サラ(1)
今日から三日連続の投稿となります。
お楽しみいただけたら幸いです。
「先生ぇ~、今日は何描くの~?」
城塞街にある孤児院。
談話室に、講師の画家であるサラ・スウェイツを囲んで、子ども達が集まっている。
孤児院では情操教育のひとつとして、週に一度の絵画教室を開いていた。
そこには孤児だけでなく、ダヴィネスに住まう子供達が身分に関係なく集っている。
出入り自由の珍しい絵画教室を考えたのは、ダヴィネス領主夫人だ。
最初は皆戸惑いがあったが、領主夫妻の子女のアンジェリーナをはじめ、数人の貴族の子息や子女達がこぞって参加したこともあり、今では人気の教室となった。
初めての試みゆえ、当初互いに警戒や遠慮はあったが、顔を合わせる機会が増えるにつれ、子ども同士の身分の垣根は無くなり、大きなトラブルも皆無だった。
この素晴らしい試みをするにあたり、講師を打診されたサラ・スウェイツは、二つ返事で請け負った。
サラが、ダヴィネスへ来て良かったと思えたことのひとつだった。
・
サラ・スウェイツ…城塞街では名の知られた挿し絵画家だ。
小さなハガキやワインのラベル、歳時のカードなど、そのファンは少なくない。
ただ、彼女にはもうひとつの顔がある。
それは、王都では引きも切らぬ人気画家サミュエル・セイジ…実はその人なのだ。
遡ること7年程前に、サラはダヴィネスへ移り住んできた。
その前は、シヴィル子爵夫人として社交界にも出入りしていた。
サラの生家は豊かではない男爵家で、政略結婚でシヴィル子爵家へ嫁いだ。
男爵家は見返りとして子爵家からの金銭的な援助を約束された。
サラはしっかり者で、その思慮深さを見込まれ、当時フラフラとしていた子爵令息の嫁として姑に望まれ結婚したが、夫婦仲ははじめから破綻していた。
代替わりをして数年経ち、表面上は夫婦の体裁を整えていたが、子爵は外に子どもを作ると、サラは子どもができないことを理由に、一方的に離縁を言い渡された。
実家へ帰っては迷惑が掛かる。
体ひとつになったサラは、心機一転、辺境の地ダヴィネスへ移り住んだのだ。
サラには、誰にも言っていない秘密があった。
それは画家としての顔だ。
絵画は幼い時からの趣味で続けており、嫁いでからも細々と続けていた。
ある時、思いきって王都の画商へ男名前で絵を送ったところ、ギャラリーで買い手がついたと連絡があった。
とある上位貴族の夫人が大変気に入り、継続して作品を購入したいとのことだった。
サラは信じられない気がした。
しかし、これはチャンスだとも思った。
夫には省みられず、姑からは後継ぎを設けられない責を問われる…サラは、もしものこと─離縁─を考え、そこから用意周到に画家としての別の顔と生業を続けた。
シーズン中に、一度だけ王都の画商を訪ねたことがある。
その時は証拠として1枚の絵を持参し、サミュエル・セイジの縁者と名乗り、人嫌いのサミュエルとのやり取りを仲介していると事情を説明した。
得てして芸術家は変わり者が多い。最初は警戒した画商も、サミュエルの絵を見せると、以降の取引も快く申し出てきた。
しばらく後、サラは予想通り離縁を言い渡された。
正直、サラはホッとした。
画家としての蓄えが十分あるので、経済的には全く困らない。それどころか、実家への支援も子爵家に変わり続けることができる。
しかし、貴族社会の煩わしさは二度とごめんだった。
王都の賑やかさよりも、サラは心の平安を望んだ。
ダヴィネスは、あらゆる所から人が流れる場所と耳にしていた。
現辺境伯がその地を治めてからは、成長著しいと聞く。嫉妬混じりに辺境を悪し様に言う者もいるが、サラは賭けてみることにした。
実際暮らしてみれば、ダヴィネスは予想以上に居心地の良い土地だった。
移り住んだ当初は冬の厳しさに辟易したが、その分春の暖かさが身に染みてありがたい。
しかも、辺境ではあっても城塞街では全てが整っており、生活する上で困ることはない。
サラがもっとも好ましいと感じたのは、人同士の距離感だ。サラと同様にダヴィネスで新たな生業を始める者も多い。
身分や出自の垣根が無いわけではないが、驚くほど薄い。余計な詮索も少ない。
