サラ(2)
「ミス スウェイツ…いえ、サラと呼んでいいかしら?」
「…はい」
サラはベッドに寝たままだ。
ダヴィネス城を出ていくには、情けないことに体力が追い付かず、図らずもベッドへ逆戻りした。
「私、遠慮はしないことにしました。あなたにはここでゆっくり休んでいただきます。すでにジェラルドにも了承は得ておりますので、ご安心くださいな」
カレンはニッコリと極上の笑みを添えて、有無を言わさない勢いでサラに伝えた。
「……」
サラは呆然とした。
レディ カレンは一体何を言っているのか…?
「あ、ダメダメ、深くお考えにならないで。…そうですね、」
カレンは小首を傾げる。
「ちょっとつまずいたらそういうことになった、程度で構いません。ただ受け入れてください。さらに、ここでのご滞在を楽しんでくださったら嬉しいです」
とかなり強引だ。
カレンは、彼女は侍女頭のエマで……と続けて身の回りの世話をしてくれる使用人達を紹介する。侍医や薬師、料理長やエマとも相談して、サラの看病に万全を尽くす手筈を整えた。
心の傷まで癒せるとは思わないが、せめて体は回復して欲しかった。
・
「そう言えばジェラルド、珍しいゲストが滞在しているそうですね」
執務室でフリードがジェラルドに聞く。
「ああ…耳が早いな」
ジェラルドは眉を上げた。
「それは…」
と、フリードが奥のテーブルで珍しく書類仕事をしているアイザックを見る。
アイザックは「ん?」と顔を上げた。
「ザック、ネイサンのことをジェラルドに報告してください」
フリードはニヤリとする。
「ああ…護衛番のことか?」
アイザックはうーんと伸びをした。
「ネイサンが、どうした?」
ネイサンはカレン付きの護衛だ。ジェラルドはアイザックに尋ねる。
「いやさ、珍しくヤツが…そのゲスト?の護衛を申し出てきたんだよ。姫様の護衛はハーパー達で回してるから問題ないけどな」
ネイサンがサラ・スウェイツの護衛…
ジェラルドはネイサンの真剣な目を思い出す。
恐らく、サラがバカなことをしないかと、見張りの意味合いが強いだろうが…
「真面目なネイサンのことですから、まぁ…いろいろと意味をはき違えないといいんですがね」
フリードは含みのある言い方をした。
「…そうだな」
ジェラルドはフリードの言いたいことはわかったが、敢えて口にはしなかった。
「?」
アイザックは二人の会話の真意は掴めないが、まいいか、と目の前の書類を再び片付けはじめた。
・
「さ、お次はこちらのお薬湯をどうぞ」
年若い侍女に渡されたカップの中には、苦い薬湯が湯気を立てている。
サラがダヴィネス城に滞在してから、2週間ほどが経った。
サラは順調に体力を付け、顔色もかなり良くはなった。しかし、長年の気ままな生活のツケは短期間では改善しない。
まず、三食キッチリの食事は胃が受け付けない。量も食べられない。苦い薬湯は体質改善とのことで、やっとのことで飲んでいた。
試しに立って歩いてみたが、やはりまだ少し眩暈がするので、ベッドでの生活がほとんどだった。
カレンの押しの強さに従い、言われるがまま甘えさせてもらっていたが、サラはひとつ気になることがあった。
「え?」
日に何度も顔を見に来るカレンへ申し出てみる。
「郵便物が…気になります」
王都の美術商から何か知らせがきているかも知れない。
「でしたら…鍵を貸していただければ、私が代わりに…」
「いえ、郵便物は私書箱宛にしております。なのでサインが必要で…」
カレンはそうなのですね、と答えると少し考えた。
「短時間ならば、ネイサンに付いていってもらいましょうか」
「あ…はい…」
サラは気乗りのしない返事をした。
でも、外出はもう少し体力が戻ってから、という条件付きとなった。
更に1週間後、サラは郵便局へネイサンと共に行くことになった。
カレンにそれとなく別のドレスを薦められたが固辞し、来た時の黒のドレスへ着替えた。
