表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/74

魅了


十二月の空気は、刃物みたいに鋭い。


九尾の拠点は相変わらず雑然としていて、乾いた埃と煙草の残り香が、冬でも抜けきらない。窓の隙間から冷気は入ってくるのに、部屋の奥の淀みだけは動かない。


レイは出入り口の近くで靴紐を結び直した。指先がかじかんで、結び目がうまく締まらない。苛立ちを飲み込んで、もう一度やり直す。


スマホが震えた。


表示されたのは、久世の名前。


レイは通話を取る。


「……何だ」


受話口の向こうは、いつも通り丁寧だった。


「おはようございます、レイ君。今から現場に入ってください。場所は――」


淡々と告げられる地名を聞いた瞬間、レイの眉がわずかに動いた。


そこは、少し前に「リンに似た影」を見かけた辺りだ。


「……分かった」


「ありがとうございます。最近、怪異の数が増えています。焦らず、確実に。あなたが欠けると、こちらも困りますから」


困る、の言い方だけが柔らかい。

中身はいつもと同じだ――壊れるまで使う。


通話が切れた。


部屋の奥で、カナメが欠伸を噛み殺しながらコートを羽織っている。赤い瞳が、面白がるみたいに細くなる。


「また現場ぁ? 忙しそやなぁ、レイちゃん」


「…お前は?」


「今日は別口。俺は南の方や。増えてんねん、ほんま。冬って、変なん湧くやろ」


軽口に聞こえても、目は起きている。カナメはそういうやつだ。


レイは返さず、ドアに手をかけた。


外に出ると、息が白く割れた。

空は晴れているのに、光に温度がない。



現場に近づくほど、人の流れが増えた。


昼の街は、騒がしい。

買い物袋。制服。ベビーカー。駅のアナウンス。カフェの音楽。

全部が普通の顔をしている。


その“日常”の隙間に、怪異は潜る。


レイは歩きながら、空気の薄い歪みを拾っていく。

視界の端が、わずかに暗くなる瞬間。

音が一拍だけ欠ける瞬間。

人の影が、影じゃない形で伸びる瞬間。


――いる。


人混みの隙間に、ひとつの影が見えた。


少し前にこの辺りで見かけた姿が、またそこにあった。


………リン、なのか?


レイが歩幅を変えた瞬間、影がふっと人波に溶けた。


追う。


人の肩がぶつかる。誰かが謝る声がする。レイはそれを聞かない。

視線だけで影を追い、気配の糸を辿る。


(…いた)