この辺境の地で、皆が力を合わせて生活する様は、知らず傷ついたサラの心を癒してくれた。
恐らく、領主である現辺境伯夫妻の姿勢が、深く民にも影響を及ぼしているとサラは感じた。
サラは、元子爵夫人であったこと、サミュエル・セイジのことは隠しつつ、一庶民の挿し絵画家として倹しく暮らしていた。
そんな中、ひとつだけ驚いたことがある。
領主夫人のレディ カレンは、元ストラトフォード侯爵令嬢で、そもそも雲の上の存在だが、王都で目にした機会があったことだ。
対面で話したことはないが、何かの折に顔を合わせている可能性はある。
しかし、孤児院で初めてレディと顔を合わせた際には初対面の感触で、サラは安心した。
レディは元侯爵令嬢の身分で辺境へ嫁ぎ、分け隔てなく民とも接する。
王都で遠くから見た時…“孤高の侯爵令嬢”と呼ばれていた時とは雰囲気も異なり、ダヴィネスを心から愛するその姿勢に触れるにつけ、サラは心が温かくなるのを感じた。
・
「今日は、お友達のお顔を描いてみましょう」
サラは子ども達に告げた。
「はーい!」
子ども達は各々スケッチブックを手に、声を掛け合って向かい合わせに椅子を移動させる。
奇数ならば一人余るはずだ…しかしサラの心配をよそに、ぴったり偶数の子ども達は2人ずつのペアでスケッチを始めた。
「よーくお顔を見てね。今まで気づかなかった小さなこともわかってくるわよ」
サラは部屋を見回しながら話す。
「…先生は描かないのですか?」
ふいに、領主夫妻の娘であるアンジェリーナがサラに声を掛けた。今年6才になる利発な少女は全く分け隔てなく皆に接し、人気者だ。
アンジェリーナのペアは、孤児院で暮らす女児だった。
「そうね、誰かペアの人がいなければお相手になろうかなって思ったんだけど…みんなぴったりペアが決まったから」
と、正直に話す。
「ふうん…じゃあ、ネイサンは?」
アンジェリーナは談話室の外に控える護衛の方を振り向いた。
「!?」
突然名を呼ばれたネイサンと呼ばれる護衛の騎士は驚いている。
「え?」
突然の提案に、サラも驚く。
「だって、ネイサン暇そうだし」
アンジェリーナの言葉に、子ども達が笑う。
それはそうだが、護衛とはそういうものだ。
「アンジェリーナ、ネイサン殿はお仕事中よ…」
と、声をひそめる。
「例え暇そうでもね」
サラはいたずらっぽく微笑んで付け加えた。
「そっか…わかりました!」
アンジェリーナは元気よく答えるとスケッチを始めた。
アンジェリーナの気まぐれに付き合うことを回避してくれたサラに、ネイサンは律儀にペコリとお辞儀をした。
サラもお辞儀を返す。
民に混じっているとはいえ、アンジェリーナは公人だ。常に護衛が付いている。それは仕方ないことで、皆もよく理解していた。
しかし、いつもはティムと呼ばれる若い騎士が護衛だが、今日は違うようだ。
サラがネイサンに会うのは2度目だった。1度目はレディ・カレンとお会いした時。
落ち着いた雰囲気と屈強な体躯、隙の無い佇まいはいかにも古参の騎士らしい。
「……」
サラは、静かにスケッチブックと鉛筆を手に取ると、サラの座った場所から見えるネイサンの横顔を描き始めた。
サラは、人物画はあまり描かない。
挿し絵画家としては草花や小動物など専ら可愛らしい物をモチーフとしている。
一方サミュエル・セイジとしては、季節を切り取った風景画を描いていた。幸い、生家も嫁ぎ先も領地は田舎だったので、モチーフに困ることはなかった。
それは、ここダヴィネスにおいても同様で、より厳しくあるがままの自然は、サラの創作意欲をかきたてた。
しかしなぜか、ふとネイサンを描きたくなった。
じっと一点を見つめ、護衛に徹する横顔…厳しさと優しさが溢れるその様を切り取りたい衝動にかられたのだ。
・
「さ、みんな出来た?」
30分ほど経ち、サラは子ども達に声を掛けた。
皆、言われずともそれぞれ見せ合いをしている。
似てる似てないと喜んだり文句を言ったり…子どもは元気だ。
「あれ?先生のそれ…」
ふと見ると、そばにアンジェリーナが来て、サラのスケッチブックを覗いている。
やだ…!