「ご気分が優れなければ、すぐにネイサンを頼ってください」
カレンから念押しされ、馬車へ乗る。
ネイサンは騎乗して並走している。
…確か、ダヴィネス城へ運び込まれた時はネイサン殿に抱えられたまま馬で、と聞いた。
サラは見るともなしに、馬車の窓から並走するネイサンを見る。
美しい乗馬姿だ。騎士の乗馬など間近で見たことはない。
サラは久しぶりに書きたいという思いが沸いた。
不思議なことに、ダヴィネス城にいる間は、絵筆を取りたいとは思わなかった。普段は暇さえあれば描いているというのに…
“明るくごり押し”のレディ・カレンにすっかり毒気を抜かれたのかも知れない。輝くばかりの領主夫人に…
サラは知らず微笑む。
本当にお世話になったわ…
城塞街に着くと、ネイサンにぴったりと付き添われて郵便局へ行き、郵便物を受け取った。
ネイサンはすぐに馬車へ取って返ろうとするが、サラには別の考えがあった。
「ネイサン殿、少しだけアパートメントへ寄ります」
「! ミス スウェイツ、何かご必要な物が?」
ネイサンは怪訝そうにサラを見る。
明らかにサラの行動を警戒している。
サラはネイサンは見ない。
「すぐに済みますから」
今日は幾分気分がいい。
アパートメントの階段も、ゆっくりだが自力で昇れた。後ろからネイサンが付いてくる。
サラはレティキュールから鍵を取り出して鍵を開け、扉を開け…さっと自分だけ入った。
「ネイサン殿、お世話になりました」
とだけ言うと、パタンと扉を閉めよう…としたが、隙間からネイサンが手を、次いでブーツの足を挟み込んだ。
「…ミス スウェイツッ、そうはいきませんよ!」
「!」
サラは驚いた。
計画では、扉を閉めて鍵をかけ、ネイサンともダヴィネス城ともこれきりにするはずだったのだ。
「レディから、必ず一緒に帰城するようにと言われています…!」
さすがレディ カレン、サラの考えなどお見通しだったということか。
サラはドアノブを必死で引っ張ったが、大の男の、しかも騎士の力に勝てるわけもなく、扉は呆気なく開かれた。
「ミス スウェイツ、なぜそうまでしてレディのご厚意を拒むのですか…!」
ネイサンは怒っているのか…いや呆れているのだろう。
サラはため息を吐いた。
ネイサンには答えず、黙って奥のアトリエに行くと、酒瓶のひとつを手に取り、グラスへ酒を注いだ。
口元へグラスを近づけた時、横からグラスを取り上げられた。
「! ちょっと!」
「酒は禁止のはずです」
「ここは私の家です。何をしようがあなたには関係なくてよ」
サラはネイサンを睨む。
サラの夜空の様な、濃い紺色の瞳がネイサンを見つめる。
「…関係は、あります」
ネイサンは、階段で蹲っていた、サラの涙に濡れた顔を思い出していた。
あの時よりは幾分顔色も良くなったが、痩せた頬は、まだ健康そのものとは言えない。
「あなたは自分の仕事を全うしようとするけど…そもそも私は領主夫人が気に掛けるような者ではありません」
「それは…レディがお決めになることです」
「私の人生は!」
サラが一層強い視線でネイサンを見る。
「私の命は他の誰でもない私のもの。例え私が野たれ死んでも、それは私が選んだことです」
ネイサンは目を見開いた。
「お引き取りを」
サラは玄関まで行くと、扉を大きく開け放した。
ネイサンは何も言えず、拳を握り扉へとゆっくり歩く。
部屋を出ると、後ろでバタンと扉が閉まった。
諦めて階段を降りようとしたその時、部屋からガタッと大きな音がした。
ネイサンはハッとして、すぐにドアノブに手を掛けたが、すでに鍵がかかっている。
「ミス スウェイツ!どうかされましたか?ミス スウェイツ!?」
ドンドンと扉を叩くが、返事はない。
嫌な予感がした。
「クソッ!」
ネイサンは扉をバンッと蹴破った。
扉はバリッと音を立てて開く。
