35.朝蔭
少しでも眠って体を休めた方がいいとアリアさんに促され、ほんの二時間あまりだったけれど、横になった眠った。
気が昂ってなかなか寝付けなかったけれど、やっぱり疲れていたんだろう。意識がぼんやりとし始め、夢の中に落ちていった。いつの間に寝入ったのか、それは憶えていないけれど、眠りにつく前の不安定な浮遊感だけは憶えている。それに夢を見たことも憶えていた。だけど目覚めた瞬間に夢は霧散して、漠然とした想いしか残らなかった。
どんな夢だったのか、はっきりと思いだせない。忘れてしまったはずなのに、胸の中に残ったこの切ない気持ちは何なのだろう。
短くおぼろげな夢……そこに、ユエル様がいたような気がした。
寝ても覚めてもユエル様のことばかりを考えている。それがなぜかしら哀しくて……切ないのかもしれない。
夢に現れたユエル様はどんな表情をしていただろう。
泰然自若と構えて、いつものように麗しく微笑んでいただろうか。不意を衝くような悪戯っぽい笑みを浮かべていただろうか。深緑色の瞳をわたしに向け、わたしの名を呼んでくれただろうか。わたしは、ユエル様の傍にいたんだろうか。
それとも……――
顔を横向け、サイドテーブルに置かれた時計を見ると、八時を少し回ったところだった。小さな置時計の横、クリスタルガラスのイヤリングが朝の優しい光を含んで、夜見るのとは違う色をきらめかせていた。
いつもより遅い起床時間に慌て、急いでベッドから降りて着替えを済ませた。アクセサリー類は身につけず、いつもと変わらない、動きやすくてシンプルなデザインのワンピースを選んだ。
サイドテーブルに置いたままのイヤリングは、ケースに入れて引き出しの中にしまった。せっかく買っていただいたのだから、イヤリングでもネックレスでも、本当なら身につけた方がアリアさんには喜んでもらえるだろうけど、また落としてしまったらと思うと怖いし、普段つけ慣れないから、どうしても気後れしてしまう。
「…………」
イヤリング、ユエル様は似合うと言ってくれた。そういえばピアスホールを開けるといいようなことも言っていたっけ。ユエル様、憶えているだろうか。倒れる直前のことだったから、もしかして記憶にないかもしれない。
ふうっと大きく息を吐き出して、肩の力を抜いた。それから耳を澄ませてみる。
屋敷内はひっそりとした空気に包まれていて、まだみんな起き出していないようだった。
窓を開けて、朝の新鮮な空気を室内に入れて空を仰ぎ見た。
落葉松の木々の隙間から見える空は、澄みきった水色。白い断片雲があちらこちらに散らばって、頼りなく形を変えて悠然と流れている。聳える落葉松の林から細い朝日がさしこみ、時折風に揺らぐ葉先がきらきらと光って、小鳥のさえずりと涼やかな風の音が深緑の森を渡っていく。
高原の朝は清々しい。肌に吸いついてくるような湿度の高い微風も心地よい。
背筋を伸ばして深呼吸をした。吸いこんだ空気が冷たくて、鼻の先が少しだけツンと痛んだ。
両手で軽く頬を叩いて、気合いを入れる。
「……んっ」
それからもう一度背伸びをした。両手を組み、そのまま腕を前に伸ばした。
朝の眩しい光を浴びて、ほんの少しだけ気持ちが軽くなったように思う。
顔を洗って髪も整えて、身支度を済ませたらユエル様の様子を窺いに行こう。きっとまだ眠ってるだろうけど、そろそろ起こしても良い時間だ。
昨夜のことは憶えてなくてもいい。ともかく元気になってくれさえすれば。
わたしは踵を返し、少し早足になって部屋を出た。
洗顔等を終え、あちこちと跳ねてる髪を手櫛で整えつつ、一階の洗面所を出て、そのまますぐにまた二階へと戻った。階段をのぼりきったところで足を止め、右側の方に一度目をやった。けれど左側に足を向け、そちらへ歩き出した。
ユエル様を起しに行く前に、まずはイレクくんのいる客間へ行くことにした。
階段をのぼって、右手、目の前の部屋はわたしが使用している。物置部屋を挟んだその隣が、ユエル様の寝室。さらにその奥の角部屋はイスラさんが使っている。
階段の左手側にある客間はアリアさんとイレクくんにそれぞれ提供した。どちらもそこそこに広い部屋でクローゼットもベッドもある。