「うわぁ~スゴイ!これネイサンですね!」
アンジェリーナは感心しきりだ。
その声に、子ども達がわらわらと集まってくる。
うおー、そっくりだ!カッコいい~など、サラはかしましい子ども達に取り囲まれた。
スケッチブックを閉じるに閉じれず、サラは少し困った。
「お前達、先生を困らせるんじゃないぞ」
と、くだんのネイサンが近づく。
「ねえねえネイサン、見てよ!」
アンジェリーナがサラの手元からスケッチブックを取り、ネイサンに見せた。
「っ!あ!」
サラはしまったと思ったが、遅かった。
ネイサンはアンジェリーナの持つスケッチブックに釘付けになっている。
「……」
「あ、あの、勝手に申し訳ありません!」
半ば盗み見のように、男性をスケッチしたことが余りに恥ずかしい。
黙っていたネイサンだが、ふいに喋った。
「俺、こんなに男前じゃないですよ」
人の良さそうな顔でにっこりと笑う。サラはドキリとする。
「えー?でもソックリだよ?」
アンジェリーナは食い下がる。
「そうですか?…それは先生の腕がいいからですよ」
ネイサンは笑いながらスケッチブックをパタリと閉じ、サラに返した。
「…すみません」
サラは下を向いたまま、スケッチブックを受け取った。
…なんてことだろう。盗み見した挙げ句、気を遣わせてしまうなんて…!
「いえ、お気になさらないでください」
ネイサンは穏やかに言うと、その場を離れた。
・
「で、それがネイサンだったのです」
ディナーの席で、アンジェリーナは今日の孤児院での出来事を両親に話した。
カレンは話を聞き、ふうとため息を吐くとカトラリーを一旦置いた。
「アンジェリーナ」
「はい」
「ミス スウェイツに、ネイサンへスケッチを見せてもいいかのお伺いはしたの?」
カレンの問いに、アンジェリーナはハッとして、次にシュンとした。
「…いえ、してません」
「それはとても失礼な振る舞いだったわね」
「…はい」
「次にミス スウェイツにお会いしたら、謝ることはできる?」
アンジェリーナは顔を上げた。父と同じ深緑の瞳を煌めかせて。
「できます」
「いい子ね、信じるわ。さ、お食事を済ませて」
「はい」
アンジェリーナは子どもらしくパクパクとディナーを再開した。
アンジェリーナは好奇心旺盛で、興味を持つととことん追いかける時がある。
子供らしいと言えばそれまでだが、人の機微には敏感であってもらいたい。
カレンとジェラルドは、顔を見合せて微笑み合った。
・
「明日、ミス スウェイツをお訪ねしてみます」
その日の夜、ジェラルドの腕の中でカレンは呟いた。
「アンジェリーナがやらかしたこと?」
「…はい」
カレンにとって、ミス サラ・スウェイツは、頼りになる絵画の先生だ。とても控え目で大人しい方ではあるが、ハッキリしていて、孤児院での教室の報酬も、頑として受け取ってくれない。
彼女は少し謎に包まれているが、カレンは全く気にしない。しかしその雰囲気や所作から、貴族の出であろうことは疑いようはなかった。
だが、自ら挿し絵画家を名乗り、市井に身を置いているのだ。事情がどうあれ、他人がどうこう言う筋合いはない。
ミス サラ・スウェイツは、限りなく黒いブラウンの髪、瞳は夜空の様なダークブルーで、いつも黒いドレスを着ている。
なので、人は彼女を未亡人だと思っているだろう。
でも、カレンはそうではないと思っている。
彼女は寡婦でなければ未亡人でもない。
あの黒いドレスは“拒絶”だ。自分と他人との境界をハッキリ示している。
現に、いくらカレンがお茶会やディナーにお誘いしても絶対に諾は得られない。
しかし、カレンはそれも彼女の個性と受け入れている。そんな彼女が、孤児院での絵画教室の講師を快く引き受けてくれたのだ。
それだけで、彼女の人となりはわかり過ぎるほどにわかる。
カレンは彼女を好ましく思っていた。
ゆえに、今日のミス スウェイツに対するアンジェリーナの行動は許しがたかった。
所詮子どものしたこと…とは見逃せなかったのだ。
「あなたは芸術家に対して懐が深い」
「うーん、そんなことはないですが…やはり彼らは特別ですし、気になります」
「特別…か」
「はい」
「確かに、ジャック・エバンズは変人だしな」
ジェラルドはニヤリと笑う。
「しかし、妬けるな」
言いながら、ジェラルドはカレンを強く抱き締めた。
「? なぜですか?」
「あなたの特別は特別だから」
?