そこには…倒れた椅子と蹲るミス スウェイツが居た。
「ミス スウェイツ!」
ネイサンは駆け寄ると、サラの肩に手をかけ顔を覗く。
「…」
「ミス スウェ」「大丈夫、少し眩暈がしただけだから…あなたは帰って…」
サラは努めて冷静に言ったつもりだった。
「…いい加減にしてください!」
「きゃ…!」
ネイサンはサラを軽々と担ぐと、さっさと部屋を後にした。
サラはなんのことかよくわからない。
「ま、待ってください…!」
と口にするのがやっとだ。
「……」
ネイサンはそのまま階段を降り、早足で馬車に着くと、驚くほど優しくサラをシートへ下ろした。
「…何か必要なものはありますか?」
怒っているのか、ぶっきらぼうに聞いてくる。
「…先程の郵便物と…スケッチブック…」
「…わかりました。ここから一歩も動かずに待っていてください」
念を押すように強い口調で言うと、ネイサンはアパートメントへ引き返した。
…言われなくても、眩暈がするから歩けないわよ
サラは心内で毒づきながら、馬車の隅で目を瞑る。
ほどなくしてネイサンが戻り、直後に馬車は出発した。
・
「やはり、外出はまだご無理なようでしたわね…」
カレンがサラの枕元で心配そうに呟く。
「申し訳ありません」
控えたネイサンがカレンに詫びる。
「いいのよネイサン」
と、声をひそめる。
「よく連れ戻してくれたわ」
「はっ」
ネイサンも合わせて声をひそめて答えた。
目の前のサラは、青い顔で目を閉じている。
…本当に、手強い…
カレンはネイサンから事の次第を聞いて、サラの頑固さに驚いた。
いやそれよりもカレンが更に驚いたのは、ネイサンがサラのアパートメントの扉を蹴破ったことだった。
これは、もしかすると…と、カレンは考える。
ネイサンは、カレンがダヴィネスへ来たときからの護衛で、長い付き合いになる。
いつも人の良い対応で、カレンの突飛な行動にも辛抱強く付き合ってくれる。
カレンは、ネイサンほど忠義に厚い騎士は知らない。
騎士らしく、厳しく自分を律しているのかも知れないが、騎士職は花形だ。女性には言い寄られるだろうに…浮いた話は聞いたことがない。
しかし、無私の代名詞ようなネイサンが、サラの護衛を申し出たことは正直驚いた。
恐らくネイサンとしては、「死」を口にした護衛対象を守る責務を全うするがための、当たり前のこととなっているだろう。
でも、何かが違う。
カレンは思うところはあるが、なんせ相手はサラだ。一筋縄ではいかない。
これ以上拗らせてはまずい。
カレンは人知れずコクリと頷いた。
・
サラがダヴィネス城に滞在して、3ヶ月が過ぎた。
季節は春から初夏へと変わろうとしている。
サラはダヴィネス城の庭で、咲き乱れる草花のデッサンをしていた。
その黒髪によく似合うブルーのデイドレスを着ている。
サラの顔は、以前とは比べ物にならない程にふっくらとし、頬には赤身が差している。
艶のなかった黒髪もつやつやと太陽に映え、結い上げた白い項との対比がなんとも眩しい。
「ミス スウェイツ、そろそろ日差しが強くなりますので…」
「わかりました。…でもあと少しだけ」
サラはネイサンを見ると、その夜空のような瞳を自覚なく揺らした。
「! …はい、ではあと少しだけ」
・
サラは、自宅のアパートメントからネイサンによって連れ戻された夜、豪華な天蓋を見つめたまま考えた。
私はいったいなんのために生きるのか。
今までの人生を憂うことはとっくに止めたし、棄てた。
画家として独り立ちをし、誰にも支配されず、紛れもなく自分の人生を歩んでいる。
しかし、孤独と虚無感は拭えない。
このまま独り、あの狭いアパートメントで人知れず死んでもそれはそれで構わないと思っていた。
でも、人生はサラにそれを許さなかった。
もう少し、流されてもいいのだろうか…。
例えば、人生を楽しんだら何か変わるのだろうか。
