第九十七話 水着とパンケーキ
この店の試着スペースは、個室型の試着室というわけではなく、広い別室が設けられていた。
雪理、黒栖さん、そして英愛が案内されて中に入り、十五分ほどが過ぎている。急かすなんてことはないが、コーヒーを出されて待つこの時間が、落ち着かなくて仕方がない。
「それにしても驚きました、雪理お嬢様がお友達を連れていらっしゃるなんて」
「ははは……俺も驚いてますが、必要な買い物ということで」
店員さんは三十歳前後というように見えるが、俺に対して完全に敬語だ――接客対応であれば変なことでもないが、雪理の友人というのがやはり大きいのだろう。
「お嬢様とは高校でお知り合いになられたのですか?」
「はい、通ってる科は違うんですが、縁あって……」
「そうなんですね。これからもお嬢様とご懇意にしていただけましたら、私どもも大変嬉しく思います」
「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます」
話していると、試着室の中からもう一人の店員さんが出てきた。何かあったのだろうか、と思っていると――俺のほうを見て微笑む。
「神崎様、お嬢様がたがお呼びですので、こちらでお待ちください」
「は、はい」
逃げるわけにもいかず、試着室前まで連れていかれる。呼ばれたら入室するようにと言われ、椅子に座って待っていると、話し声が聞こえてきた。
「あ、あのっ、やっぱり私、こちらの方の水着で……」
「それも似合っていると思うけれど、いいの?」
「あはは……恋詠さん、これってスクール水着ですよ?」
「合宿での自由時間に使用する水着だから、デザインは自由に選んでいいのよ。胸が苦しかったのならサイズの調整をすればいいわ」
「い、いえ……その、上下がこういった形で分かれている水着は、やっぱり色々……その、見えてしまって……」
「そうね……じゃあ、こっちの水着はどうかしら」
何が見えているのか、とても気になる。かつてないほどの動揺――こんな時こそ呪紋を使い、精神を落ち着けなくてはならない。右手にリラクルーン、左手にリラクルーン、極大鎮静呪紋ツインリラクルーン――なんてものはない。
「雪理さんは大胆な水着なのに落ち着いてて、もう女優さんって感じです……凄いです」
「そんなことはないわ、大胆というのはこういうデザインのことだから」
「っ……ほ、ほとんど紐ですね……」
「そちらはカタログには載せておりますが、お嬢様方がお召しになるには少し……」
「動きやすいのは良いけれど、布地が少なすぎるわね。全体のバランスを考えないと」
「でも、大胆な方がお兄ちゃんが喜んだり……はしないかな?」
布地の少ない水着が好きというわけではない、いや好きなのかもしれないが、二人に着てもらいたいなんてそんなことは――と、英愛の発言に動揺させられる。
「…………」
「……え、えっと……玲人さんがお好きかどうかは置いておいて、すみません、この水着にしようと思います……っ」
「かしこまりました。では、一度見ていただきましょうか」
ついにお呼びがかかる。試着室の扉が開き、俺の目に飛び込んできたのは――それぞれビキニタイプの新しい水着を身に着けた、雪理と黒栖さんの姿だった。
「待たせてごめんなさい、玲人。この水着にしようと思うのだけど……」
「い、いかがでしょうか……その、この夏はこのタイプが流行りだそうで……」
分かってはいたことだが、二人とも胸が大きいので、ビキニだと隠しようもなくその豊かさが強調される。
さっきまで服を着ていた二人が、肌を露わにした水着姿でいる。本当に見てもいいのだろうか、そう思わずにはいられない光景だ。
「……見るだけじゃなくて、そろそろ何か言って欲しいのだけど」
「っ……あ、ああ、凄く似合ってる」
「それだけじゃなくて……なんて、言わせているみたいで良くないわね。黒栖さんの水着はどうかしら」
雪理よりさらに胸が大きい黒栖さんが、どうやって新体操をやっていたのか――なんてことを考えてしまっている俺は、一度怒られた方がいいと思う。
「その……このタイプだと、最初に試着したタイプより、おとなしめというか……あまり、肌が出ていないので……」
肌が出ていないほうでこれなのか――それこそ、変更する前は紐に近かったんじゃないだろうか。駄目だ、俺の脳は熱でやられている。
それにしても、さすがは折倉家御用達の店だと言わざるを得ない。これほど二人に似合う水着が見つかるとは――英愛も着ているのだが、ちゃっかり自分だけは上にお店のロゴが入ったTシャツを着ている。
「お兄ちゃんはこの水着が気に入ったってことでいいのかな?」
「あ、ああ。気に入ったというか……俺はここにいてもいいのかって感じだけど」
率直な気持ちだが、雪理と黒栖さんは顔を見合わせ、顔を赤らめつつ笑う。
「本当に見てくれると思わなかったから、玲人には百点をあげるわ」
「っ……そ、そうだったんですか?」
「玲人の意見は聞きたかったけれど、やっぱり改めてこうしてみたら恥ずかしいもの」
「お嬢様、大変堂々としていらっしゃいました」