カレンは意味がわかりかねるが、ジェラルドと隙間なく抱き合うこと以上に特別なことなど、何もないとはっきり言える。
そんな思いを込めて、カレンはジェラルドの形の良い唇にキスすると、ジェラルドはふっと微笑み、深い口付けでそれに応えた。
・
朝早くにダヴィネス城から、今日訪れたいと先触れの騎士が手紙を持ってきた。
差出人はレディ カレンだった。
…なんだろう。検討がつかない。
絵画教室のことで何か…?
それにしても…と、サラは部屋を見回す。
住処兼アトリエのサラの住居は、城塞街によくある中流階級が住まうアパートメントで、お世辞にも広いとは言えない。
しかもインテリアも必要最低限で、ガランとしていて殺風景だ。
領主夫人を迎えるには余りにもお粗末だと感じる。
しかも…
ここにはサミュエル・セイジの作品がある。
城塞町のティーサロンで待ち合わせてもいいが、あまり目立ちたくはない。
「……」
サラは考えた挙げ句、自らダヴィネス城を訪れることにした。
その手紙をしたためると、先触れの騎士に渡す。
「ふう」
なんだか気が重いが、レディ・カレンは嫌いではない。用件が重い内容でないことを祈った。
・
午後になり、そろそろダヴィネス城へ向かおうかと思った時、呼び鈴が鳴った。
扉の覗き穴から誰が来たのかを確かめると…そこには騎士のネイサンが立っている。
「!」
サラは思わず扉から後ずさった。
なぜ?
と、ネイサンは呼び鈴をもう一度鳴らした。
サラは少し混乱しながら、扉を薄く開けた。
「…何か?」
「あ、ミス スウェイツ、騎士のネイサンです。お迎えに上がりました」
そうか、レディは気遣って迎えを寄越してくださったのだ。
「あの…いえ、すみません。お気遣いはありがたいのですが、まだ準備ができていなくて…」
「失礼しました。それでは下で待っておりますので、」
「いえ、あの…」
サラは急に、ダヴィネス城を訪れることがひどく場違いに感じはじめた。
しかし、迎えまで寄越してくれた手前、にべもなく断る訳にもいかない…
「少しお待ちください」
と言うと、パタンと扉を閉めて、書斎机に向かう。
便箋にサラサラと文章を書くと、封筒に入れて封をした。
「お待たせしました」
扉を開けると、そこには先日孤児院で見たとおり、逞しい体躯の騎士ネイサンがいる。
「ご準備はできましたか?」
「…いえ、これをレディにお渡し願えますか?ご無礼は重々、承知しております」
「…え?」
「失礼いたします」
「あ、あの」
呆気に取られたネイサンの鼻先で扉をバタンと閉めると鍵を掛けた。
ごめんなさい、レディ カレン…
サラは気持ちを振り払うように顔を上げると、アトリエのカンバスに向かった。
絵を仕上げよう。
・
人にどう思われるか…そんな思いはとうに捨てたつもりだった。
自分と絵。
サラの今の人生には、間違いなくそれだけだ。
それさえあれば、静かに余生を過ごせる。だから、他は捨てた。特に女性としの喜びは自分には必要ないものと切り捨てた。
結婚や子どもを持つことで得られる喜びはもちろん、色とりどりのドレスやアクセサリーを選び身に付けること、友人との気のおけないおしゃべり…。
しかし、孤児院の絵画教室に関わったことで、少なからず心を乱されたのは確かだった。
ダヴィネスへの恩返しのつもりで受けたが、存外に楽しんでいる自分に驚いた。
子ども達は皆可愛く、シスターも優しい。
人との関わりに再び期待を持ちそうになった。
レディ カレンや領主様の妹君のレディ ベアトリスと会うことも気が引けたが、少しは貴族時代に身につけたマナーが役に立ったかもしれない、などと思っていたのだ。
でも、やっぱり私には無理だわ。
サラは、カンバスを見つめながら、グラスのワインを一気にあおった。
胸に常に重石のようにある孤独。
結局、私にはこれしかない。
・
