大火災の記憶
ハルの過去
雨の滴る、湿った街の匂いがしていた。
家出をして数ヶ月。ハルは「大人の顔色」を伺うことには慣れていたが、自分より小さな子供の「絶望」には、まだ免疫がなかった。
出会いは、最悪だった。
土砂降りの交差点。大型トラックのライトに照らされ、死神に招かれるように車道へ踏み出した少年の腕を、ハルは無我夢中で掴み取った。
「――っ、このバカッ!」
反射的に駆け出し、細い手首を掴んで歩道へと引き戻す。倒れ込んだ少年の体は、驚くほど軽くて冷たかった。
「……死にたいのかよ。死ぬなら、俺の見てないところでやってくれ」
荒い息を吐きながら毒づくと、少年――レイは、感情の欠落した瞳でじっとハルを見つめ返した。
そのボロボロの服と、やせ細った体。ハルは、親に売られて消えた自分の弟妹の姿を、どうしようもなく彼に重ねてしまった。
「……行く場所ないなら、来いよ」
それが、レイとの始まりだった。
行く場所のないレイを廃ビルへ連れ帰った日から、泥にまみれた「一年」が始まった。
ハルが身を寄せていたのは、取り壊し寸前の廃ビル。親から捨てられた者、社会からこぼれ落ちた者が十数人、カビの生えた毛布を奪い合って生きる「家出グループ」の拠点だ。
最初は、ただの「拾い物」だと思っていた。レイは一切口を利かず、隅っこで膝を抱えているだけの影のような存在だった。
「食えよ。ここでは黙ってたら死ぬだけだぞ」
差し出されたパンの耳を、レイは怯えた獣のような目で、けれど必死に貪り食った。
降り続く雨が、アスファルトを焼く陽炎に変わる頃。
気づけば、レイがハルの後ろを歩くのは当たり前の光景になっていた。
生きるために、ハルはレイを連れて街に出た。自動販売機の裏に落ちた小銭を漁り、コンビニの裏に廃棄される弁当の時間を覚えた。
「いいか、レイ。これは『盗み』じゃない。『拾う』んだ。見つかったら走れ。誰にも捕まるな」
ハルはレイの細い肩を叩き、生きるための「汚い知恵」を叩き込んだ。
灼熱のアスファルトの上で、二人は泥水を啜るようにして生きた。ある日、数人の浮浪者に絡まれた際、レイは無言のままハルの前に立ち、必死に牙を剥いた。
「……ハルに、触るな」
初めて聞いたレイの声は掠れていたが、冷徹なまでの敵意に満ちていた。
その夜、分け合った一本のぬるいペットボトルの水は、どんな贅沢品よりも甘く感じられた。
喉を焼くような渇きが、乾いた砂混じりの風に混ざり始める。
気づけばレイの背丈は、ハルの肩に届くほどに伸びていた。
二人の距離は、いつしか「保護者と被保護者」から「相棒」へと変わっていた。
レイはハルの癖を覚え、ハルが何も言わなくても次に何をすべきか察するようになった。
「ハル、今日の廃棄。パンじゃなくて、おにぎりだった」
少しだけ表情を和らげたレイが、戦利品を見せるように袋を差し出す。ハルは笑って、レイの頭を乱暴に撫でた。
「上出来だ。……お前、背、伸びたか?」
並んで座る廃ビルの屋上。沈みゆく夕日が、ボロボロの二人を黄金色に染め上げる。
このまま、この生活が永遠に続くのではないか。そんな甘い錯覚が、ふとした瞬間に胸をかすめた。
そして、あの日が来た。
家出をしてから、ちょうど一年が経とうとしていた冬の夜。
寝苦しい熱気で目が覚めた。
最初は、誰かが焚き火でも失敗したのかと思った。けれど、まぶたの裏まで赤く染めるような光と、嗅ぎ慣れた廃ビルのカビ臭さを塗りつぶす「焦げた匂い」に、心臓が跳ねた。
「……あ、つっ」
起き上がろうとして、喉が焼けるような乾燥に悲鳴を上げる。
窓の外は、もう赤かった。いや、空気が燃えていた。
「おい、起きろ! 逃げろ!」
叫びながら、辺りを見回す。グループの連中がパニック状態で出口へ殺到していた。だが、そこに一番小さな背中がない。
「レイ……っ、レイ、どこだ!」
一年前、交差点で無理やり捕まえた、あの無口な少年。
「死ぬなら、俺の見てないところでやってくれ」と言い捨てたはずなのに、気づけばハルは、火の粉が舞う赤い街へ走り出していた。
⸻
いた。路地の隅。
逃げ惑う群衆の中で、レイだけが呆然と立ち尽くし、空を仰いでいた。
「レイ!」
返事はない。レイの瞳には、渦巻く熱風と、その中で踊る「何か」が映っている。
ハルにはそれが何か分からなかった。ただ、それを見た連中が、次々と内側から発火して、生きた松明に変わっていく光景だけが、網膜に焼き付いた。
(……見るな。あれを見たら、死ぬ)
理由は分からない。けれど、本能が叫んでいた。
ハルはレイの顔を自分の胸に押し込むようにして、その細い手首を掴んだ。
「見るな! 前だけ見て走れ!」
手のひらから、レイの心臓の鼓動が伝わってくる。
服の上からでも分かるほど、世界が沸騰していた。
逃げる最中、仲間の手がハルの肩に触れた。助けを求める声。だが、振り返った瞬間にその少年は発火し、ハルの目の前で真っ白な灰になった。
「っ、……あああ!」
悲鳴を噛み殺し、ハルはレイの手を離さないことだけに全神経を注いだ。
離したら、この熱に溶かされてしまう。
前方に、辛うじて崩れていない古いビルが見えた。あそこを抜ければ、表通りに出られる。
「先に行け!」
ハルは窓を割り、レイを押し上げた。だが、一歩出遅れたのは、ハルの方だった。
連鎖する発火。ビルの地下に溜まっていたガスが、外気を吸い込んだ瞬間に「爆発」を起こした。
「ハルッ!」
レイの声が聞こえた気がした。
だが、ハルが手を伸ばすより早く、火を噴いた天井が二人の間に落ちた。
「――レイ!!」
指先が、空を切る。
瓦礫が視界を遮り、爆風がハルの体を紙屑のように建物の外へと弾き飛ばした。
コンクリートに叩きつけられ、肺から空気がすべて追い出される。
視界が、暗い赤に染まっていく。崩落したビルの奥。レイがいるはずの場所は、もう火の海だった。
「待て……まだ……」
指先を動かそうとしたが、意識が遠のく。
最後に見たのは、夜空を焦がす炎と、二度と触れられない少年の残像だけだった。




