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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
二章. 椿の屋敷

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魅了の再来


朝の光が、薄いカーテンの隙間から淡く差し込んでくる。


椿はその光を無視して、敢えて目を閉じていた。

思い出さないように。何も考えないように。

昨日の自分を、なかったことにしたくて。


(……見られた)


喉の奥で、声にならない嗚咽が潰れた。

薄い布団を頭まで引き上げて丸くなる。

体が震える。


あんな醜い姿を――クラスの男子の、しかもレイの前で。


泣きながらすがりついた自分が、信じられない。

恥ずかしいを通り越して、吐き気がする。


(消えたい)


それでも、布団の中で昨夜のレイの声を思い出す。

「電気は消さないから」

あの言葉が、胸の奥でまだ温かい。


温かいのに、痛い。

優しさが、逆に逃げ道を塞いでいる気がした。


結局、椿は大きく息を吐いて、布団を退けた。


今日は学校に行かなくてはならない。

休み続けて、父や兄に疑念の糸口を渡すわけにはいかない。


いつもより念入りに支度をして、前髪を整える。


鏡越しに指が、額が、肩が――順番に視界へ入り込むたび、

昨日の記憶がちらつく。

頬が熱くなり、椿は視線を逸らした。


離れの廊下は静かだった。

レイが休んでいる部屋の前で、控えめにノックをして、扉越しに声をかける。


「レイ。私、学校行ってくるね」


“いつも通り”に戻す演技は、まだできなかった。

声が少しだけ素直に漏れてしまう。


返事の代わりに、扉が開いた。


レイは眠そうでもなく、いつもの無表情に近い顔で、

けれど視線だけが椿をまっすぐに見る。心を覗くように。


「……熱、下がったのか?」


椿が返すより先に、レイの手が伸びかけた。額へ――

椿は反射的に半歩退いた。


体が勝手に拒否する。昨日の自分が、まだ体に残っている。

レイは何も言わず、手を下ろした。

その沈黙が、痛い。


「……まぁ、行けるなら止めねぇけど。無茶すんなよ」


それだけ。

でも、声の端に、昨日の優しさがまだくすぶっている。


椿は小さく息を整えて頷く。


「……いってきます」


一拍置いて、レイが返した。


「行ってらっしゃい」


返事が返ってきたのは、初めてだった。


ぶっきらぼうで、どこか不慣れな響き。

けれど、確かに自分に向けられた言葉。


閉まった扉を見つめたまま、椿は指先をぎゅっと握りしめた。


胸の奥が、ほんのり温かくなった――のに、

同時に、昨日の弱さを思い出す自分が嫌だった。


今日は、帰りを待っている人がいる。

そう思えるだけで、足が少しだけ軽くなった。




学校の放課後。

退屈な授業から解放された校舎に、妙なものが混ざり始めた。


怪異にしては、はっきりしない。灯でもない。

まとわりつくような甘さと、肌の奥を撫でるような薄気味悪さ。

輪郭のない霧みたいな気配が、校門の外に漂っている。


(……何、これ)


知らない感覚に、背中の産毛が逆立つ。

椿は鞄を強く握り、導かれるように校門へと向かった。


門を出た瞬間、頬を刺す冷気が肌を切った。


人通りの端で立っている人影。

周りに数人、立ち止まっている。笑っているわけでもないのに、

視線だけがそこへ吸い寄せられて――ぼんやり、足が止まっている。


(まるで、そこだけ空気が澱んでいるみたい)


椿は、かつて父から叩き込まれた知識の断片を必死に手繰り寄せた。


『魅了』。

人を引き寄せ、思考を奪い、操る。

攻撃性こそ低いが、一度捕まれば心の奥まで握り潰される――最悪の性質。


(でも、おかしい。怪異そのものじゃない)


漂っているのは「残り香」に近い。

椿が警戒を強めた瞬間、その影がゆっくりと顔を上げた。


――レイ?