翌日、日も高くなった頃、サラは目を覚ました。
頭痛がひどい。
一人だと際限なく飲んでしまうが、それも自由と言える。
今日は出来上がったサミュエル・セイジ名義の小作品をいくつか、王都の画商へ送るつもりだった。
鎮痛剤を残ったワインで流し込むと、いつもの黒いドレスに着替え、作品を梱包し部屋を出た。
何も食べていないせいか少し気分が悪い。
郵便局へ行き荷物を出し、外へ出たとたん、気分の悪さと共に眩暈が襲った。
思わずその場に蹲る。
最後に食事をしたのは…確か絵画教室へ行く前?…とすると、丸二日食べていない。
作品に集中するとよくあることだが、昨日は深酒をしたので、いつもより体に堪えたらしい。
「ミス スウェイツ、大丈夫ですか?!」
耳のそばで聞き覚えのある声がするが、目の前が真っ暗で何も考えることができない。
「ミス スウェイツ??」
この声は、確か…
思い出す前に、サラは意識を手放した。
・
ここは…どこ…?
「あ、どうかそのまま、今奥様を呼んでまいりますのでね」
サラは見覚えのない部屋で目を覚ました。
豪華な天蓋が目に飛び込む。
声の方に顔を向けると、これまた知らない女性…メイド服を着た…が心配そうに、だがにこやかにサラの顔を見ている。
「あの…」
起き上がろうとしたが、体に力が入らない。
「あ、どうかそのままで。お体が悲鳴を上げておられますよ」
…どういうことだろう。とにかく、ここはどこだろう?
サラは混乱した。
ベッドや部屋の豪華な様子から、どこかの貴族のお邸なのは確かだ。
でも、いったい誰の?
回らないままの頭で考えていると、誰かが部屋に入ってきた。
「ミス スウェイツ、お目覚めですか?ご気分はいかがです?」
サラはあっと驚く。
サラの顔を心配そうに覗いたのは、領主夫人のレディ カレンだった。
「……」
サラは驚きの余り、言葉を発することができない。
つまりここは…ダヴィネス城だ。
「驚かれるのも無理はありませんわ。ミス スウェイツ、あなたは…」
と、レディは経緯を説明してくれた。
郵便局の前で声を掛けてくれたのは、騎士のネイサンだった。
あぁ、やっぱり。
サラは意識の遠退く中での聞き覚えのある声を思い出す。
カレンからの手紙とちょっとしたお詫びの品を届けに、サラのアパートメントまで行く道すがらに、郵便局の前で蹲るサラを見つけたと言う。
ネイサンはサラの意識が無いことを憂慮し、直ぐに医師に見せることのできるダヴィネス城へ、サラを抱きかかえたまま馬を飛ばし、城まで帰ったとのことだ。
「申し訳ありません…ご迷惑を…お掛けしました」
寝たままの無作法だが、サラはカレンに謝る。
カレンはその長い睫毛に縁取られたライトブルーの目を大きく見開いた。
「ミス スウェイツ、迷惑なんてとんでもないです!ここへ連れてきてくれたネイサンを誉め称えたいくらいですわ…!」
カレンは大真面目に言った。
「…え?」
「運ばれて来た時、あなたのお顔色は真っ青で、唇もカサカサ、普通の状態ではなくて…ごめんなさい、勝手ながら城の侍医に診せました」
サラはなんともいたたまれない。
カレンは続ける。
「診察の結果は、貧血とのことでしたが…あなたの場合、虚血だそうで、栄養が全く足りていないとのことです。あと…」
と、カレンは言いにくそうだ。
「お酒は少し控えられた方がよいとのことでしたわ…」
そんなことまでわかるとは、ダヴィネス城の侍医はどうやら優秀らしい。
「…そうでしたか、すみません」
サラはとにかく人の手を、しかも領主夫人の手を煩わせていることが耐え難い。
カレンはううん、と首を横に振る。
「ミス スウェイツ…そうではなくて…」
と、少し考える。
「もしよろしければ、暫くここへ滞在されませんか?」
「!!」
サラはびっくりした。まさか、あり得ない。
「いえ…!そんな…お気持ちだけありがたく頂戴いたします。私は直ぐに…」
