第122話 覚醒への一滴
工房の中に満ちていた、
あの、魂が震えるような、
芳醇で、力強い生命の香り。
それは、ギドさんが、
ドワーフに伝わる秘術を使い、
特殊な、そして神聖な紋様が刻まれた
ミスリル銀の樽へと、
一滴も、その一滴の輝きすらも損なうことなく、
完璧に、そして厳重に封印された。
伝説の酒、『山の心臓』。
アースドラゴン『マグナ』を、
その、何世紀にもわたる永い、永い眠りから目覚めさせるための、
唯一の、そして最後の鍵。
その、奇跡の産物を前に、
俺たちの心は、
これから始まる、本当の、そして神聖な儀式への、
期待と、
そして、ほんの少しの畏れで、
静かに、しかし確かに、高鳴っていた。
「…よし」
ギドさんが、
樽を、まるで、
生まれたばかりの我が子のように、
慎重に、そして優しくリュウガの背中の
専用コンテナへと固定しながら、
低い、しかし、どこまでも真剣な声で言った。
「準備は、全て整った。
これより、我々は、
マグナの旦那が眠る、
その、大地の揺りかごへと向かう」
「小僧、嬢ちゃん、そして騎士の旦那。
これからの道のりは、
これまでの冒険とは、その意味が、その重みが違う。
俺たちは、ただ、
大地の王に、挨拶をしに行くんじゃない。
俺たちは、
この星の、そのものの心臓に、
触れようとしているんだ。
ゆめゆめ、そのことを、忘れるなよ」
ギドさんの、そのあまりにも荘厳な言葉に、
俺たちは、
ゴクリと、固唾を飲んで、
力強く、そして深く、頷いた。
***
今回の旅は、
これまでの、どんな冒険とも違っていた。
少数精鋭。
俺と、リリアさん、ギドさん、そしてカイ様。
もちろん、俺の翼であるリュウガと、
そして、リリアさんの護衛役を自ら買って出たシルフィ。
それだけの、本当に、
選ばれた者たちだけでの、静かな旅路だった。
アリア様や、他の仲間たちは、
ドラゴンステーションで、
俺たちの帰りを、
そして、奇跡が起こるのを、
祈りながら、待ってくれている。
その、仲間たちの想いが、
俺たちの背中を、温かく、そして力強く押してくれていた。
俺たちは、リュウガの背に乗り、
ギドさんの、その古い記憶だけを頼りに、
東山脈の、さらに奥深く、
人が、いや、どんな生き物も、
その足を踏み入れることを許さないような、
神聖な、そしてどこか物悲しい、
荒涼とした岩山地帯へと、向かっていた。
道中は、不思議なほど、静かだった。
魔獣の気配すらない。
ただ、風が、
巨大な、そして奇妙な形をした岩の間を、
ヒューヒューと、
まるで、大地の、その深いため息のように、
吹き抜けていくだけだ。
「…着いたぞ」
やがて、
ギドさんが、
低い声で、そう呟いた。
俺たちが、リュウガの背中から降り立った場所。
そこは、
巨大な、そしてどこまでも深い、
まるで、古代の神が、
その巨大な斧で、大地を真っ二つに引き裂いたかのような、
壮絶な、そしてどこか畏怖の念を抱かせるような、
大地の裂け目の、その崖の上だった。
裂け目の、その底は見えない。
ただ、地底の、その奥深くから、
ほのかに温かく、
そして、この星の、その生命の息吹そのもののような、
不思議な蒸気が、
ゆらり、ゆらりと、立ち昇っている。
空気が、ビリビリと、
凝縮された、純粋な魔力で震えているのが、
肌で、感じられた。
(ここが…
マグナが眠る、大地の揺りかご…)
俺は、その、あまりにも神々しく、
そして、あまりにも圧倒的な光景に、
ただ、言葉を失っていた。
ギドさんは、
リュウガの背中から、
あの、神聖な輝きを放つ、
ミスリル銀の樽を、
まるで、教会の神父が、
聖杯を運ぶかのように、
厳かに、そして慎重に、降ろした。
そして、
一人、
その、大地の裂け目の、
崖の、そのギリギリの縁まで、
ゆっくりと、しかし確かな足取りで、進み出た。
俺たちも、
息を殺して、
その、ドワーフの、
小さく、しかし誰よりも大きく見える、
その背中を、見守る。
ギドさんは、
崖の縁に、静かに膝をつくと、
懐から、
彼の故郷の山の、
その土を一掴み、取り出した。
そして、その土を、
風に乗せて、裂け目の奥へと、
そっと、還すように、撒いた。
それは、おそらく、
大地への、そして、その王への、
ドワーフに伝わる、
最も、敬意に満ちた、挨拶の儀式なのだろう。
彼は、静かに、
古の、ドワーフの言葉で、
何か、祈りのようなものを、
呟き始めた。
その声は、
風に乗り、
裂け目の、その奥深くへと、
吸い込まれていく。
やがて、
ギドさんは、
静かに立ち上がると、
ミスリル銀の樽の、
その、厳重な封印を、
ゆっくりと、そして、
これから生まれる奇跡を、
その全身全霊で、味わうかのように、
解き放った。
プシュウウウウウッ…!
