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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

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入学前夜


夕食の席は、いつだって何かを決定するために用意されている。


母屋の食卓は広い。けれど椅子と椅子の間にある空気は、驚くほど狭く感じる。乱れのない銀のカトラリー、完璧な調和。その美しさが、かえって椿の呼吸を浅くさせる。


食卓の端、当主である父が、端正な笑みを浮かべて口を開く。


「椿も、もう高校生だな」


ワイングラスを僅かに傾け、宝石のような液体を揺らす。


「卒業後の進路も早急に決めねばならん。社会へ出す前に、相応しい婚家を見つけておくべきだ」


椿の肩が微かに跳ねる。だが表情は殺し、ただの「人形」として耳を傾けた。


「三年の時間があれば、外に出しても恥にならぬよう、完璧に仕上がるはずだ」


母が静かに頷き、すべてが決まった。喉の奥にせり上がる塊を無理やり飲み込む。逆らわず、従順でいること。それが、この家で生き残る唯一の術だった。


椿は“ともしび”の血筋に生まれた。怪異をほふる異能を宿す、呪われた家系。この家にとって、椿は人間ではない。家門のために怪異を狩り、家門のために嫁ぐ「道具」だ。


「……九尾の動きが目に余るな。灯の血筋を狙っているという噂もある」


父の関心は、すでに次の「業務」へ移っていた。そこにはもう、娘の入る隙間などない。

幼い頃、兄の策略で離れに追いやられてから、父が家業を語る相手は兄だけになった。


「……私はこれで失礼いたします」


音もなく椅子を引き、立ち上がる。父は視線すら向けなかった。


離れへの廊下を抜け、自室の戸を閉めてようやく息を吐く。

窓の外には、街の灯りが遠く散らばっていた。


鳥かごの中にいることには慣れていた。それでも今日、自由を手に入れる日は永遠に来ないのだろうと、得体の知れない恐怖を覚えた。


……監視は、今ならいない。


逃げ出したいわけではない。ただ、あの光の海に触れてみたかった。


椿は初めての反抗として、窓を押し開ける。夜風が頬を撫でた。靴を手に取り、窓枠に腰を掛けて外へ降りる。

抜け出せない監獄だと思っていた家は、窓一枚で呆気なく外の世界と繋がっていた。




街までたどり着くと、甘い匂いとタバコの匂いが混じっていた。笑い声と走行音。世界はこんなにも騒がしく、自由だ。


宛てもなく歩いていた椿の肌を、唐突に冷気が刺した。


――怪異の気配。


肌の裏側を薄い刃物でなぞられるような、不快な違和感。視界の端が陽炎のように歪み、大気が刺々しく変質していく。


椿は立ち止まった。

街灯は明るいのに、その男の周りだけが墨を零したように暗い。


不自然に首を突き出し、飢えた獣のような足取りで近づいてくる男。その足元にはドロリとした影がまとわりつき、男の心拍に呼応するように脈打っている。


(……憑かれている)


男の手が椿の肩へ伸びる。一歩退こうとして、舗道の段差に踵を奪われた。

その隙に、男の口角が吊り上がる。


「ああ……“灯”かぁ……!」


男の喉を借りて、怪異が歓喜に震えた声を出す。

人を完全に支配するほどの強力な憑依。それを祓う力を、椿はまだ持っていない。


男の呼吸が荒くなり、掴みかかるように腕が伸びた。


椿は、掌の奥に熱を集めた。今の自分では足りないと分かっていても、やるしかない。


内側に沈めてきた力を、無理やり引きずり出す。指先に淡い光が灯り、周囲の空気がパチリと弾けた。


「……退きなさい!」


男が椿に触れる直前、その灯を男へ向けて押し出した。男の背にまとわりつく黒い影が、ぴくりと震える。布を焼いたみたいに、焦げた匂いが一瞬だけ混じった。


男の動きが一瞬止まり、黒い影が男の輪郭から浮かび上がったが、逃げる隙も与えず、また男の中へと沈んでいく。


視界が白く霞んだ。灯を放出するほどに内側が空になり、指先が痺れ、膝から力が抜けていく。


……まだ、無理だった。

男が体勢を立て直しかけた、その時だった。


「なーにやってんの!」


場違いなほど明るい声が、夜の闇を割った。


「はい、これ被ってなさいって!」


突如現れた少女は、道端に置かれた金属製のゴミ箱をひったくるなり、躊躇なく男の頭へ叩き込んだ。


鈍い金属音が響き渡る。男の罵声がゴミ箱の中に閉じ込められ、くぐもった音に変わった。視界を奪われた男が、滑稽に腕を振り回す。


「早く!逃げるよ!」


手を掴まれ、闇から引き剥がされる。抗う暇もなく、人工的な光が溢れる方へと走らされた。


「……はぁ。危なっ」


自販機の明かりの下で、ようやく足が止まった。

少女は肩で息をしながら、椿を覗き込む。


「大丈夫? 変なやつ、最近多いんだからさ。ああいうのは真面目に相手しないで、逃げるのが一番なの!」


椿は荒い呼吸を整え、痺れる指先を隠した。

そして、堪えきれずに吹き出した。


「……ふっ、ふふ、あはははっ!」


「……何笑ってんの? こわっ」


「ごめんなさい……でも、ゴミ箱に、あんな……あんな使い道があるなんて!」


「変なやつ。怖くないのかよ、普通」


少女は呆れたように肩をすくめ、耳元でいくつも揺れるピアスを指先で弾いた。


「……アタシはエマ。あんたは?」


「私は、……椿、と申します」


「……いいとこのお嬢様?なんでこんな時間に、あんなとこいたわけ?」


「それは…」


普段の椿なら、決して口にしなかっただろう。けれど今夜、この少女の前では「人形」である必要はなかった。


「……家に、いたくなかったのです。あそこは監獄と同じですから。父は私を、口もきかない操り人形だとでも思っているのでしょう」


エマは一瞬だけ黙り、それから、あまりにもあっさりと笑った。


「よし、決めた。今から遊びに行こう。帰りたくない夜って、あるじゃん?」


「……遊ぶ、とは?」


「ゲーセンとかカラオケ。お嬢、行ったことないでしょ? そういう顔してる」


「……お嬢、ですか?」


「ほら、金持ってんでしょ。奢ってよ。アタシもちょうど暇だったんだ」


差し出されたエマの手。それは少し荒れていて、でも、椿の指先よりもずっと温かかった。


「……分かりました。ただ、走るのはもうお終いにしませんか?」


「無理! ついてきて!」


ネオンの光が、二人の影を色鮮やかに引き延ばしていく。

椿は走り出しながら、ふと振り返った。


一瞬、さっきの影の気配が蘇り、すぐにそれは暗闇に消えた。

——けれど、誰かの鋭い視線が、刃のように背中に突き刺さっている気がした。


「どうしたの?」


「……いいえ。なんでもありません」


椿はもう一度深く息を吸い、エマに引かれるまま、夜の海へと飛び込んだ。


今夜だけは、籠の外で呼吸をしてみたかった。その先に、何が待っていようとも。


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