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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

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潜入命令


路地裏の空気は、雨上がりの湿気を孕んで重苦しかった。濡れたアスファルトが街灯の光を鈍く弾き、影だけが引き延ばされたように長く伸びている。


足元の“それ”はもう動かない。煤のような塊が輪郭から剥がれ、夜風に溶けて消えていく。怪異の死に際はいつだって実体がない。見届ける側の神経を、無意味に摩耗させるだけだ。


レイは短く息を吐き、短刀を払った。指先にはまだ、生々しい熱がこびりついている。頬の返り血を汚れた手の甲で拭う。……吐き気がする。だが、今さら綺麗にする理由もなかった。


「レイちゃ〜ん」


背後から、緊張感のない声が転がってきた。


「昨日より七秒早く仕留めたやん〜。あれ? 新記録更新ちゃう〜?」


カナメだ。銀髪の間から覗く赤い瞳が、楽しげに細められている。指先で弾かれたタバコの灰が、ゆっくりと地面へ落ちた。


「……」


レイは応じず、無言で刃を鞘に収める。怪異のいた場所を避け、その横を通り過ぎようとした。


「なぁなぁ」


カナメの声が追いかけてくる。猫が獲物を弄ぶような、甘く粘り気のある声だ。


「宿主、殺さへんかったんや? えらいなぁ、レイちゃん」


レイは歩みを止めない。関われば絡みつかれるだけだ。聞こえないふりをして、路地の闇の奥へと足を進める。


「無視?相変わらず冷たいなぁ」


カナメは肩を並べるでもなく、数歩後ろをゆったりとついてくる。


「知ってる? レイちゃん、春から高校生になるんやって。ええなぁ、青春やん」


その言葉だけは聞き流せず、レイの足が止まった。


「……は? 俺が?」


振り返ると、カナメは肩をすくめる。まるでその反応を待っていたかのように。


「あれ? やっぱ聞いてへんのか。久世さんも意地悪やなぁ〜」


胸の奥が、嫌な音を立ててざわつく。

久世。怪異を狩って私腹を肥やす組織――『九尾』の長。あの男が、レイに“普通”の生活を与えるはずがない。

学校は餌だ。あるいは、首を繋ぎ止めるための新しい鎖だ。


「……ふざけんな」


「ま、文句は久世さんに言い。俺は命令出す側ちゃうし。……あ、でもな」


赤い瞳が細められ、鋭い光を放つ。


「ちゃんと行きや、レイちゃん。逃げたらまた“お仕置”やで?」


忌まわしい記憶が脳裏を掠め、レイは反射的に顔を背けた。そのまま、闇を切り裂くように足を進める。



『九尾』の拠点は、街の喧騒から見捨てられたような雑居ビルにある。湿ったコンクリートの階段を上るたび、停滞した空気が肺に溜まっていく。


レイは血のついた上着を脱ぎ捨て、洗面台の蛇口を捻った。赤黒い汚れが水に溶け、本来の肌の色が戻ってくる。だが、何度こすり合わせても、指の間に残る血の温度だけは消えてくれない。


奥の部屋に呼び出されたのは、それからすぐのことだった。


「お疲れさまでした。処理は済みましたか?」


久世は、穏やかな微笑をたたえて座っていた。

非の打ち所がない身なり、落ち着いた声。ここが裏社会の掃き溜めだと知る者がいなければ、紳士的な実業家にしか見えないだろう。


「……ああ」


「宿主は?」


「死なせてはいない。そのへんに転がってるはずだ」


久世は満足そうに頷き、そして表情の温度を一段階下げた。


「本題に入りましょう」


その声が、冷たく鼓膜を叩く。


「君には、春から高校に通ってもらいます」


レイは目を細め、目の前の男を睨みつけた。


「手続きはこちらで済ませました。表向きは、一人の生徒として振る舞ってください」


机の上に、一束の資料が滑らされる。

一番上の写真には、一人の少女が写っていた。

灯郷(とうごう) 椿つばき

凛とした立ち姿、気品のある顔立ち。だがその瞳は、すべてを突き放すような冷徹さを湛えている。


「君の任務は、彼女の監視と報告。必要とあらば接触し、懐に入りなさい」


「……監視?」


「彼女の家系は、純血の“ともしび”……怪異を退ける特殊な血筋です。手中に収めれば、組織にとってこれ以上ない資産になる」


久世が笑う。慈悲深い聖者のような顔で、その実は猛毒を差し出すように。


「弱点を見つけなさい。どこを折れば屈するのか、どこを突けばこちら側に堕ちてくるのか。……必ず、見つけ出すように」


喉の奥に、鉄錆のような苦い味が広がった。

レイはこの少女を知らない。だが、彼女がこれから辿る運命は、嫌というほど想像がついた。


「俺に拒否権はないんだろ」


「ありません」


即答だった。そこには罪悪感も躊躇もない。ただ、当然の事実として、久世は告げた。


「期待していますよ。レイ」


部屋を出ると、廊下にはカナメがいた。壁に背を預け、退屈そうにタバコの煙を天井へ吹き上げている。


「大変やなぁ、レイちゃん。昼も夜も働かされて。売れっ子は忙しいわ」


レイは一瞥もくれず、横を通り過ぎる。まとわりつく煙が、肺の奥を不快にかき乱した。


「黙れ」


吐き捨てるような拒絶に、カナメは低く、愉しそうに笑う。


「適当な仕事はせん方がええよ。久世さん、期待を裏切られるんが一番嫌いやから」


階段を下りるレイの足取りは、鉛のように重い。

灯郷 椿。


写真の中の冷たい瞳が、網膜の裏側にこびりついて離れない。


「……めんどくせぇ」


誰にも届かない声で呟いて、レイは考えることをやめた。


路地裏の闇に溶けていく自分の影が、まるで意思を持った怪物のように、ゆらりと長く伸びていることにも気づかずに。


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