ひと夏の仮住まいにしてはずいぶんと広い屋敷だと、ここでもう何日か過ごしていても常々思ってしまう。付近にも、広い敷地を有する立派な屋敷は何件もあったけれど、これほど大きな屋敷は見当たらない。個人所有の「別荘」にしては無駄に広くて豪華で、管理だって大変だろう。――そう思ってしまうのは、わたしが根っからの庶民だからなんだろう。わたしが以前……“人間”だった頃に働いていた子爵家の屋敷は当然もっと広かった。避暑地に別荘もあったようだけど、やっぱりこのくらい広い別荘だったんだろうと、過去にまでふけってしまった。
今わたし達が仮住まいにしている屋敷は、外国のお貴族様が避暑のための別宅として建てさせたもので、同様に、この周辺に幾つかある別荘のほとんどが外国人貴族向けのお屋敷だったらしい。それでなのか、洋風の作りの建物が多い。当時の流行りもあったろうけど。
近年、リゾート開発会社が土地ごと買い取り、外観をなるべく崩さず小ぢんまりと建て直したり、店舗用に改築したりして、広く一般に売りに出したのだと、この屋敷を非合法的な手段で手にいれた後、ユエル様が教えてくれた。
お貴族様のお屋敷なら、本来使用人は別棟に寝所を与えられているはず。実際それらしき建物はあったようだけど、ここを買い取った不動産屋さんが不要と判断して潰してしまったらしい。その建物があった場所は、今は駐車場になっている。煉瓦を敷きつめて舗装はしてあるけれど、ずっと使われていないため、雑草が蔓延っていて轍もうっすらとしか残っていない。
わたしが使わせてもらってる部屋からは見えないけれど、二階の北側の窓からはそこが見える。屋敷の北側、モミジやカエデ等の木々が枝葉を重ねて浅緑色の綾を作っている。草木が鬱勃として生えている苔むしたその場所は、射し込んでくる朝日も弱い。林立する落葉松のために見通しは悪く、まるで緑色の檻に閉じ込められているみたいだ。
二階の客間、屋敷の北端の部屋を、イレクくんはユエル様に依頼された何かを精製するために選んで、こもった。「不慮の事故」が起こるかもしれないと考慮して、わざわざ一階のリビングやキッチンから離れた場所を選んだのかもしれない。……爆発なんてされたら、屋敷のどの場所でも危険は変わりないと思うのだけど。
ともあれ、今のところ何事も起こらずに済んでいる。何を精製しているのかは分からないけど、化学的な事故による爆発は起こらなかった。異臭も漂ってこない。
実のところ、それらの心配をしていられる余裕はなくて、今頃になってやっと「そういえば」って気づいた。
部屋から出た様子もないし、……イレクくん、無事なのかな?
ドアをノックすると、ややあってからパタパタと足音が聞こえて、ホッと胸を撫でおろした。ともあれ、無事のようだ。
ドアはすぐに開き、イレクくんが顔をのぞかせた。イレクくんの顔を見るや、わたしは思わず目を瞬かせ、まじまじとその顔を見つめてしまった。
だってなんというか……、いかにも徹夜明けという顔なんだもの。瞼も上がりきってないぼんやりとした寝ぼけ眼で、髪も着衣も乱れていて、ちょっとだらしないような有様だった。
まだ出会って間もないけど、イレクくんは常に身ぎれいにしていて、しゃんとした佇まいでいるというイメージがあるから意外だったし、とまどってしまった。
イレクくん自身、少し気恥ずかしそうだった。
「お早うございます、ミズカさん」
「……お、おはよう、イレクくん」
黒い腕カバーをはずしながら、イレクくんはにこりと笑った。依然、ぼぅっとした顔つきではあるけれど。
「イレクくん、もしかしてずっと起きてたの?」
開けられたドアの隙間から部屋の様子を覗き見た。だけどそこに「化学実験室」的な様子はなく、煙も上がっていなければ異臭も感じられなかった。
「そうなりますね。作業に没頭してて気づきませんでした」
不眠不休で疲れてないかと尋ねると、イレクくんは「よくあることですから」と言って照れくさそうに笑った。それに吸血鬼である僕達は、何日か不眠でも平気なんですよと言い足した。“寝貯め”ができますからね、と。
それからイレクくんは表情を改め、わたしの顔をじっと見つめてきた。
「それよりもミズカさん、昨夜、何かありましたか?」