レディ カレンは「つまずいたらそういうことになったと思え」と言った。
そんなことが許されるのだろうか…。
試してみる価値は、あるのだろうか。
取り留めもなく考えるうち、いつの間にか眠ったサラは、薄暗い中目覚めた。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
サラは注意深く寝台から立ち上がると窓辺へと歩き、カーテンをそろりと開けた。
「!」
その眩しさに目を細める。
南向きの窓からは、遠く山の際から顔を出す、黄金色の太陽が見えた。
暖かく、強い光。
遠くダヴィネスの山々、森、平野を照らしながら、光はダヴィネス城の緑豊かな庭に刻々と豊かに降り注ぐ。
サラは、その力強い美しさに、目の奥が熱くなるのを感じた。
私は、まだ生きたい。
この光景を描きたい。
サラは、その日から少しずつ看病を素直に受け入れ、頑なな態度を軟化させ始めた。
・
「嬉しそうだな、カレン」
ディナーの席で、ジェラルドがカレンを見て言う。
「? そうですか?…でも、わかりますか?」
それは…とジェラルドは笑う。
「あなたの変化はわかりやすいから」
カレンの変化をつぶさに感じ取るジェラルドならではとも言える。
カレンはふふ、と笑う。
「実は、ミス スウェイツ…サラが少し心を開いてくれたようで…とても嬉しいのです」
「何かきっかけが?」
サラには手を焼いていたカレンだ。ジェラルドは不思議そうに聞く。
カレンはうーん?と首を傾げる。
「これといったきっかけは…思い当たりませんが、強いて言うなら…」
「?」
「扉を蹴破ったネイサンに連れ戻されてから?でしょうか…」
「そうなのか?」
「定かではないですが、おそらく。何か心境に変化があったのかも知れません」
ジェラルドはカレンの目を見ながらワインを飲んで考える。
「カレン」
ジェラルドはカレンに「そばへ」という手振りをした。何か思わせ振りな顔つきだ。
「?」
カレンはジェラルドの口許へ耳を寄せた。
「ネイサンは良いヤツだが、カタブツだ。温かく見守ってやってほしい」
カレンは近い距離のまま、ジェラルドの目を見た。
そして、いたずらっぽく笑う。
「はい、心得ております」
「父さま、母さまとないしょのお話ですか…?」
二人の様子を見ていたアンジェリーナが突如声を上げた。
カレンとジェラルドは顔を見合わせて笑う。
「そうよ、ないしょのお話。秘密なの。ごめんなさいね、アンジェ」
カレンはパチリと娘にウィンクを投げた。
アンジェリーナは「…わかりました」と、多少不満そうであるが、いつもと変わらない両親の仲睦まじい様子に納得した。
・
サラが日に日に回復の兆しを見せる中、カレンは驚いたことがある。
それは、サラは想像してたよりずっと若いし、とても美しいということだ。
以前は無造作にまとめられていた髪は、今ではボリュームが出た艶のある黒髪へ。痩せていた頬はふっくらと張りを取り戻し、ほんのりと赤味が差している。唇は生気のある白い肌に映えるさくらんぼのごとく。スッとした涼しげな目…夜空のような瞳は、今や星を湛えているかのようだ。
彼女本来の美しさが顕になる様に、目を見張るばかりだった。
サラは少しずつ、少しずつカレンや城の使用人達に打ち解けていった。
一方で、サラ自身も己の変化に驚いていた。
肩肘を張らずに居るというのは、こんなにも楽で心地よいものなのか、と。
それは、カレンをはじめとするダヴィネス城の人々や整えられた贅沢な環境に寄るところが大きいことは、サラも理解している。
段々と心も体も解きほぐされる感覚が、サラにはとてつもなく新鮮だったし、間違いなく人生で初めての体験と言えた。
更に驚くべきことがサラの身に起こった。
ある朝、サラは下腹部の鈍痛で目が覚めた。
何か病気かと訝しんだが、同時に足の間にぬるりと温かな感触がある。
!
