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彼が信じられない、と言わんばかりに呆気にとられて、ぽかんとした。
「君は…何を言ってるんだ?今なら…自由、になれるんだぞ?」
「分かってる……でも貴方を一人で置いては、いきたくない」
ぎりぎりと彼は自分の拳を強く握りしめた。
「駄目だ、君は自由になるんだ。今度こそ、思いのままに生きていかなくては…今までずっと苦しんできたんだから」
「それはでも…貴方も同じよ」
「違う、違うんだ。お願いだ、エラ、聞いてくれ…俺の言い方が悪かったのかも知れない。俺が君のことを好きで好きでどうしようもないから、きっと君は同情してくれたんだろう?俺はエラのために檻に入ることはちっとも苦ではないんだよ、むしろ喜んで檻に入るんだ。だから君は気にせず、自由に―――」
エラは我慢できずに立ち上がると、目の前の男に抱きついた。男の体が歓びでぶるっと震えたが、彼は鉄の意志で自分の腕をエラに回すことはしなかった。
「お願い、もう何も話さないで…これでいいの」
「そんな訳はない…分かっているだろう、俺はもうこの家から逃げられなくて…ジェームズとして生きることになるんだ。そうなると君はずっとブラウン家に囚われて生きることに…」
「そうよ…でも、檻の中に一緒に貴方がいるなら生きていけるわ」
その瞬間、彼の身体から一切の力が抜け、腕がだらりと垂れ下がった。
「エラ…俺は結局君を檻の中に閉じ込めることになって、自分を責め続けることになる…」
「ううん、これでいいの…こうしたいの」
彼女がもう一度言うと、彼の身体が細かく震え始め、おずおずとエラの身体に彼の腕が回されると―――遂にエラが望んだように、力強く抱きしめられた。
彼は自分の腕の中にいる華奢な女性を抱きしめながら、これは夢ではないかと思っていた。
ずっとずっと夢見ていた女性だった――あの人に、自分の息子の嫁に望んでいる令嬢よ、と教えられた瞬間に彼は彼女に恋をして、そして――2人が結婚したあの日に、彼女を永遠に失ったのだ。
彼女が家族とうまくいっていないのも、ずっと見ていたから知っていた。寂しそうな横顔に、憂いを帯びた瞳、それでも彼女はいつでも美しく、毅然と背筋を伸ばしていた。その強さにどうしようもなく惹かれたのだ。
ジェームズの日記を読んでいたから、彼は知っている――本当はジェームズも美しい彼女を心から望んでいたことを。それまで自堕落に生きてきたジェームズは、鬱陶しく思っている母が連れてきた婚約者に惹かれる自分を認めたくなかったようだ。その上でエラの気高さと聡明さに臆し、最初に虚勢を張ってしまうという間違いを犯した。それまで何かをまともに望んで、また手に入れる努力をしてこなかったジェームズは一度踏み外すと、最期まで修正することが出来なかった。
彼は自分のものにはならないエラに罵詈雑言をぶつけながら、同時に激しい後悔と焦燥感、渇望を覚え続けていたのだ。そうして徐々に心に隙間ができていき、その虚ろに巧妙に入ってきたルーリアに彼は逃げるように溺れた。自分で考えることを放棄し、したたかな女にうまいように操られ、最終的に戦場で命を散らす羽目になったのだ。
優しいエラなら憐憫の情を覚えるかも知れない。
けれども、彼はジェームズを憐れまない。どんな理由があったとしてもエラを散々傷つけたことは許すことは出来ないし、自分のしでかしたことに対する報いを受けただけだと思うからだ。
彼は、エラを救い出す役目を与えられたことを、心の底から喜んでいた。
彼が入れ替わり劇を引き受けたのは、エラのためであった。母と自分をあっさり見捨てたろくでなしの父親と今更人前で親しく話さなければならない苦痛に加え、ただただ自分を利用することしか考えていないあの人の指示に従わなければならない窮屈さは全て、エラをこのブラウン家から完璧に自由にすることが出来るから我慢出来たことであった。
あの人にも了解を得て、ルーリアの問題が片付いたら彼女と彼女の実家に何のペナルティも与えずに離婚することを約束していた。彼女の父親がろくでもないことは知っているから、ペナルティを課して離婚をすると、エラをまた政略結婚の駒に使うことしかあの男は考えないだろうからだ。
あの人に頼んで、それこそ彼女の父親の手の届かないどこかにエラを秘密裏に送ってやるのも、彼女が望むのであればしてやるつもりだった。そしてその見返りにこの家の闇に深く入り込みすぎた自分がこのままブラウン家という檻に閉じ込められることになっても本望だったのである。
けれど。
「本当に…俺と一緒に檻に…入ってくれるのか?」
未だにこれが現実だと信じられなくて彼女にそう尋ねると、腕の中の彼女が彼を見上げて、花が綻ぶように微笑んだ。
エラは自分を抱きしめている美しい夫に尋ねた。
「ねえ、貴方の本当のお名前は?」




