魅了
十二月の空気は、刃物みたいに鋭い。
九尾の拠点は相変わらず雑然としていて、乾いた埃と煙草の残り香が、冬でも抜けきらない。窓の隙間から冷気は入ってくるのに、部屋の奥の淀みだけは動かない。
レイは出入り口の近くで靴紐を結び直した。指先がかじかんで、結び目がうまく締まらない。苛立ちを飲み込んで、もう一度やり直す。
スマホが震えた。
表示されたのは、久世の名前。
レイは通話を取る。
「……何だ」
受話口の向こうは、いつも通り丁寧だった。
「おはようございます、レイ君。今から現場に入ってください。場所は――」
淡々と告げられる地名を聞いた瞬間、レイの眉がわずかに動いた。
そこは、少し前に「リンに似た影」を見かけた辺りだ。
「……分かった」
「ありがとうございます。最近、怪異の数が増えています。焦らず、確実に。あなたが欠けると、こちらも困りますから」
困る、の言い方だけが柔らかい。
中身はいつもと同じだ――壊れるまで使う。
通話が切れた。
部屋の奥で、カナメが欠伸を噛み殺しながらコートを羽織っている。赤い瞳が、面白がるみたいに細くなる。
「また現場ぁ? 忙しそやなぁ、レイちゃん」
「…お前は?」
「今日は別口。俺は南の方や。増えてんねん、ほんま。冬って、変なん湧くやろ」
軽口に聞こえても、目は起きている。カナメはそういうやつだ。
レイは返さず、ドアに手をかけた。
外に出ると、息が白く割れた。
空は晴れているのに、光に温度がない。
⸻
現場に近づくほど、人の流れが増えた。
昼の街は、騒がしい。
買い物袋。制服。ベビーカー。駅のアナウンス。カフェの音楽。
全部が普通の顔をしている。
その“日常”の隙間に、怪異は潜る。
レイは歩きながら、空気の薄い歪みを拾っていく。
視界の端が、わずかに暗くなる瞬間。
音が一拍だけ欠ける瞬間。
人の影が、影じゃない形で伸びる瞬間。
――いる。
人混みの隙間に、ひとつの影が見えた。
少し前にこの辺りで見かけた姿が、またそこにあった。
………リン、なのか?
レイが歩幅を変えた瞬間、影がふっと人波に溶けた。
追う。
人の肩がぶつかる。誰かが謝る声がする。レイはそれを聞かない。
視線だけで影を追い、気配の糸を辿る。
(…いた)
次の瞬間、レイは息を止めた。
影の周りに、薄い膜みたいなものがまとわりついている。
空気が甘く濁る。
人の波が割れ、道が開く。
宿主だけでなく、周りの人間まで操っている。
レイの喉が鳴った。
この感覚を知っている。嫌というほど頭の中にこびりついている。
確信する。あれは、リンだ。
一体いつから……
遠い記憶が引きずり出される。
⸻
レイが五年生になった頃だった。
リンは素直で、いつもレイの後ろをついてきて、目をキラキラさせて見上げてきた。
褒めるのが得意で、笑うのが上手かった。
――ある日、帰ってきたリンが違った。
玄関の音がして、振り返ったらリンが立っていた。
制服の鞄を雑に投げて、靴も揃えず、まるで“この家は自分だけのもの”だと言うみたいに振舞った。
「あぁ、兄ちゃんか。もう帰ってたんだ?」
声が軽い。目が笑っていない。
レイが固まっていると、リンは肩をすくめた。
その後ろから両親が出てきた。――いつもなら「靴を揃えなさい」と言うはずの母が、何も言わない。
父も何も言わない。
リンが水を欲しがれば、母が走った。
リンが「うるさい」と言えば、父が黙った。
レイが両親に何か言おうとすると、視線がすり抜けた。
レイの言葉だけが、家の中で浮いた。
食卓の席が、いつの間にか減った。
茶碗が用意されなくなった。
冷蔵庫を開けても、中身が薄い。
レイは何度も確認した。
自分が見落としているんじゃないか、勘違いなんじゃないか。
そう思いたかった。
だが、現実は空腹で分かる。
お小遣いも尽きた。
買えるのは小さな飴くらいだった。
飴玉ひとつ口に入れて、舌で転がす。
甘さが消えたら、胃が余計に鳴った。
家の中にいるのが、何より辛かった。
⸻
リンの足が止まる。
冷たい風が頬を叩く。
レイは目的地に気づいていた。
人波を抜けた先、見覚えのある道。
錆びたフェンス。割れたコンクリ。電柱の影。
そして。
懐かしい家の前に、立っていた。
玄関の灯りは点いていない。
窓も暗い。
冬の午後なのに、家だけが夜みたいだった。
――影が、振り返る。
今度は、顔が見えた。
成長した輪郭。中学生くらいの背丈。
「兄ちゃん、久しぶり」
レイは喉が動いたのに、声がうまく出なかった。
「……リン」
名前だけが落ちる。