サラはまさかと疑う。
そろりと手を這わすと、確かに濡れた感触と鉄のような匂いがする。
ドキドキと鼓動が速い。
実に、十数年ぶりの“月のもの”の訪れだった。
サラは震えながら泣いた。
子爵家へ嫁いでから数年経つと、月のものは不規則になり、やがて全くなくなった。
強いストレスに晒されるとそんなこともあるとは耳にしていたが、まだ若かったサラは、すべては自分の責任と感じていた。
夫とは結婚当初、義務的に数回寝所を共にしたきりなので、子どもなど、はなから望むべくもなかった。
ダヴィネスへ移り住んでもそれは変わらず、サラはすっかり忘れ去っていた。
それが、ダヴィネス城での生活で、サラの体は変化した。
思わぬ方向へ。
規則正しい生活のリズム、滋養のある食事や薬湯、そして気に病むことのない環境…しかし、そればかりではないことを、サラは感じた。
淡いブラウンの短髪に、温か味のある濃いブラウンの瞳を持つ騎士…ネイサンの存在だ。
ネイサンには心配を掛けたし、ずいぶん手間を掛けた。今も世話になっているが、それは彼の騎士としての範疇は出ていないだろう。
彼はあくまで護衛としてサラを庇護の対象と見ているに過ぎない。
少なくともサラはそう感じている。
しかし、サラはネイサンの瞳を見る度に、心臓のあたりがキュッと絞られるような感覚に囚われる。
とうに忘れ去っていた心の疼き。
サラは首を振る。
この想いはひっそりと心にしまっておこう。
いくら体に変化をもたらしたとはいえ、彼はダヴィネス軍の誇れる騎士、しかもサラより(おそらく)年下だ。
サラのような得体の知れない怪しい女など、仕事でなければ目にも留めないだろう。
サラはそれでも、十分だった。
今は、この心の疼きを宝物のようにそっと大切にしたいと思っていた。
・
「そろそろお暇しようかと思います」
「え!?」
サラの言葉に、カレンは思わず声を上げた。
サラがダヴィネス城で暮らし初めて、実に5ヶ月近く経った。
春の終わりだった季節も、秋を迎えている。
今ではサラはすっかり健康になり、サラの居る客間で創作活動もしている。
ダヴィネス城から孤児院へも通い、絵画教室も復活した。
身に付けるドレス…以前は黒ばかりだった…は、カレンの薦めで色のある物が増え、サラもそれを受け入れた。
サラを取り巻く世界は、サラの変化によって180度変わったと言っていい。
サラはもう、以前のような虚無感に襲われることはない。孤独も、今のサラにとって以前とは別の意味を持つ。
すべて、目の前で優雅にティーカップを手に持つ、領主夫人カレンのお陰だ。
「レディには、なんと御礼を申し上げていいか…本当にありがとうございました」
サラは頭を下げた。
「…そんな…でもサラ、本当に?」
カレンはサラの申し出に驚きを隠せない。
ジェラルドがダヴィネス城で責任を持つと言った以上、サラはいつまで留まってもいいのだ。
「はい。やはりいつまでもお世話になる訳には…」
と、以前には決して見られなかった美しい微笑み…申し訳なさそうに…を浮かべた。
「…寂しくなります」
カレンはわかりやすく気落ちした様子だ。
「アパートメントに戻られるのですか?」
「いえ…あそこは引き上げようかと…」
「では、新しいお家を?」
サラは、ゆっくりと首を横に振った。
「ダヴィネスを…出ようかと思います」
「……」
カレンは驚きのあまり、言葉を発せない。
恐らく、淑女らしからぬ顔でポカンと口を開けているに違いないと思うほどに、驚いた。
「ど、どちらに行かれるおつもりですか?」
少しの沈黙の後、カレンはやっと聞いた。
「まだ決めてはおりません。でも、いろいろな場所を見てみたくて…あと、長らく放っておりました実家のことも、気になりまして…」
サラは落ち着いた口調だ。
結い上げられた艶のある黒髪の後れ毛が、抜ける様な白肌の顔回りでゆるゆると揺れる。
夜空の瞳は毅然とした光を宿しており、女のカレンでもハッとするような強さと美しさだ。