次の瞬間、レイは息を止めた。


影の周りに、薄い膜みたいなものがまとわりついている。


空気が甘く濁る。

人の波が割れ、道が開く。


宿主だけでなく、周りの人間まで操っている。


レイの喉が鳴った。


この感覚を知っている。嫌というほど頭の中にこびりついている。


確信する。あれは、リンだ。


一体いつから……

遠い記憶が引きずり出される。



レイが五年生になった頃だった。


リンは素直で、いつもレイの後ろをついてきて、目をキラキラさせて見上げてきた。

褒めるのが得意で、笑うのが上手かった。


――ある日、帰ってきたリンが違った。


玄関の音がして、振り返ったらリンが立っていた。

制服の鞄を雑に投げて、靴も揃えず、まるで“この家は自分だけのもの”だと言うみたいに振舞った。


「あぁ、兄ちゃんか。もう帰ってたんだ?」


声が軽い。目が笑っていない。


レイが固まっていると、リンは肩をすくめた。

その後ろから両親が出てきた。――いつもなら「靴を揃えなさい」と言うはずの母が、何も言わない。


父も何も言わない。


リンが水を欲しがれば、母が走った。

リンが「うるさい」と言えば、父が黙った。


レイが両親に何か言おうとすると、視線がすり抜けた。

レイの言葉だけが、家の中で浮いた。


食卓の席が、いつの間にか減った。

茶碗が用意されなくなった。

冷蔵庫を開けても、中身が薄い。


レイは何度も確認した。

自分が見落としているんじゃないか、勘違いなんじゃないか。

そう思いたかった。


だが、現実は空腹で分かる。


お小遣いも尽きた。

買えるのは小さな飴くらいだった。


飴玉ひとつ口に入れて、舌で転がす。

甘さが消えたら、胃が余計に鳴った。


家の中にいるのが、何より辛かった。



リンの足が止まる。


冷たい風が頬を叩く。

レイは目的地に気づいていた。


人波を抜けた先、見覚えのある道。

錆びたフェンス。割れたコンクリ。電柱の影。


そして。


懐かしい家の前に、立っていた。


玄関の灯りは点いていない。

窓も暗い。

冬の午後なのに、家だけが夜みたいだった。


――影が、振り返る。


今度は、顔が見えた。


成長した輪郭。中学生くらいの背丈。


「兄ちゃん、久しぶり」


レイは喉が動いたのに、声がうまく出なかった。


「……リン」


名前だけが落ちる。

感情が絡まって、続きが出ない。


リンは笑った。軽い笑いだ。

家の鍵を回しながら言う。


「上がっていきなよ。今、父さんも母さんもいないからさ」


罠だと分かっている。

だが――戦う覚悟が、腹の底で固まりきらない。


レイは、玄関を跨いだ。



家の中は、妙に静かだった。


足音が吸われる。

壁が近い。

空気が濁っている。


そして、臭い。


最初は気のせいだと思った。

次に、確信になる。


腐った甘さ。

生臭い。錆びた鉄のような匂い。

吐き気が込み上げる。


レイは廊下を進み、リビングの扉に手をかけた。


――開けた瞬間、呼吸が止まった。


両親がいた。


……腐敗が始まっている。

数日は経っているのが分かる。


レイの胸の奥で、何かが落ちた。


怒りか、悲しみか、分からない。

分からないまま、足元だけが冷たくなった。


背後で、リンが笑った。


「バレちゃったかぁ。家の中、勝手に歩き回らないでくれる?」


レイは振り返らない。

視線を遺体から離せないまま、低く言った。


「………お前」


続く言葉は出てこなかった。


リンの気配が変わる。

空気が甘く濃くなる。


「なに?兄ちゃん、怖い顔してる」


レイはやっと振り向いた。


リンの影が、床に落ちていない。

影が“浮いている”。人間の輪郭に沿って、黒い膜が纏わりついている。


レイは黒刃の短刀を抜いた。

護符糸が指先でほどける。糸は細いのに、空気を切ると音が鳴る。


「リンを返せ」


リンが首を傾げる。


「返す?…兄ちゃん、何言ってんの?僕はここにいるよ」


言葉と一緒に、黒い刃が伸びた。


影が刃になる。

床を滑って、レイの足元を薙ぐ。


レイは後ろに跳ねた。

踵が床を蹴る音が、家の静けさに鋭く響く。


狭い。

家具が邪魔になる。

血の匂いが、喉の奥に張りつく。


レイは護符糸を投げた。

糸が風を切り、リンへ向かうが、直前で影の触手に弾かれる。


リンが眉を上げた。


「うわ、なにこれ。気持ち悪」


影が笑う。

人間の皮を被ったまま、黒い影だけが膨らむ。


「兄ちゃん、そんなの効くと思ってんの?」


影の刃が、今度は真っ直ぐ向かってくる。


それを短刀で受ける。

金属の音はしない。黒と黒が擦れて、耳障りな音が鳴る。


レイは踏み込み、刃を滑らせて“リンの輪郭の外側”を切った。


狙いはリンの肉じゃない。

纏わりついている黒い膜――それを裂く。


黒が粘って、切れない。

吸い付くように絡む。


「優しいねぇ、兄ちゃん」


リンが囁く。声が甘い。

昔のリンの声に似せてくる。


「どうせ切れないくせに。」


レイの指が一瞬だけ止まりかけた。


その隙を、影の刃が取る。


腹の横に、冷たい線が入った。


遅れて痛みが来る。

熱が広がる。


レイは息を吐いて、刺さった“影の刃”を両手で掴んだ。


黒が指にまとわりつく。

皮膚が焼けるように痛い。


それでも、握る。


「……黙れ」


レイはそのまま、影の刃を引き寄せて――短刀で切った。


黒が千切れて散る。

リンが舌打ちする。


「兄ちゃん、しつこい」


影が床を這い、壁を這い、家全体が“巣”みたいに息をし始める。

壁紙の裏で、何かが笑っている気配がした。


レイは護符糸をもう一度投げた。

今度はリンの手首に絡ませる。

結び目を作る前に、影が振りほどこうとする。


糸が締まった瞬間、リンの動きが一拍遅れる。


その一拍で、レイは距離を詰めた。


リンの足を薙ぎ払い、倒れた瞬間に腕を抑える。

短刀を、リンの胸の“少し外”へ突き立てる。