一瞬、心臓が跳ねた。


中学生くらいの背丈。輪郭の作りが、どこか似ている。

レイを連れ帰った夜に感じた、絡みつく怪異の残り香が、脳裏をかすめる。

…あの日の匂いに似ている。


迷っている間に、影がこちらへ近づいてきた。


「……お姉さんっ」


声が、楽しげだった。

レイに似ていると思ったのは顔だけで、声の調子はまるで違う。

飄々としていて、馴れ馴れしくて、なのに妙に芯がある。


「僕さ、人を探してるんだけど」


その子は椿の目を覗き込む。

覗き込むのに、見ているのは瞳の奥――もっと別のところみたいで、


椿の視界が一瞬揺れた。

首筋に甘い痺れが走り、膝がわずかに震える。


残り香が、鼻腔の奥をくすぐるどころか、

肺の奥まで甘く染み込んでくる。


思考が、霧のように薄くなる。


「……誰を探してるの?」


無理に笑わない。けれど、刺を立てすぎもしない。

椿はいつもの“線”を守って問い返す。


「兄ちゃん。黒川レイって言うんだけど、この学校にいると思うんだ」


口元は笑っているのに、目だけが笑っていない。

その視線が、椿の表情の裏を、ゆっくりと剥がしていく。


椿は一度だけ心を引き締めて、家で身につけたものをなぞるように笑顔を作った。


「そうなんだ……ごめんね。私、知らないかも」


「……そっかぁ。残念」


笑ったまま、瞳の奥だけが鋭くなる。


「お姉さん、いい人だね。また来るよ」


“また来る”――その言葉が、鋭利な刃物のように椿の首筋に触れた気がした。


甘い残り香が、風に乗って離れても、

椿の肌にまとわりついて、消えなかった。




「……ただいま」


離れに戻ると、部屋の前で声をかける。挨拶は少しずつ馴染んできた。

けれど同時に、ある日突然ここからレイが消えてしまう想像が、頭をよぎる。


少し間を置いて扉が開く。


「おかえり」


椿の胸が、さっきより少しだけ温かくなる。


「……あのね、今日」


まだ迷いがあって、言葉が詰まる。

その迷いを、レイは待った。急かさない。


「入るか?」


レイが扉を開けて、部屋の奥に視線を向ける。

椿は時間を稼ぐようにゆっくり入り、ソファに腰を下ろした。


「今日ね、校門の外に……レイのこと探してる子がいたの」


レイの目つきが変わった。

警戒が、表に出る。


「……どんなやつだった?」


「中学生くらいで……レイに少し似てた。お兄ちゃんを探してるって」


レイは少し黙った。椿の顔ではなく、床の一点を見て考えている。


レイは黙った。床の一点を見つめる。

瞳の奥に、古い痛みが抉られるように滲んだ。


「それで……気配が変だったの。魅了の残り香があった」


「……魅了?怪異か?」


椿は頷いた。


レイの視線が落ちる。その陰りを見て、椿は口を閉じかけて――続けた。


「ねえ、その子……心当たりあるの?」


レイの喉がわずかに動いた。


「……リン、だろうな」


「リン……?」


椿が聞き返すより先に、レイは自分で言葉を拾い直す。


「……弟だ」


椿は一瞬だけ息を止めて、すぐに静かに頷いた。

余計な表情を見せたくない。レイの傷に、爪を立てたくない。


レイは諦めたように続けた。


「……近づかない方がいい。俺がここに来る前、あいつの怪異は消したつもりだった。まだ残ってるなら危険だ」


「レイが?…でも、魅了はもういなかったよ。ただ……魅了の能力を使ってるように見えた」


椿は上手く言葉にできずに黙り込んだ。


「そんなこと、できるのか?」


「ごめん。私も初めて見たから混乱してて…。似たような事例がないか、調べてみる。この件は私に預けてくれない?」


レイの顔がそれ以上沈むのを見たくなくて続ける。


「絶対になんとかするから」


レイはすぐに返さなかった。

ただ、椿の言葉を一度飲み込んでから、小さく頷く。


「……ああ。助かる」


短い一言。

けれどそれは、レイが椿に初めて触れることを許した傷だと思った。


椿は静かに息を吐く。

(……絶対に守る)


口には出さない。

でも胸の奥で、決意が固く、重く、残った。



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