「…わかりました」
カレンは静かに言うと、微笑んだ。と、カレンは少しいたずらっぽい顔になる。
「でもサラ、その前に約束を果たしていただきたいのです」
サラは数秒考え、あっという表情の後に、クスクスと笑いだした。
「ええ、もちろんです。私にできることならば、なんでもいたします」
・
サラがカレンへダヴィネス城を去ることを話した少し前に、サラは自身の生い立ち~サミュエル・セイジの正体までを、包み隠さずカレンに話していた。
実はその時、カレンは少なからず近々サラはもしかしてダヴィネス城を去るのでは?と懸念していた。
一方、サラは…ここまでお世話になったカレンへ、自身の正体を明かさないままに去るのは、余りにも失礼だと判断した。
話しにくい内容のこともあったが、概ね感情を揺さぶられることはなく話せたことに、自分でも少なからず驚いた。
過去は、過去になった。
そう実感できた。
話を聞くレディの反応から、恐らくレディはほとんどのことはご存知だったと悟り、その上でサラのすべてを受け入れてくれたことに、サラは今更ながら感じ入った。
・
カレン、ジェラルド、サラの3人でのディナーの席で、サラは改めて、ひと月後にダヴィネス城をそしてダヴィネスを去ると告げた。
ジェラルドも驚きはしたが、静かにサラの話を聞いた。
「もう、ダヴィネスには戻られないと?」
「…わかりません。今は、まだ…」
サラは答えた。
ジェラルドはそうですか…とだけ言うと、カレンを見た。
「サラの決められたことなので、私は尊重します」
と、幾分寂しそうではあるが、微笑んでいる。
ジェラルドはカレンの手を柔らかく握ると、その細い指先に繊細なキスをした。
サラは、その様子を眩しく見る。
領主夫妻の仲睦まじさ…初めて目の当たりにした時は、貴族においてこのような親密な関係を築いていることに驚きを隠せなかったが、いつでも互いを思いやるその様は、サラの心を和ませ、温かくした。
「…それで、あの…カレン様とのお約束を果たそうかと…」
サラの言葉にカレンはピクリと反応し、サラの次の言葉を期待した。
「お二人の肖像画を描かせていただきたく存じます」
サラの申し出に、ジェラルドも少なからず驚いている。
「それについて、お二人に少々お願いがございまして…」
サラは言いにくそうに続けた。
カレンとジェラルドは顔を見合わせた。
どのような“お願い”かはわからないが、どうやら人払いが必要なようだ。
ジェラルドはモリス以下使用人に人払いを命じた。
ダイニングには、3人だけになった。
「では…」
サラは芸術家の顔を覗かせて二人に告げた内容に…主にジェラルドは仰天した。
「私は構いません」
ジェラルドの驚いた顔を見て、クスクスと笑いながらカレンはさらりと答えた。
サラは、二人のヌードの肖像画を描きたいと申し出たのだ。
「人物画は滅多に描かれないと聞いていたが…」
珍しくジェラルドが戸惑う。
サラは子爵夫人であった頃、シーズン中に身分を隠して王都の美術アカデミーのヌードデッサンの講座を受講したことが何度もある。
人物画については、描けないわけではなく、単に描かなかったに過ぎない。
「はい。でも、お二人は特別です。お二人の輝きを形に残したいと思うのは、私の様な絵描きだけでは無いはずですわ」
サラはカレンの両耳に付けられたイヤリングへ、思わせ振りに目を走らせた。
カレンのイヤリングは、ジャック・エバンズによるものだ。
さすがの目の付け所に、ジェラルドはうーんと唸る。
「もちろん、出来上がった絵は、お二人のご自由になさってください。コレクションルームでも応接間でも客間でも…人目に触れさせたくなければお二人の寝室…もしくは浴室ならば、その加工をいたします。なんなら、捨て置いていただいても構いません」
サラは実にあっけらかんとしている。
ジェラルドは顎に手をやり、考えている。
その様子をカレンは面白そうに見る。
