょうね…しかし納得がいけば諦めますよ」

「だといいが」


 とりあえず、ジェラルドは手出しはせず、静観を決めた。

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