感情が絡まって、続きが出ない。
リンは笑った。軽い笑いだ。
家の鍵を回しながら言う。
「上がっていきなよ。今、父さんも母さんもいないからさ」
罠だと分かっている。
だが――戦う覚悟が、腹の底で固まりきらない。
レイは、玄関を跨いだ。
⸻
家の中は、妙に静かだった。
足音が吸われる。
壁が近い。
空気が濁っている。
そして、臭い。
最初は気のせいだと思った。
次に、確信になる。
腐った甘さ。
生臭い。錆びた鉄のような匂い。
吐き気が込み上げる。
レイは廊下を進み、リビングの扉に手をかけた。
――開けた瞬間、呼吸が止まった。
両親がいた。
……腐敗が始まっている。
数日は経っているのが分かる。
レイの胸の奥で、何かが落ちた。
怒りか、悲しみか、分からない。
分からないまま、足元だけが冷たくなった。
背後で、リンが笑った。
「バレちゃったかぁ。家の中、勝手に歩き回らないでくれる?」
レイは振り返らない。
視線を遺体から離せないまま、低く言った。
「………お前」
続く言葉は出てこなかった。
リンの気配が変わる。
空気が甘く濃くなる。
「なに?兄ちゃん、怖い顔してる」
レイはやっと振り向いた。
リンの影が、床に落ちていない。
影が“浮いている”。人間の輪郭に沿って、黒い膜が纏わりついている。
レイは黒刃の短刀を抜いた。
護符糸が指先でほどける。糸は細いのに、空気を切ると音が鳴る。
「リンを返せ」
リンが首を傾げる。
「返す?…兄ちゃん、何言ってんの?僕はここにいるよ」
言葉と一緒に、黒い刃が伸びた。
影が刃になる。
床を滑って、レイの足元を薙ぐ。
レイは後ろに跳ねた。
踵が床を蹴る音が、家の静けさに鋭く響く。
狭い。
家具が邪魔になる。
血の匂いが、喉の奥に張りつく。
レイは護符糸を投げた。
糸が風を切り、リンへ向かうが、直前で影の触手に弾かれる。
リンが眉を上げた。
「うわ、なにこれ。気持ち悪」
影が笑う。
人間の皮を被ったまま、黒い影だけが膨らむ。
「兄ちゃん、そんなの効くと思ってんの?」
影の刃が、今度は真っ直ぐ向かってくる。
それを短刀で受ける。
金属の音はしない。黒と黒が擦れて、耳障りな音が鳴る。
レイは踏み込み、刃を滑らせて“リンの輪郭の外側”を切った。
狙いはリンの肉じゃない。
纏わりついている黒い膜――それを裂く。
黒が粘って、切れない。
吸い付くように絡む。
「優しいねぇ、兄ちゃん」
リンが囁く。声が甘い。
昔のリンの声に似せてくる。
「どうせ切れないくせに。」
レイの指が一瞬だけ止まりかけた。
その隙を、影の刃が取る。
腹の横に、冷たい線が入った。
遅れて痛みが来る。
熱が広がる。
レイは息を吐いて、刺さった“影の刃”を両手で掴んだ。
黒が指にまとわりつく。
皮膚が焼けるように痛い。
それでも、握る。
「……黙れ」
レイはそのまま、影の刃を引き寄せて――短刀で切った。
黒が千切れて散る。
リンが舌打ちする。
「兄ちゃん、しつこい」
影が床を這い、壁を這い、家全体が“巣”みたいに息をし始める。
壁紙の裏で、何かが笑っている気配がした。
レイは護符糸をもう一度投げた。
今度はリンの手首に絡ませる。
結び目を作る前に、影が振りほどこうとする。
糸が締まった瞬間、リンの動きが一拍遅れる。
その一拍で、レイは距離を詰めた。
リンの足を薙ぎ払い、倒れた瞬間に腕を抑える。
短刀を、リンの胸の“少し外”へ突き立てる。
リンの輪郭に、黒が厚く溜まっている場所がある。
そこが核だと直感した。
「兄ちゃん、やめて。…痛いよ」
その声が――違った。
ほんの一瞬だけ、甘さが抜けた。
「……兄ちゃん」
幼い頃のリンの声。飾り気のない、頼るみたいな呼び方。
耳に届いた瞬間、レイの胸の奥が反射で揺れた。
“声”の形だけが、記憶と同じだった。――だから、手が止まった。
レイの刃先が、核に触れたまま固まる。
「……あはっ。やっぱり兄ちゃんは優しいなぁ」
笑いは甘い。けれど、その甘さが作り物だと分かる。
分かるのに、身体だけが一拍遅れる。
その隙を、影は逃さない。
影の刃がレイの肩を貫いた。
「っ!!」
熱が抜ける。遅れて痛みが爆ぜた。
レイは咄嗟に下がってリンと距離を取る。
……刺せない。
覚悟は決めたはずだった。それでも、体だけがどうしても言うことをきかない。
血が溢れる肩を抑え、呼吸を戻すために時間を稼ぐ。
リンの顔をしたものが、楽しそうに首を傾げる。
「なに?兄ちゃん」
影が“話させる”。
傷口を抉るより先に、心を鈍らせる方が簡単だと知っているみたいに。