と起き上がろうとするが、やはり体に力が入らない。
「! ミス スウェイツ、起き上がってはダメです…ハッキリ申し上げて、あなたのお体は普通の状態ではありません。どこもかしこも…限界の様です」
サラはカレンを見た。
ライトブルーの澄んだ瞳は、強い輝きだ。
カレンの言うことは恐らく本当のことだろう。
「…少し、考えさせてください」
「わかりました。取りあえず、今日はこのままで…お願いですから」
請うように言われて、サラは返す言葉がない。
その後、体に優しいスープを出されたが、サラは半分も飲めなかった。
この状況に戸惑っているし、何より領主の住まいで世話になるなど考えられない。
その夜、サラは浅い眠りに何度も目が覚め、その度にダヴィネス城に居る現実に気づかされ、不安を募らせた。
そして夜明け前。
サラは重い体をやっとのことで起こすと、這うようにクローゼットから自分の服を取り出し、やっとのことで着替え、覚束ない足元で部屋から出た。
とにかく早くここから離れたかった。
何かに掴まらないと歩けないので、壁伝いに廊下を歩くと、階下へ降りる階段を見つけた。
手すりにしがみつき、階段を一段ずつ降りる。
階段の中程まで来ると、周りの景色がぐるぐるとまわりだし、やむを得ず手すりに持たれてしゃがみこんだ。
…限界…レディは私の体をそう言った。
確かに、自分の体のことなど省みたことはない。
子爵家に居た頃は、それでも義務のように食事は取っていたが、ダヴィネスへ来てからはまともな食生活は送っていなかった。
空腹を覚えれば適当に食べ、眠たくなれば寝る。
描きたい時に描ける自由な生活は、反面かなり不規則で、不健康だった。
何年もそんな生活を送っていれば、限界も来るだろう。
でも、もういい。
この世に思い残すことなど、何もないのだ。
「…ミス スウェイツ…ミス スウェイツ?」
顔を上げると、ネイサンの顔が目の前にあった。
心配そうにサラの顔を覗いている。
「なぜこんなところに?」
ネイサンは優しく聞く。
「……」
サラの顔は涙に濡れていた。
「…歩けますか?」
「……」
ネイサンは「失礼します」と言うと、サラを横抱きにしようとした。
「…さい」
「え?」
「…お願いだから、放っておいてください…」
「ミス…」
「…死にたい…」
サラは、絞るように呟いた。
「!!」
「…あっ」
ネイサンは有無を言わせずサラを横抱きにすると階段をかけ登り、サラの元居た客室へ入った。
「あの、」
ネイサンは黙ったまま、サラを静かにベッドへ下ろし、ふわりと上掛けをかけた。
「…いいですか、ここから一歩も動いてはダメですよ」
サラを射すくめるような強い目で言うと、ネイサンは部屋から去った。
サラは呆然として、されるがままだ。
ただ、涙が勝手に次々と溢れてくる。
と、バタバタと廊下から音がしたかと思うと、勢いよく入ってきたのは…寝衣にガウンを羽織ったレディ カレンだった。
切羽詰まった顔をしている。
カレンはサラの枕元に素早く跪く。
「ミス スウェイツ、もうあなたの意見は聞けません。申し訳ないけど、当分ここにいていただくわ」
と言うなり、テキパキと侍女に指示を出し始めた。
「…もし、ここに居ることに気が引けるのであれば、お元気になられた時に何か返していただきます。割り切って交換条件でいきましょう」
「…私には、お返しできるものなど…何も」
サラは小さな声で呟いた。
カレンはその声を聞いて、サラを着替えさせる手を止めた。
「あるわ」
と、サラの顔を見てにっこりと微笑む。
「あなたにしかできないことが」
・
「死にたいと…?」
カレンから、サラ・スウェイツについて一通りの説明を受けたジェラルドは、信じられないと言う顔でカレンを見た。
カレンは暗い面持ちで頷く。
朝食室で人払いをして話す。
ただ、ネイサンはその場に居た。