リンの輪郭に、黒が厚く溜まっている場所がある。

そこが核だと直感した。


「兄ちゃん、やめて。…痛いよ」


その声が――違った。


ほんの一瞬だけ、甘さが抜けた。


「……兄ちゃん」


幼い頃のリンの声。飾り気のない、頼るみたいな呼び方。

耳に届いた瞬間、レイの胸の奥が反射で揺れた。

“声”の形だけが、記憶と同じだった。――だから、手が止まった。


レイの刃先が、核に触れたまま固まる。


「……あはっ。やっぱり兄ちゃんは優しいなぁ」


笑いは甘い。けれど、その甘さが作り物だと分かる。

分かるのに、身体だけが一拍遅れる。


その隙を、影は逃さない。


影の刃がレイの肩を貫いた。


「っ!!」


熱が抜ける。遅れて痛みが爆ぜた。

レイは咄嗟に下がってリンと距離を取る。


……刺せない。

覚悟は決めたはずだった。それでも、体だけがどうしても言うことをきかない。


血が溢れる肩を抑え、呼吸を戻すために時間を稼ぐ。


リンの顔をしたものが、楽しそうに首を傾げる。


「なに?兄ちゃん」


影が“話させる”。

傷口を抉るより先に、心を鈍らせる方が簡単だと知っているみたいに。

レイが言葉を返せば返すほど、迷いを増やせる。――そういうやつだ。


レイは低く息を吐いた。


「…リン。何があった?」


「…?なに?突然」


リンの顔をしたモノは怪訝な表情を浮かべる。


「お前が変だって、気づいてた。……なのに俺は、見て見ぬふりした。

いつか自分から言ってくれるって、都合よく待ってたんだ」


リンの笑顔が少なったこと。

いつからか後ろをついて来なくなったこと。


「あぁ、そんなことか。別にいいよ、どうでも」


リンは立ち上がって笑う。


「俺は、兄ちゃんの事が嫌いだった。ただそれだけだよ」


「俺」――リンが自らをそう呼んだことはなかった。


その言葉と同時に、影が乱れる。

輪郭の外へ浮こうとして、引き戻され、弾かれる。――中で何かが抵抗しているみたいに。


……リンが、まだいる。

声は届いている。いまもどこかで、一緒に戦っている。そんな気がした。


レイは短刀を握る手に力を込める。次で決める。三度目はない。

ふらつく足を必死に地につけて、動くタイミングをはかる。


「リン、ごめんな。…まだ小さかったお前が、甘えたかったお前が、苦しんで必死に戦っていたことに、気付けなかった」


リンの目付きが鋭くなる。


「…やめろ。聞きたくない!」


叫ぶと共にリンは地を蹴り、刃を構えて向かってくる。


(…落ち着け)

リンの身体能力はそれほど高くない。影に押し上げられているが、レイが躱せないほどではない。


刃が届く直前に、身を引く。最低限の動きで躱す。

僅かに切れた皮膚からまた血が流れる。


レイはすぐに体勢を整えた。空振りしたリンに護符糸を投げる。


リンは糸を弾かなかった。

弾こうとした“何か”が、外側で暴れている。


(……なにが起きてる?)


糸を引き、リンの動きを封じる。

次こそ迷わない。核を潰す。このまま刺せばリンの体も無事では済まないだろう。

それでも、これ以上こんなものにリンを渡すわけにはいかない。


レイは一気に詰め、短刀を核へ押し込んだ。

まだ足りない。もっと深く――


「…兄ちゃん」


もう、騙されない。


…リンの目から涙が落ちた。

涙なのに、温度がない。


リンが、かすれるみたいに呟いた。


「……やっぱり、兄ちゃんはすごいなぁ」


その瞬間。


黒い膜が、リンの輪郭から僅かに弾き出された。


――今なら……!


ほんの数センチ。

だが、確かに“剥がれた”。


レイの視界が滲んだ。

胸の奥が痛い。


護符糸を引き、影をリンの中から引きずり出す。

リンの輪郭から剥がれた黒が、悲鳴みたいな振動を起こす。


レイは短刀を、今度は影だけに突き立てた。


黒が裂ける。

音はないのに、空気だけが破ける。


影が、リンの口で叫んだように見えた。

だが声は出なかった。

ただ、甘い濁りが一気に冷えて、床に落ちて、霧みたいに散った。


リンの身体が、力を失う。


レイは受け止めた。

重い。細い。冷たい。


リンは意識を手放したまま、呼吸だけが残っていた。


レイは息を吐いた。

それだけで体が痛んだ。刺された場所が熱い。

血が服の内側で広がっていくのが分かる。


レイはスマホを取り出し、久世に電話をかけた。


呼び出し音が長い。


「……レイ君?」


久世の声は変わらない。

その不気味さに、レイは短く言った。


「死体がある。……後処理を頼む」


「承知いたしました。場所は」


レイが住所を告げると、久世は淡々と返す。


「すぐに人を向かわせます。あなたは――」


レイは通話を切ってスマホを捨てた。


リンを抱えたまま、外へ出た。


空気が冷たくて、肺が痛い。

夕方の光が薄く、すでに街灯が点き始めている。

冬は日が落ちるのが早い。


レイは人目につきそうな場所――家から少し離れた角にリンを寝かせた。

誰かが見つければ、救急車を呼ぶだろう。

リンは“被害者”の顔をしていればいい。


レイは背を向けた。


足がふらつく。

血が抜けている。

傷が、ようやく本気で痛み始めた。


レイは歩いた。

歩くしかなかった。


夜が来る。

どこに行っても、夜は来る。


人がいない道を選んで進んだ。行くあてもなく。

風が冷たく、指先が痺れる。

視界の端が暗く狭くなる。


レイは壁に手をついた。


そこから先は、覚えていない。


ただ――最後に思ったのは、リンの涙の温度だった。


冷たかった。

あんなに冷たい涙を、レイは知らない。


膝が折れた。


アスファルトが頬に触れ、硬さだけが確かだった。


遠くで足音がした気がする。

誰かの影が近づく気配。

冬の夜の匂いとは違う、少しだけ甘い空気。


レイはそれを掴む前に、意識を手放した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