レイが言葉を返せば返すほど、迷いを増やせる。――そういうやつだ。
レイは低く息を吐いた。
「…リン。何があった?」
「…?なに?突然」
リンの顔をしたモノは怪訝な表情を浮かべる。
「お前が変だって、気づいてた。……なのに俺は、見て見ぬふりした。
いつか自分から言ってくれるって、都合よく待ってたんだ」
リンの笑顔が少なったこと。
いつからか後ろをついて来なくなったこと。
「あぁ、そんなことか。別にいいよ、どうでも」
リンは立ち上がって笑う。
「俺は、兄ちゃんの事が嫌いだった。ただそれだけだよ」
「俺」――リンが自らをそう呼んだことはなかった。
その言葉と同時に、影が乱れる。
輪郭の外へ浮こうとして、引き戻され、弾かれる。――中で何かが抵抗しているみたいに。
……リンが、まだいる。
声は届いている。いまもどこかで、一緒に戦っている。そんな気がした。
レイは短刀を握る手に力を込める。次で決める。三度目はない。
ふらつく足を必死に地につけて、動くタイミングをはかる。
「リン、ごめんな。…まだ小さかったお前が、甘えたかったお前が、苦しんで必死に戦っていたことに、気付けなかった」
リンの目付きが鋭くなる。
「…やめろ。聞きたくない!」
叫ぶと共にリンは地を蹴り、刃を構えて向かってくる。
(…落ち着け)
リンの身体能力はそれほど高くない。影に押し上げられているが、レイが躱せないほどではない。
刃が届く直前に、身を引く。最低限の動きで躱す。
僅かに切れた皮膚からまた血が流れる。
レイはすぐに体勢を整えた。空振りしたリンに護符糸を投げる。
リンは糸を弾かなかった。
弾こうとした“何か”が、外側で暴れている。
(……なにが起きてる?)
糸を引き、リンの動きを封じる。
次こそ迷わない。核を潰す。このまま刺せばリンの体も無事では済まないだろう。
それでも、これ以上こんなものにリンを渡すわけにはいかない。
レイは一気に詰め、短刀を核へ押し込んだ。
まだ足りない。もっと深く――
「…兄ちゃん」
もう、騙されない。
…リンの目から涙が落ちた。
涙なのに、温度がない。
リンが、かすれるみたいに呟いた。
「……やっぱり、兄ちゃんはすごいなぁ」
その瞬間。
黒い膜が、リンの輪郭から僅かに弾き出された。
――今なら……!
ほんの数センチ。
だが、確かに“剥がれた”。
レイの視界が滲んだ。
胸の奥が痛い。
護符糸を引き、影をリンの中から引きずり出す。
リンの輪郭から剥がれた黒が、悲鳴みたいな振動を起こす。
レイは短刀を、今度は影だけに突き立てた。
黒が裂ける。
音はないのに、空気だけが破ける。
影が、リンの口で叫んだように見えた。
だが声は出なかった。
ただ、甘い濁りが一気に冷えて、床に落ちて、霧みたいに散った。
リンの身体が、力を失う。
レイは受け止めた。
重い。細い。冷たい。
リンは意識を手放したまま、呼吸だけが残っていた。
レイは息を吐いた。
それだけで体が痛んだ。刺された場所が熱い。
血が服の内側で広がっていくのが分かる。
レイはスマホを取り出し、久世に電話をかけた。
呼び出し音が長い。
「……レイ君?」
久世の声は変わらない。
その不気味さに、レイは短く言った。
「死体がある。……後処理を頼む」
「承知いたしました。場所は」
レイが住所を告げると、久世は淡々と返す。
「すぐに人を向かわせます。あなたは――」
レイは通話を切ってスマホを捨てた。
リンを抱えたまま、外へ出た。
空気が冷たくて、肺が痛い。
夕方の光が薄く、すでに街灯が点き始めている。
冬は日が落ちるのが早い。
レイは人目につきそうな場所――家から少し離れた角にリンを寝かせた。
誰かが見つければ、救急車を呼ぶだろう。
リンは“被害者”の顔をしていればいい。
レイは背を向けた。
足がふらつく。
血が抜けている。
傷が、ようやく本気で痛み始めた。
レイは歩いた。
歩くしかなかった。
夜が来る。
どこに行っても、夜は来る。
人がいない道を選んで進んだ。行くあてもなく。
風が冷たく、指先が痺れる。
視界の端が暗く狭くなる。
レイは壁に手をついた。
そこから先は、覚えていない。
ただ――最後に思ったのは、リンの涙の温度だった。
冷たかった。
あんなに冷たい涙を、レイは知らない。
膝が折れた。
アスファルトが頬に触れ、硬さだけが確かだった。
遠くで足音がした気がする。
誰かの影が近づく気配。
冬の夜の匂いとは違う、少しだけ甘い空気。
レイはそれを掴む前に、意識を手放した。




