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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
二章. 椿の屋敷

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大火災の記憶

ハルの過去


雨の滴る、湿った街の匂いがしていた。


家出をして数ヶ月。ハルは「大人の顔色」を伺うことには慣れていたが、自分より小さな子供の「絶望」には、まだ免疫がなかった。


出会いは、最悪だった。


土砂降りの交差点。大型トラックのライトに照らされ、死神に招かれるように車道へ踏み出した少年の腕を、ハルは無我夢中で掴み取った。


「――っ、このバカッ!」


反射的に駆け出し、細い手首を掴んで歩道へと引き戻す。倒れ込んだ少年の体は、驚くほど軽くて冷たかった。


「……死にたいのかよ。死ぬなら、俺の見てないところでやってくれ」


荒い息を吐きながら毒づくと、少年――レイは、感情の欠落した瞳でじっとハルを見つめ返した。


そのボロボロの服と、やせ細った体。ハルは、親に売られて消えた自分の弟妹の姿を、どうしようもなく彼に重ねてしまった。


「……行く場所ないなら、来いよ」


それが、レイとの始まりだった。


行く場所のないレイを廃ビルへ連れ帰った日から、泥にまみれた「一年」が始まった。


ハルが身を寄せていたのは、取り壊し寸前の廃ビル。親から捨てられた者、社会からこぼれ落ちた者が十数人、カビの生えた毛布を奪い合って生きる「家出グループ」の拠点だ。


最初は、ただの「拾い物」だと思っていた。レイは一切口を利かず、隅っこで膝を抱えているだけの影のような存在だった。


「食えよ。ここでは黙ってたら死ぬだけだぞ」


差し出されたパンの耳を、レイは怯えた獣のような目で、けれど必死に貪り食った。




降り続く雨が、アスファルトを焼く陽炎に変わる頃。


気づけば、レイがハルの後ろを歩くのは当たり前の光景になっていた。


生きるために、ハルはレイを連れて街に出た。自動販売機の裏に落ちた小銭を漁り、コンビニの裏に廃棄される弁当の時間を覚えた。


「いいか、レイ。これは『盗み』じゃない。『拾う』んだ。見つかったら走れ。誰にも捕まるな」


ハルはレイの細い肩を叩き、生きるための「汚い知恵」を叩き込んだ。


灼熱のアスファルトの上で、二人は泥水を啜るようにして生きた。ある日、数人の浮浪者に絡まれた際、レイは無言のままハルの前に立ち、必死に牙を剥いた。


「……ハルに、触るな」


初めて聞いたレイの声は掠れていたが、冷徹なまでの敵意に満ちていた。


その夜、分け合った一本のぬるいペットボトルの水は、どんな贅沢品よりも甘く感じられた。




喉を焼くような渇きが、乾いた砂混じりの風に混ざり始める。


気づけばレイの背丈は、ハルの肩に届くほどに伸びていた。


二人の距離は、いつしか「保護者と被保護者」から「相棒」へと変わっていた。


レイはハルの癖を覚え、ハルが何も言わなくても次に何をすべきか察するようになった。


「ハル、今日の廃棄。パンじゃなくて、おにぎりだった」


少しだけ表情を和らげたレイが、戦利品を見せるように袋を差し出す。ハルは笑って、レイの頭を乱暴に撫でた。


「上出来だ。……お前、背、伸びたか?」


並んで座る廃ビルの屋上。沈みゆく夕日が、ボロボロの二人を黄金色に染め上げる。


このまま、この生活が永遠に続くのではないか。そんな甘い錯覚が、ふとした瞬間に胸をかすめた。




そして、あの日が来た。


家出をしてから、ちょうど一年が経とうとしていた冬の夜。


寝苦しい熱気で目が覚めた。


最初は、誰かが焚き火でも失敗したのかと思った。けれど、まぶたの裏まで赤く染めるような光と、嗅ぎ慣れた廃ビルのカビ臭さを塗りつぶす「焦げた匂い」に、心臓が跳ねた。


「……あ、つっ」


起き上がろうとして、喉が焼けるような乾燥に悲鳴を上げる。


窓の外は、もう赤かった。いや、空気が燃えていた。


「おい、起きろ! 逃げろ!」


叫びながら、辺りを見回す。グループの連中がパニック状態で出口へ殺到していた。だが、そこに一番小さな背中がない。


「レイ……っ、レイ、どこだ!」


一年前、交差点で無理やり捕まえた、あの無口な少年。


「死ぬなら、俺の見てないところでやってくれ」と言い捨てたはずなのに、気づけばハルは、火の粉が舞う赤い街へ走り出していた。


いた。路地の隅。


逃げ惑う群衆の中で、レイだけが呆然と立ち尽くし、空を仰いでいた。


「レイ!」


返事はない。レイの瞳には、渦巻く熱風と、その中で踊る「何か」が映っている。


ハルにはそれが何か分からなかった。ただ、それを見た連中が、次々と内側から発火して、生きた松明に変わっていく光景だけが、網膜に焼き付いた。


(……見るな。あれを見たら、死ぬ)


理由は分からない。けれど、本能が叫んでいた。

ハルはレイの顔を自分の胸に押し込むようにして、その細い手首を掴んだ。


「見るな! 前だけ見て走れ!」


手のひらから、レイの心臓の鼓動が伝わってくる。


服の上からでも分かるほど、世界が沸騰していた。


逃げる最中、仲間の手がハルの肩に触れた。助けを求める声。だが、振り返った瞬間にその少年は発火し、ハルの目の前で真っ白な灰になった。


「っ、……あああ!」


悲鳴を噛み殺し、ハルはレイの手を離さないことだけに全神経を注いだ。


離したら、この熱に溶かされてしまう。


前方に、辛うじて崩れていない古いビルが見えた。あそこを抜ければ、表通りに出られる。


「先に行け!」


ハルは窓を割り、レイを押し上げた。だが、一歩出遅れたのは、ハルの方だった。


連鎖する発火。ビルの地下に溜まっていたガスが、外気を吸い込んだ瞬間に「爆発」を起こした。


「ハルッ!」


レイの声が聞こえた気がした。


だが、ハルが手を伸ばすより早く、火を噴いた天井が二人の間に落ちた。


「――レイ!!」


指先が、空を切る。


瓦礫が視界を遮り、爆風がハルの体を紙屑のように建物の外へと弾き飛ばした。


コンクリートに叩きつけられ、肺から空気がすべて追い出される。


視界が、暗い赤に染まっていく。崩落したビルの奥。レイがいるはずの場所は、もう火の海だった。


「待て……まだ……」


指先を動かそうとしたが、意識が遠のく。


最後に見たのは、夜空を焦がす炎と、二度と触れられない少年の残像だけだった。

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