明け方に、ネイサンに主寝室の扉をノックして起こされると、カレンは物も言わずにサラの元へ駆けつけた。
サラのことを重く見たカレンは、ネイサンと共にジェラルドに事のいきさつを説明している。
「カレン、彼女は…何者なんだ」
ジェラルドの勘働きには恐れ入る。
カレンの話しぶりを見て、サラ・スウェイツが単なる挿し絵画家ではない…ただ者ではないと察したのだ。
「彼女は…元シヴィル子爵夫人です」
「なに?」
「初対面の時、どこかで見た気がして…」
でもすぐには思い出せませんでした。とカレンは続ける。
「なので、頭の中の貴族銘鑑のAから順に、家名を辿っていったのです」
「“C”で良かったな」
ジェラルドは少し茶化した。
カレンはもう!とジェラルドを睨んだ。
「でも本当にそうです。自分の記憶に感謝しましたが…絶対という確信は持てませんでした。なので…」
「お母上に聞いた?」
「はい。ご存知のとおり鳩便で。母は『歩く貴族銘鑑』ですので」
カレンはクスリと笑う。
レディ ストラトフォードからは、長い手紙の返信が届いた。
やはりサラは元シヴィル子爵夫人であること。生家は豊かでない男爵領であり…後継ぎを望めない理由で離縁されたこと…。
ジェラルドは話を聞きながら苦々しい顔だ。
そして、カレンは母からの手紙を読みながら、あることに気づいた。
「ジェラルド様、彼女にはもうひとつ、別の顔があるのです」
「別の顔…?」
「はい。彼女は人気の画家のサミュエル・セイジ、本人です」
「!」
ジェラルドはシーズン中に、王都のギャラリーへカレンと行き、そこでサミュエル・セイジの絵を見たことを思い出した。
「…そんなことが…あるのか?」
話を聞いていたネイサンも驚いている。
カレンはニコリと笑う。
「きっかけは、彼女の城塞街での売り物でした。小さなカードやワインラベル…なぜか既視感があったのです」
カレンは母の手紙を読みながら、母の私室やストラトフォードのコレクションルームに飾ってある、サミュエル・セイジの絵を思い出したと言う。
「母は、サミュエル・セイジが出始めた頃からの上顧客でして…」
挿し絵は水彩画だが、サミュエル・セイジの作品は油絵だ。しかしいずれも自然の有り体を柔らかな筆致で描いており、醸し出す雰囲気は同じであることに気づいた。
「しかも、最近のサミュエルの作品は、どう見てもダヴィネスの風景なのです」
これは母が気づきました、と、カレンは扉の外に控えるニコルを呼んだ。
ニコルは手に小さな額に納められた絵…レディ ストラトフォードがカレンに送った…を持っており、それをジェラルドに渡した。
ジェラルドは絵を見て驚く。
「これは…確かにダヴィネスだ」
ダヴィネスの春…雪解けと共に、白や黄色の小さな花々が一斉に芽吹く、喜びの季節。背後には切り立った山肌が聳えている。
「S.S…サミュエル・セイジであり、サラ・スウェイツ、ということか…」
絵画の角のサインを見て、ジェラルドが呟いた。
「彼女は恐らく…心も体も、限界の状態です。死にたいと言ったことも…決して看過できません」
「サラの力になりたいと?」
「はい。彼女は望まないかも知れませんが…放ってはおけません」
ジェラルドはカレンの心配そうな顔を見て、ふうっと息を吐いた。
次いでネイサンを見る。
「…ネイサン、お前もか」
「…はい。ミス スウェイツは、ご自身の命に責任を持つべきかと」
いかにも騎士らしい言葉だが、ジェラルドはネイサンの真剣な目を認めた。
「わかった。サラ・スウェイツのことはダヴィネス城で責任を持とう…これでいい?カレン?」
ジェラルドは深緑の瞳をキラリとさせて、カレンを見た。
「ジェラルド!ありがとうございます!」
カレンは立ち上がり、ジェラルドの元へ行くと抱きついて頬へキスをした。
ジェラルドは満足そうに微笑むと、カレンの頬へキスを返した。