恥ずかしいけれど俺に見せたかったと言われて、感激しないわけもない――しかし。
試着室から出されたあと、鼓動が早まりすぎていることに気づいた俺は、自分を落ち着かせるために苦労することになった。
◆◇◆
それからメンズのフロアに移動して、水着を見てもらったお返しとばかりに大量の試着をさせられた。
三人それぞれの意見を尊重して結構服を買ったので、自宅に送ってもらった。その後は黒栖さんが話していた通りに、駅前通りにある人気のカフェにやってきた。
「パンケーキをお店で食べるのは初めてなのだけど、すごく美味しい……シェアして食べるには丁度いいわね」
「は、はい……英愛ちゃんは大丈夫ですか?」
「はむっ……はぁ~、美味しい。こうしてクリームの山を崩すときって、幸せ感じちゃいますよね♪」
男性でもギブアップするラーメンを平気で攻略してしまう妹は、今回も一人で特大パンケーキに挑んでいた。俺は飲み物だけで良かったのだが、妹に押し切られて普通サイズのパンケーキを食べている。後でシェアしたいとのことでソースとトッピングは異なっているが。
「じー……」
「な、なんだ? ちゃんと俺も食べてるぞ」
「そうじゃなくて、こんなにいっぱい食べても成長の差が……って思ってるでしょ」
「っ……い、いえ、英愛ちゃんはちっちゃい方が……ではなくて、成長期がまだまだこれからだと思いますし……っ」
黒栖さんの反応で、英愛が何の話をしてるか気づく。雪理も黒栖さんも、確かに栄養がある箇所に集中して――視線を送ったら社会的に死ぬので、迂闊な動きはできない。
「それだけ食べても凄く痩せているのよね。英愛さんは何か部活をしているの?」
「えっと、水泳部に入ってます。それと家庭科部も」
「そ、そうなのか? 俺も初耳なんだが」
「うちの中学校は、部活にいくつ入っててもいいから。夏はプールに入れるし、さとりんといなちゃんも入ってるよ」
エンジョイ勢的な部活ということなら、試合に向けて猛練習とかそういうことも無いということか。そして友達三人で水泳部というのも、泳ぐのが好きなら楽しそうではある。
「水泳は私もトレーニングでしているのよ。学園にも温水プールがあるしね」
「いいなー、うちの学校のプールって夏だけなので」
「うちの附属中学の生徒なら、学生証があれば入れると思うわ。英愛さんも、黒栖さんも良ければ一緒に行きましょうか。玲人は泳ぐのは好き?」
「プールの授業は毎年楽しみだな。暑い季節のオアシスだから」
「お兄ちゃんと競争してみたいな。私はクロールが得意だから、クロール勝負ね」
「自分のフィールドに引き込んでいくな……まあ英愛の方が速そうだけどな」
「じゃあ、早速明日あたり予定を入れていい? トレーニングのついでに一時間くらい」
「一時間でも嬉しいです、みんなで遊べるなら。あ、友達も誘っていいですか?」
土日というと中学時代はゲームに熱中していたものだが――『アストラルボーダー』の攻略も重要だが、外に出る用事も疎かにはしたくない。
平日も雪理とは会う時間があるが、科の違いはやはり大きい。彼女のトレーニングを見られるかもしれないし、一緒にやれるなら勿論それでもいい。
「じゃあ……明日は学園に集合ってことでいいかな」
「ええ。玲人、トレーニング用の着替えを持ってきてね。黒栖さんも」
「はい、ちゃんと持って行きます。お誘いいただいてありがとうございます……っ」
「今日、これで解散になっちゃうの少し寂しいなって思ってたので嬉しいです。お兄ちゃん、明日も一緒だね」
「ま、まあそうだが……」
英愛が人前でも俺に懐いていることを隠さないのは、少々こそばゆいものがある。
「『まあそうだが……』なんて、硬派な答えね、玲人。お兄ちゃんの威厳を保とうとしているというか」
「っ……せ、雪理。今日は結構キレが鋭いな……」
「ふふっ……いえ、もっと喜んで欲しいと思っただけよ。こんなに可愛い妹さんなのだから」
「玲人さんと英愛さんを見ていると、その……微笑ましいというか、いいなって思います」
「あはは……ごめんお兄ちゃん、私も今さら恥ずかしくなってきちゃった」
それこそ今さらだと思うが、勿論悪い気がするはずもなく。
「お兄ちゃん、そろそろ交換する?」
「ああ、そうだな」
「チョコバナナも美味しそうだよね。私のベリーパンケーキも、はい、あーん」
ごく自然に差し出してくる英愛は、やはり策士だ――クリームが落ちてしまう前に食べなければならない、つまり選択の余地はない。
「美味しい?」
「そりゃ美味いけど……自分で食べられるからな?」
「やっぱり。私でも、玲人のリアクションは想像がついたわ。これをツンデレ……? って言うのかしら」
「え、えっと……玲人さんは、あまりツンとしたところは無いと思います」
じゃあデレしかないのか、と黒栖さんには言い返しにくい。そして俺は再び妹に差し出されたパンケーキを、餌付けされるかのように食べるしかないのだった。
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