樽の、その口が開かれた、その瞬間。
俺たちの、想像を絶するほどの、
芳醇で、甘く、
そして、どこまでも力強い、
生命そのものの香りが、
まるで、爆発するように、
周囲の、その全ての空間を満たした!
嗅いだだけで、
魂が、その奥底から震え、
そして、歓喜するような、
まさに、神々の、そして王のためだけの、
究極の、そして至高の香りだった。
「おお、偉大なる、大地の王よ!」
「永き眠りにつきし、動かざる山の主、マグナよ!」
ギドさんの、
その、大地そのものを揺るがすかのような、
力強い、そして魂からの声が、
渓谷全体に、こだました!
「我ら、山の、そのちっぽけな子らは、
今、再び、この地へと還り来たれり!」
「そして、あなた様への、
我らが捧げることのできる、
最高の、そして唯一の、
心からの供物を、ここに、携えて!」
「この、『山の心臓』を、
どうか、お受け取りください!」
「そして、願わくば、
その、永き、永き眠りから、
その、あまりにも気高き、古の瞳を、
今一度、
我らのために、開きたまえぇぇぇっ!!」
ギドさんは、
その雄叫びと共に、
ミスリル銀の樽を、
大きく、そして力強く、傾けた!
黄金色に、
そして、この星の全ての生命の輝きを
その内に凝縮させたかのような、
神々しい液体が、
まるで、天から降り注ぐ、
光の滝のように、
大地の、その深い、深い裂け目の中へと、
吸い込まれていく!
それは、
あまりにも、あまりにも、
美しい光景だった。
液体は、
ただ、落ちていくのではない。
まるで、乾ききった大地が、
恵みの雨を、その全てで受け止めるかのように、
裂け目の、その岩肌に、
じわり、じわりと、
そして、どこまでも深く、染み込んでいく。
そして、
一瞬の、
永遠にも感じられるほどの、
静寂。
(…失敗、したのか…?)
俺の心に、
ほんの少しの、しかし氷のように冷たい、
不安がよぎった、その時だった。
ゴ……
ゴゴ……
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!
来た…!
最初は、
遠くで鳴る、雷のような、
微かな、しかし確かな、地鳴り。
それが、
次第に、次第に、
その強さを増していく!
大地が、揺れている!
いや、違う!
大地が、脈打っているんだ!
まるで、永い眠りから目覚めようとする、
巨大な、巨大な心臓が、
その、最初の、そして力強い鼓動を、
再び、刻み始めたかのように!
足元の、小石や岩が、
カタカタと、小刻みに、
そして楽しげに、踊り始める!
裂け目の、その奥深くから、
先ほどの、比ではないほどの、
強烈な、そして圧倒的な黄金色の光が、
天に向かって、迸る!
「うわぁっ!?」
俺たちは、その、あまりの地響きに、
立っていることすらままならない!
リュウガも、
その、自分すらも凌駕するかもしれない、
圧倒的な、そして根源的な力の奔流の前に、
警戒と、そして畏敬の念を込めた、
低い、低い唸り声を上げている!
そして、ついに、
その、奇跡の瞬間が、訪れた。
俺たちの、目の前の、
その、広大な大地そのものが、
まるで、生き物のように、
ゆっくりと、
そして、絶対に抗うことのできない、
絶対的な力をもって、
盛り上がり始めたのだ!
それは、もはや、
ただの、地殻変動ではない。
山が、
一つの、巨大な山脈が、
俺たちの目の前で、
生まれようとしていた。
いや、違う!
あれは、山なんかじゃない!
それは、
あまりにも巨大な、
そして、俺たちの、ちっぽけな想像力など、
赤子の戯言のように、
遥かに、遥かに超越した、
アースドラゴン『マグナ』の、
その、岩石の鱗に覆われた、
頭部と、そして、山脈そのものであるかのような、
その、巨大な、巨大な、肩だった!
マグナが、
その、何世紀にも、いや、何千年にもわたる、
永い、永いる眠りから、
今、まさに、
その、巨体を、起こそうとしている!
そして、
二つの、
まるで、地底の、その奥深くで、
静かに、しかし確かに燃え続ける、
マグマ溜まりのような、
どこまでも深く、そして温かい、
琥珀色の、巨大な瞳が、
ゆっくりと、
本当に、ゆっくりと、
その、重い、重い、岩の瞼を、
持ち上げた。
その、古代の、
そして、この星の、全ての歴史を、
その、穏やかな輝きの内に秘めているかのような瞳が、
真っ直ぐに、
俺たち、ちっぽけな、
しかし、彼を目覚めさせた、
その、勇敢な者たちの姿を、
確かに、そして力強く、捉えた。
大地の王が、
今、ここに、
完全に、そして完璧に、
覚醒したのだ。
その、あまりにも神々しく、
そして、あまりにも、
あまりにも、圧倒的な光景の前に、
俺たちは、
ただ、
言葉を、
そして、呼吸すらも、忘れて、
立ち尽くすことしか、できなかった。