「え?」
「ミズカさんも寝不足顔だから、もしかして昨夜、何か困ったことでも起こって眠れなかったのかと……」
「あ、うん、あの……」
口ごもり、即座に答えられなかった。
何もなかったと答えるのは不自然だろう。だけどどう説明してよいやら、言葉を選びかねた。話せば長くなるだろうし、うまく説明できる気もしない。どうしようかと迷い、結局曖昧に返すしかできなかった。
「ちょっとだけ困ったことがあったんだけど、イスラさんに助けてもらえたから」
「イスラに?」
「う、うん……」
「そうですか」
返答に窮し、困り顔をしているわたしの心緒を気遣ってくれたのだろう。イレクくんは詮索してはこず、さらりと受け流してくれた。
「不肖の父が多少なりともミズカさんのお役に立てたなら、よかったです」
そう冗談めかして笑ってから、イレクくんは話題を転じた。
アリアさんはどうしているのかと尋ねてきて、わたしは手短に、アリアさんは早朝に屋敷に戻ったことと今は客間で眠っていること、正午前には起こしてほしいと頼まれたことを説明した。
「そういうことなら僕も昼まで休みたいのですが、構いませんか? 店は開くんでしたよね? 受付の方、ミズカさんお一人で大丈夫ですか?」
「うん、もともとわたし一人で受け付けしていたんだから、大丈夫」
「すみません、それじゃぁお言葉に甘えさせてもらいますね。アリアさんが起きる頃には僕も起きます。ユエル様から頼まれた用事が他にもありますし」
「ユエル様の頼み事って……」
「ほんの雑用です。昼からちょっと出かけてきますが、ミズカさん達がパーティーに行く前までには、またここに戻ってきます」
「うん……」
ユエル様の頼み事ってなんだろう? 気になったけれど、聞くタイミングを逃してしまった。聞き返せる雰囲気でもなかったし、きっと訊いてもごまかされてしまう気がした。
胸が少し痛んだ。
今までなら、ユエル様は他愛ない用事ならわたしに言いつけてくれた。それなのにどうして何も言ってくれないんだろう? わたしには頼めない類のことなんだろうか?
何でもかんでも、ユエル様の用事ならわたしがやりたいなんて思い上がったことは言えない。
だけど、一人取り残されたような気分に陥って、無性に寂しかった。
こんな疎外感を抱くのも分に過ぎたことなのに。
「ミズカさん」
「え、……あ、なに、イレクくん?」
わたしは俯きかけていた顔をはっとして上げた。イレクくんの心配げな瞳とぶつかった。
「……いえ、なんでもありません」
イレクくんはきっと、わたしの腫れぼったい眼に何か気づいたことがあったのかもしれない。けれど、あえて何も聞いてはこなかった。
イレクくんの穏やかな表情に、イスラさんの面影が重なった。少年らしい悪戯っぽさを茶色の双眸と包容力のある優しい笑顔は、やっぱり親子なだけあってどことなく似ている。
ただ、イレクくんの方が物静かで口数が少ない分、まなざしが深い。心を見透かしてくるような瞳の鋭さを柔和な笑みで包んでいるような感じを受ける。イレクくんは凄腕の幻術使いらしいけれど、納得できる気がした。
そういうイレクくんに真正面から見つめられ、わたしは少々居たたまれない心持ちになり、短い間隔で瞬きを繰り返し、視線を泳がせた。
このまま黙っているのも不都合だし気まずい。だけど、何か喋ろうにも会話の糸口すら見つけられなかった。
「ミズカさん」
イレクくんが、労わるようにそっとわたしの手を取った。軽く片手を握り、わたしをじっと見つめる。そして穏やかな笑みを目元に湛えて言った。
「大丈夫ですよ、ミズカさん」
「え?」
「だからどうか、自分自身から無理に目を逸らさないでください」
「…………」
イレクくんはいったい何を言おうとしているの?
目を逸らすって……? わたし自身から?
どういう意味なのか、それを訊こうとしたのだけど、イレクくんの穏和でありつつも揺るがない笑みと真摯なまなざしに、問いかけようとした声を押し込まれてしまった。
イレクくんはわたしの手をぎゅっと握った。
がんばって。そう言うかのように。
「ミズカさん、心を偽らないで。信じて待ち続けているユエル様のためにも」