「ジェラルド」
今度はカレンがジェラルドの手を握った。
ジェラルドはハッとしてカレンを見る。
「しかしカレン…」
「滅多とない機会です。それとも…」
カレンはジェラルドの耳元に口を寄せた。
「お恥ずかしい?」
とライトブルーの瞳を挑戦的に揺らめかせる。
ジェラルドは少し顔をしかめたが、この時点でカレンに勝てないことはわかりきっていた。
ひとつため息を吐いた。
「わかった。ミス スウェイツ、願いを聞き入れよう」
「ありがとう存じます」
「しかし…着衣ではない理由を聞かせてもらいたい」
それはカレンも聞きたい。
カレンは好奇心でウズウズしていた。
そうですね…とサラは考えながら答えた。
「敢えて申し上げるならば…“領主と夫人”ではない、すべての肩書きを取り払ったお二人を描くためです」
至極簡潔な答えに、ジェラルドは即、納得した。
・
デッサンに三日間欲しいというサラの要望に応えるべく、続けて三日間ディナーの後、二人の眠る前の30分をデッサンに充てた。
このことは、モリスとエマ、ニコルの三人にだけ知らされたが、三人とも驚きの後に一様に意味深な笑みを漏らしたと言う。
サラはスケッチブックを携えて、領主夫妻の寝室へ赴いた。
覚悟の決まったジェラルドは、予想外に他人に裸を晒すことに抵抗は無いようで、実にあっさりと風呂上がりのローブを脱いだ。
逆にカレンは、1回目は羞恥に全身を強ばらせた。
そんなカレンを見て、ジェラルドはクスリと笑うと、自らの腕にカレンを招き入れ、手ずからカレンのバスローブを優しく脱がせた。
二人は、双方指輪だけを身に付けた、一糸まとわぬ姿だ。
原始アダムとイブでさえ、このお二人ほどは美しくなかっただろう。
サラはその様子に惚れ惚れとする。
「それで、どんなポーズを取ればいい?」
ジェラルドの問いかけに、サラはハッとする。
今はジェラルドはこちらを向き、カレンはジェラルドと向かい合う形で、こちらを振り返っていた。
ジェラルドの逞しい両手はカレンの腰辺りに回されており、カレンの長いダークブラウンの髪は背中に流れる。
…そのままでいいかも
人目に晒される可能性も含めて、あまり際どい部分は端から描くつもりはない。
特にカレンのバストトップは死守しなければ。
「そのままで…カレン様、恐れ入りますが、左手は領主様の胸に添えて…はい、結構です。お二人とも目線はこちらで、動かないでくださいませ」
サラは余計な緊張を与えないよう、事務的に指示すると早速デッサンを始めた。
部屋にはサラの鉛筆を走らせる。シュッシュッという音だけ響く。
何本かの燭台とランプに照らされた2つの裸身。
恐らく、二人の体は隙間なくぴったりと付いているだろう。
黙っていても、2人からは甘いような官能の空気が匂い立つ。
「!」
と、カレンがピクリと驚いた反応をした。
サラは手を止めた。
「カレン様…何か?大丈夫ですか?」
カレンは耳まで真っ赤になっている。
「う、ううん。大丈夫よ、サラ」
努めて平成を保とうとしている。
ふとジェラルドを見ると、口の端が笑っており、サラはははーんとカレンの反応に納得がいった。
「…この格好でこの体勢では、仕方がないな」
ジェラルドがポツリと呟く。
「やだ、ジェラルド様っ」
サラはそんな二人の会話を聞きながら、笑いをこらえつつ、ペンを走らせた。
…と、ふと数日前に、丘の上でスケッチをしたことを思い出した。
・
ダヴィネスが見渡せる、1本の大木の立つなだらかな丘…サラとネイサンは居た。
そこは、専らサラのスケッチのお気に入りの場所で、よく訪れていた。
城から目と鼻の先なので、一人で大丈夫だと言うのに、毎回律儀にネイサンが護衛でついてくる。
サラはいつものように大木の根元に腰を下ろすと、スケッチブックを開く。
ネイサンは、サラの目線の少し先で、立ったまま広野を見ていた。
以前、盗み見でスケッチした通りの、力強く温かな横顔と逞しい体躯。
