第88話 風切り峠の長老竜と竪琴の奇跡
『癒しの竪琴』を手に入れた俺たちは、
エルム様に教えられた道筋を辿り、
ウィンドランナーたちが棲むという、
『風切り峠』へと向かった。
そこは、その名の通り、
一年中、身を切るような強い風が吹き荒れる、
険しい岩山が連なる場所だった。
木々はほとんど生えておらず、
ただ、風が岩肌を削る、
ヒューヒューという音が、
不気味に響き渡っている。
「ここが、ウィンドランナーたちのねぐらか…。
確かに、並の生き物じゃ、
こんな場所に住み着こうとは思わんな」
ギドさんが、周囲を見回しながら言った。
「ケンタさん、見てください!
あそこに、たくさんの洞窟が…!」
リリアさんが指差す先には、
切り立った崖の中腹に、
まるで蜂の巣のように、
無数の洞窟の入り口が見えた。
あれが、ウィンドランナーたちの巣なのだろう。
俺たちは、リュウガと共に、
ゆっくりと崖へと近づいていった。
すると、どこからともなく、
鋭い風切り音と共に、
数頭のドラゴンが俺たちの前に姿を現した!
彼らは、リュウガよりも一回り小さく、
しかし、よりしなやかで、
そして驚くほど俊敏な動きを見せる。
その翼は、まるでカミソリのように鋭く、
全身の鱗は、風の色を映したかのように、
淡い青緑色に輝いていた。
ウィンドランナーだ!
彼らは、明らかに俺たちを警戒しており、
鋭い爪と牙を剥き出しにして、
威嚇の声を上げている。
その目は、人間への不信感で濁っていた。
「待ってくれ!
俺たちは、戦いに来たんじゃない!
お前たちの長老に、話があるんだ!」
俺は、両手を広げ、
敵意がないことを示しながら叫んだ。
だが、ウィンドランナーたちは、
俺の言葉に耳を貸そうとしない。
それどころか、一斉に襲いかかってくる勢いだ!
「くそっ、話が通じないのか…!」
俺が剣を抜こうとした、その時だった。
「…お待ちなさい」
崖の最も高い場所にある、
ひときわ大きな洞窟の入り口から、
威厳のある、しかしどこか物悲しい声が響いてきた。
声の主は、
他のウィンドランナーたちよりもさらに大きく、
そして、その鱗には、
長い年月を生きてきた証であるかのような、
深い傷跡が刻まれた、
一頭の老いたドラゴンだった。
彼こそが、ウィンドランナーの長老に違いない。
長老竜は、ゆっくりと俺たちの前に降り立つと、
その鋭い、しかしどこか寂しげな瞳で、
俺たちをじっと見つめた。
「…人間よ。
そして、瑠璃色の竜よ。
何の用だ?
我らウィンドランナーは、
もはや人間とは関わりを持たぬと決めたはずだが」
長老竜の声は、
風のように冷たく、そして重かった。
「長老殿、我々は、
あなた方に危害を加えるつもりは毛頭ありません。
ただ、あなた方の力を貸してほしいのです。
このアースガルド大陸の物流を、
より良く、より多くの人々のために変えるために…」
俺は、必死に訴えかけた。
だが、長老竜は、
ふんと鼻を鳴らし、冷ややかに言った。
「人間の甘言には、もう騙されぬ。
かつて、我らも人間を信じ、力を貸したことがあった。
だが、その結果はどうだ?
我らは裏切られ、仲間を失い、
そして、この風切り峠の奥深くに
追いやられることになったのだ…」
長老竜の言葉には、
人間への深い絶望と、
そして癒えることのない心の傷が滲んでいた。
「そんな…」
俺は、言葉を失った。
彼らが、そこまで人間を憎んでいるとは…。
その時、リリアさんが、
そっと一歩前に出て、
大切に抱えていた『癒しの竪琴』を、
長老竜の前に差し出した。
「長老様…
私たちは、あなた様の心の傷を、
少しでも癒すことができればと思い、
この竪琴を、森の賢者エルム様に導かれて
ここまで運んでまいりました。
どうか、この竪琴の音色を、
一度だけでも聞いていただけないでしょうか…?」
リリアさんの声は、
竪琴の音色のように、
優しく、そして清らかだった。
長老竜は、
リリアさんが差し出した竪琴を、
驚いたような、
そしてどこか懐かしむような目で見つめていた。
その瞳の奥に、
ほんのわずかだが、
何かが揺らめいたように見えた。
リリアさんは、
長老竜の前に静かに座ると、
ゆっくりと竪琴の弦を爪弾き始めた。
ポロロン…ポロロン…
竪琴から紡ぎ出される音色は、
まるで天上の音楽のように美しく、
そしてどこまでも優しかった。
それは、風切り峠の荒々しい風の音を鎮め、
傷ついた長老竜の心を、
そして、その場にいた全ての者たちの心を、
温かく、そして深く癒していくようだった。
ウィンドランナーたちも、
いつの間にか威嚇を解き、
その美しい音色に、
ただ молча聴き入っている。
リュウガも、ピクシー・ドレイクたちも、
そしてギドさんまでもが、
その奇跡のような音楽に、
心を奪われていた。
やがて、一曲の演奏が終わると、
風切り峠には、
これまでにないような、
穏やかで、そして優しい静寂が訪れていた。
長老竜の、
厳しく、そして悲しみに満ちていた瞳からは、
一筋の、温かい涙が流れ落ちていた。
「…なんと…優しい音色だ…
まるで、古の森の精霊たちが、
我らを祝福してくれているかのようだ…」
長老竜の声は、震えていた。
「人間よ…そして、薬屋の娘よ…
お前たちの真心、確かに受け取った。
この竪琴の音色は、
長年凍てついていた、わしの心を溶かしてくれたようだ…」
長老竜は、
ゆっくりとリリアさんに近づくと、
その大きな頭を、
感謝の意を示すかのように、
そっと彼女の小さな肩に寄せた。
その光景は、
まるで、長年の確執を乗り越え、
新たな絆が生まれた瞬間を物語っているかのようだった。
俺たちの、
そしてリリアさんの真心が、
ついに、頑なだった長老竜の心を動かしたのだ。




