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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
二章. 椿の屋敷

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隠密


椿が帰ってきた時、そこにはもう「いつもの彼女」はいなかった。


着慣れた制服は脱ぎ捨てられ、代わりに彼女の細い輪郭を包んでいるのは、冷たい光沢を放つ淡い絹の衣だ。


まとめ上げられた髪、透き通るような白い肌、そして微かに漂う、凛としてどこか刺々しい香り。


同じ部屋にいるのに、住む世界がずれていく感覚がした。


「…本当にやるのか?お前が、そこまで背負う必要はないだろ」


椿のまつげが一瞬だけ揺れた。けれど、視線は逸れない。


「リンのためだけじゃないの」


その声は低いが、驚くほど透き通っていた。


「あそこには、私が知らなきゃいけないことが隠れてる。……ねえ、レイ。あの家は、ずっとおかしい。私が見ないふりをしてきただけで」


椿は震えそうになる呼気を一度飲み込み、退路を断つように告げた。


「私は灯郷家を潰したい」


レイの喉が小さく鳴った。


冗談ではない。勢いでもない。

口にした瞬間に戻れなくなる言葉を、椿はちゃんと選んで言った。


薄い化粧の下の目は、昨日よりも鋭い。逃げるのをやめた目だった。


「……なら、なおさら危ないだろ」


「分かってる」


椿は笑わなかった。代わりに、結んだ指に力が入る。


「だから、レイ。お願い。私の時間稼ぎが終わるまで、絶対に見つからないで」


命令でも懇願でもない。

“信頼”という形で差し出された言葉だった。


レイは、ひとつ息を吐いた。


「目立たないのは得意だ。闇に溶けるのも、息を殺すのも慣れてる」


言いながら、椿の肩口に手を置きそうになって、やめた。

触れたら、引き止めたくなる。


椿は小さく頷き、背筋を伸ばした。


「じゃあ、行ってくる。……合図、忘れないでね」


「ああ。忘れない」


椿が部屋を出ていく。

廊下を去っていく足音が、母屋の喧騒に溶けて消える。


レイは深くフードを被り、実体を持たない影そのもののように庭へ滑り出した。縁側の下、灯りの届かない死角。そこは、レイにとって家の中よりも馴染み深い「戦場」だ。


手首の内側、皮膚の下を這うような護符糸の拍動が、レイの神経を鋭敏に研ぎ澄ます。


彼は指先から見えない糸を引き出し、母屋の動線に“関所”を設けていく。


曲がり角。梁の影。床下。


蜘蛛の巣みたいに張るんじゃない。心音だけ拾う、細い罠だ。


——ちり。


脳裏で、糸が鳴った。

レイは動かない。まず速度を読む。人数を読む。


一歩、二歩。柔らかな足音。盆に乗った杯が微かに触れ合う音。使用人だ。


廊下の明かりがゆらぎ、長く引き延ばされた影がレイの潜む角をかすめていく。


一拍、二拍。

使用人は首を傾げ、通り過ぎていった。



——ちり。ちり。


短く、速い。体重移動に淀みがない。

レイの指先が、氷のように冷える。


(……来たな)


狐が、母屋の端に近い暗がりへ姿を浮かべた。


尻尾が、ゆっくり揺れた。


……動き出した。椿の言う“友達”が


レイは影の中で位置をずらし、書庫へ繋がる廊下の外周へ移動する。灯りの真下には立たない。光源の輪の外、影の縁だけを辿る。


——再度、糸が鳴った。すぐ近い。

レイは反射で踏み出しそうになり、止めた。


別の足音が近づいてくる。一人ではない。衣の擦れる音。


偶然か、それとも母屋の“何か”が異変を察知し、網を広げ始めたのか。


(……足止めだ)


レイはトラップ用の糸を、一気に引き絞った。


遠くで花瓶の割れる音が響き渡る。


「何事だ!?」

足音が慌ただしく音の方へ引き寄せられていく。


レイは息を殺したまま、狐だけに届く声で言う。

「……止まるな」


闇に浮かぶ狐が、金色の瞳を一度だけ細めた。


レイの視線に応えるように尻尾をひとつ振ると、迷いのない動きで廊下の影へすっと滑る。


——合図が回った。


書庫の扉が、悲鳴のような軋みを上げて、わずかに開いた。


レイは息を吸い、吐いた。

手首の内側の糸が、冷たく鳴る。


(……椿。お前が戦ってる間に、全部終わらせてやる)


隠されているものが何であれ、椿を危険に近づける前に——。


レイは暗がりで糸を握り、次の気配の重なりに備えた。

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