サラのスケッチは誰に見られることもないので、サラは機会があればネイサンを描いていた。
この横顔とも、あと少しでお別れね…
サラは泣きたいような気持ちで、素早くネイサンをスケッチしたのだった。
・
カレンとジェラルドのデッサン2日目。
ジェラルドは既に手慣れたもので、さっさとバスローブを脱ぐ。
カレンも昨日からは幾分慣れたようだが、やはり初めはぎこちない。
ジェラルドはそんなカレンを腕に取り込むと、カレンの頬を片手で包んだ。
裸身の二人の無言のやり取りに、サラまでがドキドキするが、ここはプロの目に徹する。
そして二人は、昨日と同じポーズを取った。
と、ジェラルドの手が、昨日とは違いカレンの臀部あたりに留まっている。
「あの…領主様…手の位置が…」
サラは遠慮がちに指摘した。
「ああ、すまない」
確信犯的な笑みを浮かべ、ジェラルドは手の位置を直した。
15分程経った時、突然ジェラルドがカレンの耳元で何かを囁いた。
とたんに、カレンはハッとジェラルドを見て、恥じらいながらなにやらコソコソとジェラルドに言っている。
「…何か?」
サラは気になり、筆を止めて声を掛けた。
「! ううん、なんでもないの。ごめんなさいサラ」
カレンは元のポーズへ戻ったが、顔は紅潮している。
更に少し経つと、ジェラルドの様子が変化したことにサラは気づいた。
全身が汗でしっとりと濡れ、その特徴的な深緑の瞳が野性的に揺らめいており、何かに耐えた表情だ。
サラははて?と思い、二人の様子を注意深くうかがうと…
「!」
どうやら、サラからは見えないカレンの右手が、ジェラルド自身を弄んでいるらしい。
カレンは変わらずこちらを見たままだが、その目は潤み、奔放な色香が全身から漂う。
まいったわね…
サラは目の前の出来事に内心困惑したが、二人の親密で濃厚な変化をつぶさに描くことに集中した。
そして3日目。
サラはいつもより遅い時間に主寝室へ呼ばれた。
その訳は…
説明は何もいらなかった。
部屋に漂う雰囲気、香り、そして乱れたベッド…
何より、既に裸身の二人の様子が、ありありと事後を物語っている。
サラはさすがに憚られたが、仕事は全うしたかった。
それに…サラは改めてポーズを取る二人を見る。
前回2回とは打って変わり、2人の瞳は溶けそう潤み、どこもかしこも輝いている。
ここまで赤裸々な姿は、ともすれば下品になりそうだが、こと2人に至っては、どこまでも崇高で甘美な雰囲気が漂う。
サラはより集中して筆を動かし、デッサンの3日間は無事終えた。
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「ありゃ使い物にならねーな」
ジェラルドの執務室に入るなりアイザックはぼやき、ドサリとソファに身を沈めた。
「…ネイサンか」
執務机の側に立っていたジェラルドが応じる。
「…ああ」
アイザックは宙を見たままだ。
「ミス スウェイツのことですか…」
フリードは短いため息を吐いた。
アイザックが先ほど兵舎の食堂で見たネイサンは、空になった食器を片付けもせず、ただ、ぼーっとしていた。
普段なら人の気配に人一倍鋭いはずだが、アイザックが側に寄り、机をコツコツと叩きながら「おいネイサン」と呼ばれるまで、その気配にすら気づけなかったのだ。
「それは…重症ですね」
フリードは眉根を寄せ、心配げだ。
「ヤツはカタブツだからな。今朝、ミス スウェイツがダヴィネスを離れることを話した時も、鳩が豆鉄砲を食らったような反応だった」
ジェラルドは水差しからグラスへ水を注ぐ。
アイザックがハッとする。
「まさか、自覚がなかったってことは…」
「おそらくなかっただろう」
言い切ったジェラルドに、アイザックはまじかー!と額に手を充てた。
「ジェラルド、一度話してやってください。手遅れにならないうちに」
フリードは真面目な顔だ。
「そうだな…」
言いながら、ジェラルドはグラスの水を半量ほど飲んだ。




